【一一五《割り切る。でも、許せない》】:一

【割り切る。でも、許せない】


 学校終わりに凛恋と一緒に八戸家に行くと、家の中から賑やかな笑い声が聞こえた。


「凛恋、お客さんが来てるみたいだぞ?」

「あれ? 誰か来るって話は聞いてなかったんだけど」


 靴を脱いで家に上がった凛恋が、俺の方を振り返りながら不思議そうに首を傾げる。


「お客さんが来てるなら、落ち着かないし凡人の家に行こっか」

「そうだな。でも一応、挨拶がてら荷物を置いてきたらどうだ?」

「そうね。凡人はここで座って待ってて。荷物置いて着替えて戻って来るから。あっ……」


 凛恋が何か思い付いた顔をし、俺の近くまで寄って来て耳元で囁く。


「凡人の大好きなミニスカート穿いてくるね」

「お、おう」


 俺をからかってクスクス笑った凛恋が、廊下を歩いてダイニングに入っていく。

 それを見送った俺は、とりあえず靴を履いたまま廊下に腰を下ろし凛恋が戻ってくるのを待つ。

 本当なら凛恋のお母さんに挨拶くらいはしたいが、お客さんが来ている時に俺がわざわざ挨拶するためだけに上がるわけにもいかない。

 何よりお母さんの邪魔になってしまう。


 今日は凛恋の家でゆっくりする予定だったが、お客さんが居ると俺も凛恋も気になってゆっくりは出来ない。

 それに俺が居るとお客さんの対応をしているお母さんが気を遣ってしまう。

 それなら、凛恋に俺の家へ来てもらった方がいい。


「ただい――凡人さん?」

土間で待つ俺の後ろで玄関ドアが開く音がして、制服姿の優愛ちゃんが帰ってきた。そして、廊下に座っている俺を見て首を傾げるという当然の反応をする。

「おかえり優愛ちゃん。お客さんが来てるみたいで、凛恋が戻ってくるまで待ってるんだ」

「お客さん? 誰か来るって話は聞いてないですけど?」

「凛恋もそう言ってた。でも、俺の家に行くことになったから」

「えっ? 健太(けんた)?」


 俺の後ろに視線を向けた優愛ちゃんが首を傾げる。それを聞いて後ろを振り返ると、目の前にストライプ模様が見えた。


「フゴッ!」


 顔面にストライプ模様がぶち当たり、俺は土間の上に尻餅を突く。


「凡人さん! 大丈夫!?」

「大丈夫……イテテっ……いったい何が」


 強い衝撃を主に受けた鼻を擦りながら立ち上がって廊下の上を見ると、小学生中学年くらいの男の子が、俺に向かって仁王立ちしながらキッと睨んでいるのが見えた。

 明らかに俺に対して怒っているのは分かる。だが、俺はその子とは初対面だから、なんで怒っているのか全く分からないし、怒らせるようなことをした記憶も全く無い。


「僕の凛恋ちゃんを返せッ!」


 ジッと男の子を見ていると、その男の子は唐突に俺へそう叫んだ。

 僕の凛恋ちゃんを返せとは、いきなり随分な物言いだ。しかし、俺が男の子にどう切り返そうか考えている間に、ダイニングから慌てて出てくる凛恋が見えた。

 すると、土間で突っ立って居る俺を見て、凛恋は血相を変えて走ってくる。


「凡人! ママッ! 早く救急箱持ってきてッ! 凡人が怪我してる!」


 凛恋が悲鳴を上げるようにダイニングに向かって叫ぶ。その声を聞いて、慌てた様子でお母さんが出て来た。


「凡人くん!? ――えっ? どうしたの!?」

「いや、大したことじゃ」

「鼻血出てるじゃん! どうして怪我してるの?」

「えっと……」


 突然現れた男の子にストライプ柄の靴下を履いた足で踏み蹴りされた。と言うのが説明としては正しい。しかし、俺を蹴った男の子はどう見ても小学生くらいにしか見えない。

 その幼い男の子のせいにするのは、流石に男の子に落ち度があると言っても躊躇われた。


 それに、男の子は八戸家の奥から出て来た。ということは、八戸家のお客さんということだ。

 凛恋とどういう関係かは分からないが、優愛ちゃんが『健太』という名前を呼んでいたし、凛恋とも顔見知りであるのは確かだろう。

 だから、遥かに俺より年下であろう男の子を糾弾するのは大人げないと感じた。


「とりあえず手当てしないと。凡人くん、中に入って」

「凡人さん、ティッシュ!」

「ありがとう、優愛ちゃん」


 優愛ちゃんが持ってきてくれたティッシュペーパーで鼻を押さえた俺は、チラリと俺に踏み蹴りを食らわせた男の子に視線を向ける。

 視線の先に居る男の子は、ばつが悪そうにキュッと口を結んで廊下のフローリングに視線を落としていた。




「健太ッ! なんで凡人を蹴ったのッ!」

「…………」

「黙ってないで何とか言いなさいよッ!」


 凛恋が大きな声で男の子を怒る声が聞こえる。しかし、俺は下を向きながら氷水で鼻を冷やしている最中で、凛恋が怒っている様子も、凛恋に怒られている男の子の様子も見えない。


