【一一五《割り切る。でも、許せない》】:二

「ごめん……凡人……」

「何について謝ってるんだ?」

「だって……凡人から貰ったテディベアが……」

「テディベアが壊れて俺が怒ってるように見えるか?」

「……でも、プレゼントが壊されたら――」

「凛恋は、凛恋が俺にくれたプレゼントを、俺以外の誰かが壊したら、俺のことを怒るか? 俺のことを嫌いになるか?」

「怒らないし……嫌いにもならない……」

「そうだろ? じゃあ、なんで謝るんだ。…………テディベアが壊れても、俺達は変わらないだろ?」


 本当は、テディベアなんかが、ただの物が、そう言う言い方をするべきだったのかもしれない。

 凛恋の罪悪感を軽くするために、テディベアを送った本人の俺がそうするべきだったのかもしれない。でも、どうしても出来なかった。


 俺は凛恋のプレゼントを適当に買ったことなんて一度もない。

 毎回、考え過ぎて倒れてしまうんじゃないかと思うくらい悩む。

 悩んで悩んで、悩み抜いてやっと決める。そして、プレゼントには全部凛恋の笑顔の思い出がある。

 凛恋がプレゼントに俺の思い出を収めてくれるのと同じで、俺も凛恋の思い出を収めている。


 そういう大切な物に、テディベアなんかとか、ただの物とか、そういう軽々しい扱いをしたくはなかった。

 でも、それでまだ一〇歳の健太くんを責めることは出来ない。


「凛恋……」

「叔母さん、ごめんなさい。私、今から彼氏の家に行くから……」

「ごめんなさい。でも、ぬいぐるみなら、僕が凛恋ちゃんにお年玉で買ってあげる」


 飯岡さんと一緒に外へ出て来た健太くんが、少し裏返った声でそう言う。

 凛恋に怒られて、凛恋と同じように頭に血が上ってやったんだろう。そして、涙を流す凛恋の様子を見てやっと罪の意識が芽生えた。

 ただ、まだ謝るという行為が、情けないとか格好悪いなんて考えてしまう時期なのかもしれない。

 不貞腐れて、投げやりな謝罪。それでは全く意味がないのは、俺なら分かる。でも、小学四年の健太くんはまだ理解し切れていない。


 きっと親や学校の先生から教えられているんだろう。『相手を悲しませたら謝りなさい』と。だから、相手が泣いていて悲しんでいると思ったら、健太くんは謝罪の言葉を発することは出来る。

 でも、健太くんは何故、人を悲しませたら謝らなければいけないのかという本質を理解していない。だから、健太くんの謝罪の言葉には誠意が感じられない。

 誠意の感じられない謝罪は相手の怒りを収めるどころか逆撫ですることしか出来ない。


「優愛ちゃん、凛恋を頼む」

「凡人さん?」


 ボロボロのテディベアを抱きかかえた凛恋を優愛ちゃんに託し、俺は一歩一歩健太くんに近付く。そして、健太くんの目の前にしゃがんだ。


「健太くん、健太くんが大切な物は何?」

「えっ? …………ゲーム」

「そっか。じゃあ、もし健太くんが大切にしてるゲームが、誰かに窓から投げられて地面に落ちて壊れたらどう思う?」

「それは……でも! 買えばいい!」

「それ一個しかなかったら? 投げられて壊れたらゲームしか、そのゲームがなかったら? もう二度と買えないとしたら?」

「ゲームはいっぱいあるし! 買えないわけない!」


 ギッと俺を睨み返し、健太くんは俺に反論する。

 俺が言うのは無駄なのは分かっていた。健太くんが俺の言うことに対して聞く耳を持たないのは分かっていた。でも、目の前で凛恋を悲しませた健太くんを見て我慢出来なかった。


 俺は健太くんを怒って躾けられる権利は持ち合わせていない。でも、俺には凛恋を守るという使命がある。

 もう二度と、健太くんから凛恋が傷付けられることを無くさなくてはいけない。だから、怒れないのなら諭すしかない。しかし、俺の言葉を素直に聞けるわけがない立場の健太くんには、そうすることも難しい。


 確かに健太くんの言う通り、ゲームと同じでテディベアは買えない物じゃない。

 きっと探せば俺が凛恋に買ったテディベアと同じものがあるだろう。でも、凛恋のテディベアはそうじゃない。

 俺が二年前のクリスマスに、凛恋のために悩んで悩んで選び抜いたテディベアは、世界でたった一つしかないのだ。


「健太。お兄ちゃんから凛恋ちゃんが貰ったテディベアは一個しかないのよ」

「そんな! おもちゃ屋さんに行けば買えるよ! クマのぬいぐるみは沢山あるもん!」

「健太? クマのぬいぐるみなら何でも良いってわけじゃないのよ? 凛恋ちゃんはお兄ちゃんがプレゼントしてくれたぬいぐるみだから大切にしてたの。健太はそれを壊したのよ。それに、凛恋ちゃんだけじゃなくて、健太に凛恋ちゃんへプレゼントしたぬいぐるみを壊されてお兄ちゃんも悲しいの」


 飯岡さんが健太くんの両肩を掴み、まっすぐ健太くんを見つめて言う。

 怒るわけではない、責め立てるわけではない、言い聞かせて理解させようとしている。


「買えるもんッ!」

「健太ッ!」


 健太くんは飯岡さんの腕から逃れると、八戸家の中に駆け込んでいく。

 それを見送った飯岡さんは悲しそうに小さくため息を吐いて、俺と凛恋の方を向いて深々と頭を下げた。


「凛恋ちゃん、多野くん……本当に、健太がごめんなさい。謝って許してもらえることじゃないのは分かってるわ。健太には二度とこういうことはしないように言い聞かせるから……」

「分かってます。気にしないでください」


 俺はそう言うしかなかった。そう言うしか、俺に出来ることはない。

 飯岡さんには申し訳ないし、人として大人げないとは思うが、飯岡さんの言う通り、俺はいくら飯岡さんに謝ってもらっても健太くんのやったことを許せるとは思えない。

 きっと、健太くんが誠意ある謝罪をしてきたとしても、許すことはしないだろう。でも、俺は言葉で理解したことを装って割り切るという、大人になるということが出来るだけの精神は持ち合わせていた。


 健太くんを説き伏せるのは、俺の役割ではなく飯岡さんの役割だ。だからもう健太くんのことは頭の中から切り捨てる。

 俺のやるべきことは、凛恋を守ることだ。


「凛恋、少し出掛けよう」

「凡人……うん……」


 俺が凛恋の手を握ると、凛恋は壊れたテディベアを抱きかかえたまま歩き出す。

 その凛恋の手をしっかりと握りしめながら、唇を強く噛んだ。




 子供のやったことだから。それで許されることは世の中には一つもない。

 子供のやったことだからという言葉は許す言葉ではなく、諦めて割り切る言葉だ。

 子供のやったことだから仕方ないと、大人側が折れて諦めて割り切る。それで、物事を有耶無耶に処理する。


 それでは子供は理解出来ない……自分がやったことが悪いことだと。そして、理解出来なかった子供は思うだろう。

 またやっても大丈夫だと。


 健太くんの場合は、悲しむ凛恋を見て少なからず罪悪感を抱いている様子だった。

 それに、罪を理解させようとする飯岡さんの表情も当然真剣な表情だった。だから、健太くんはもう、凛恋にあんなことはしないだろう。


 凛恋を家に連れて来て自分の部屋に入ると、凛恋がペタンと部屋の床に座り込んだ。

 そして、強くテディベアを抱きしめる。


「凛恋、今度ぬいぐるみのお医者さんに持って行こう」

「ぬいぐるみのお医者さん?」


 凛恋の横に座り、凛恋の肩に手を回しながら話し掛ける。


「ぬいぐるみの怪我を治してくれるサービスがあるんだ」

「でも……顔が潰れて綿が出て……腕が……」

「大丈夫! 絶対に治してくれる! 一つの場所がダメだったら他のところを探す! 治してくれるところが見つかるまで絶対に探す!」

「凡人……ありがとう……」

「きっと綺麗になって帰ってくる」

「うん……」


 テディベアを抱きしめる凛恋の横から、ゆっくり唇を重ねる。凛恋の唇は震えていて、俺は凛恋の唇を優しく包み込むようにキスする。

 凛恋の体を床の上に押し倒して、上から覆い被さるようにキスをして、凛恋のシャツを捲り上げる。


「凡人?」


 唇を離した凛恋が、俺のワイシャツのボタンを外しながら右へ首を傾げる。


「なんか、キスがいつもよりねちっこいけど?」

「ねちっこいか?」

「うん。別の言い方するなら、やらしい」


 ワイシャツのボタンを外し終わった凛恋は、ボーッと俺の顔を見上げて今度は左へ首を傾げた。


「……どうしたの?」


 ワイシャツを脱がせてくれた凛恋を見下ろし、俺は固まる。

 凛恋の涙を見て、凛恋の涙を止めたかった。凛恋の悲しさを止めたかった。

 そういう気持ちはあった。でも、凛恋に「いつもよりねちっこい」と言われて最初に出てきたのはそうじゃなかった。


 俺は健太くんに嫉妬したのだ。

 凛恋のことが好きだという話を優愛ちゃんから聞いて、俺は小学四年の男の子に嫉妬した。

 その事実が真っ先に、キスがいつもよりねちっこい理由として出てきたことが恥ずかしくなった。


「凡人、顔真っ赤。……もしかして、健太が私のことを好きだって気付いた?」

「えっ? 凛恋は知ってたのか?」


 凛恋が気付いているとは知らなかった俺は、凛恋の言葉にとっさにそう答えた。しかし、それを口にして後悔した。

 下に居る凛恋がクスッと笑った後に、口元をニヤリと歪めたからだ。


「かずと~、小四の健太に嫉妬したの?」

「…………」

「ねえねえ、凡人ってば~。健太が私のこと好きって聞いて、嫉妬したの~?」


 凛恋にからかわれ、俺は恥ずかしさが限界に達して体を起こす。

 すると、凛恋が俺に抱き付いてきて、涙の跡が残る顔を嬉しそうに微笑ませて俺の首に手を回す。


「健太が四歳の頃からかな。会う度に、私のお婿さんになるとか言ってたの。それで、小一になった頃から、私に意地悪するようになったの。それに、恵美子叔母さんが健太をからかって、凛恋のことが好きなんでしょって言ったら真っ赤な顔して逃げてたから、あー健太に好かれてるのかって思った」


 凛恋は俺の膝の上に座り、ワイシャツの下に着ていた俺のTシャツの裾を掴んで上に引っ張って脱がす。


「でも安心して。相手は小四の子供だし、それにそもそも私には凡人以外の男の人なんて見えてないから」

「別に、俺は健太くんに嫉妬なんてしてない」


 嫉妬したのに、嫉妬したと言うのが恥ずかしくて、俺はそう言った。

 それを聞いた凛恋はクスクス笑いながら、俺の顔を下から上目遣いで見上げる。


「親戚で集まる時、よく健太にスカート捲られてたの。お風呂だって覗きに来たことあ――」


 再び凛恋の体を押し倒すと、凛恋がクスッと笑って俺の手を自分の胸に持っていく。


「恥ずかしくないよ。私だって、小四の女の子が凡人のこと好きだって知ったら嫉妬するから。凡人は私だけの凡人だって思っちゃう」


 自分の胸に重なっていた俺の手を、凛恋はスカートの左側に持っていく。

 俺は、スカートのホックを外してファスナーを下ろした。


「私だったら、凡人のこと好きな女の子が居たら、凡人は私のだって証明したくなっちゃう」

「どうやって証明する?」


 凛恋に聞き返す俺は、凛恋のスカートを下に引っ張って脱がしながら凛恋の首筋にキスをする。

 耳元で凛恋が小さく吐息を漏らす音と、凛恋が俺のベルトを外すのを感じる。


「分かってるくせに」


 凛恋がそう囁きながら俺の体を引き寄せる。

 凛恋からキスをしてくれる。凛恋から、ねちっこくていやらしく、がっつくように求めてくれる。

 キスをしたまま一緒に立ち上がり、ベッドの上に座って一緒に倒れ込む。


 凛恋の甘い声でゾクゾクと欲望が沸き立ち、凛恋の暖かさでドキドキと愛を掻き立てられる。

 凛恋の全てが、俺が凛恋を愛するエネルギーになる。凛恋が居るから、俺は凛恋を愛し続けられる。

 物が壊れだけなら、物が壊れただけだと納得することが出来る。でも、大切な思い出が傷付けられたことは、ただ傷付けられただけだと許すことは出来ない。

 だけど、それで俺が怒りを健太くんに向けることも出来ない。俺は高二で健太くんは小四なのだから。


「かずっ、とっ……」

「凛恋……」


 凛恋の体を抱き締めながら強く凛恋の温もりを感じ、更に体をピッタリと凛恋の体に押し付ける。

 凛恋は苦しそうに声を漏らしながら、俺の背中に手を回す。


 凛恋と抱き合っている間は、ただ凛恋のことを考えるだけでいい。

 凛恋の声や表情を見て凛恋の様子を確かめながら、凛恋が俺で強い幸せを感じられるように全力で神経を傾けさえすれば良い。

 そこに割り切る必要も、何かを許す必要もない。


 ただ、凛恋を愛していれば良い。凛恋に愛してもらえていれば良い。

 それに俺は大人げなく思った。

 俺が見ている凛恋は、健太くんは一生見られない凛恋だと。

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