「本当にごめんなさい!」

「いえ、大丈夫です。鼻血が出ただけで、大きな怪我はしてませんから」


 男の子の母親から謝られて、俺は下を向いたまま手の動作と声で答える。

 俺を蹴った男の子の名前は飯岡健太(いいおかけんた)くん、小学校四年生。

 そして健太くんの母親は飯岡恵美子(いいおかえみこ)さん。飯岡さんは、凛恋と優愛ちゃんのお父さんの妹さん、凛恋達からすれば叔母さんになるらしい。


 飯岡さん親子は、飯岡さんの用事でたまたま八戸家の近くを通り顔を出しに来ていた。

 そこに、俺と凛恋が帰ってきたらしい。だから、たまたま来ていたから凛恋も優愛ちゃんも飯岡さん親子が来ていることを知らなかったのだ。


「健太ッ!」

「そいつが殴ってきたから仕返しし――」

「健太ッ! 凡人はそんなことしないッ! あんまり調子に乗ってるとただじゃおかないからッ!」

「凛恋、あんまり怒るなよ」

「私の彼氏に怪我させたのよ! いくら健太が小学生だからって許せない!」


 俺がたしなめようとするが、頭に血が上った凛恋は聞く耳を持たない。

 健太くんの方も、小学四年だから仕方ないのかもしれないが、嘘を吐くにしてももっと上手い嘘を吐いた方が良い。

 いくら何でも、初対面の小学生に対していきなり殴り掛かる男子高校生は早々居ない。一発でバレるような嘘を吐いても、バレて事態を悪化させるだけだ。

 まあ、まだ小学四年で幼い上に、怒った凛恋が怖くてそういうことを考える余裕がなかったのだろう。


「なあ優愛ちゃん」

「どうしました?」

「健太くんって、もしかして……凛恋のこと好きなのか?」

「まあ、さっきの聞けば分かりますよね」


 怒鳴って健太くんに怒り続ける凛恋に聞こえないように、声を落として優愛ちゃんに尋ねる。

 すると、優愛ちゃんが小さくため息を吐きながら、困ったような呆れたような声を出す。


 さっき健太くんは、俺に「僕の凛恋ちゃんを返せ」と言っていた。

 まあ、凛恋が誰の凛恋であるかという問題は置いておくとして、健太くんのその言葉には凛恋への好意が感じられた。


 小学四年の男の子の性格なんて分からないが、自分の好きな女の子に好きな男の子が出来て、それが気に入らなくて癇癪(かんしゃく)を起こした。

 そう考えれば、全く面識のない俺に蹴りを加えた健太くんの行動には説明がつく。

 ただ、凛恋の言っていた通り、人に暴力を振るうという行為は、いくら健太くんが小学生だからと言って許される行為ではない。


 それに、もし俺の想像通りの理由で俺を蹴ったということは、健太くんはわがままで人に暴力を振るったということになる。

 それは、きちんと理由がある暴力よりもかなりマズい。


「健太、昔からお姉ちゃんのことが好きで、よくちょっかい出してたんです。まだ小四だから、完全に逆効果って気付いてないんですけど」

「まあ、よく居るよな。そういう子」

「お姉ちゃんは、わがままな弟みたいにしか思ってないみたいですけど」


 優愛ちゃんの話を聞いて大体状況は理解出来た。

 理解した上で思うのは、俺が何か言うのは逆効果というか、全く効果が無さそうだということだ。


 健太くんは、全く面識のない俺に蹴りを加えるほど、俺という存在を嫌っている。

 嫌っている相手から、いくら凛恋のことを諦めろと言われても聞く耳を持たない。

 むしろ、より健太くんの怒りを逆撫でしてしまうだけだ。

 それに、好きな子である凛恋に怒られている間も、健太くんは言い訳をしたり嘘を吐いたりしているのだから、俺の話なんて聞く耳を持つ訳がない。

 そもそも根本的な話として、俺にとって全くの他人である飯岡家の躾問題に対して、飯岡家にとって全くの他人である俺が口を挟むということほど野暮なことはない。


「健太、凡人に謝りなさい」

「……イヤだ」

「健太ッ! ちょっ!」


 鼻血が止まった俺が顔を上げると、視界の端に家の中を走っていく健太くんの姿が見えた。

 そして、ダイニングを出て行った健太くんが階段を駆け上がる足音が聞こえる。


「健太ッ」


 俺の隣に座っていた優愛ちゃんが、目にも止まらぬ速さでダイニングを飛び出し、健太くんを追い掛けて階段を駆け上がって行く。


「健太止め――あっ!」


 二階から聞こえる優愛ちゃんの声を聞いて、ダイニングに残っていた俺達四人も階段へ向かって駆け出す。

 すると、入れ違いに慌てて階段を駆け下りて来た優愛ちゃんが、玄関を飛び出すのが見えた。


「優愛ちゃん?」


 俺は階段を駆け上がろうと踏み出した足を止め、すぐに方向転換して優愛ちゃんを追い掛けて玄関を出る。

 すると、家の前の道路でしゃがんでいる優愛ちゃんの後ろ姿が見えた。


「優愛ちゃん? どうしたんだ?」

「この道、滅多に車は通らないのに……」


 しゃがんだまま痛々しい声で呟く優愛ちゃんの前に回ると、優愛ちゃんは両手で大事そうに何かを持っていた。

 優愛ちゃんが抱えているのは、二年前のクリスマスに俺が凛恋へプレゼントしたシロクマをモチーフにしたテディベア。

 しかし、今は顔は潰れて中身の綿が飛び出し腕は千切れ掛かって、体全体が薄黒く汚れてしまっている。

 その薄黒い汚れはタイヤ跡のようで、おそらく自動車に轢かれたんだろう。


 俺は家の方を振り返って二階を見上げる。

 見上げた二階の窓からは、凛恋が道路に立っている俺を見て真っ青な顔をし、慌てた様子で部屋の中に消えていく。


「テディベアは!?」


 すぐに家から飛び出して来た凛恋がそう尋ねる。

 部屋に入った時、テディベアが無くなっていることには気付いたんだろう。


「ごめんお姉ちゃん……急いで出たんだけど……」


 優愛ちゃんが言い辛そうにそう言いながら振り返る。


「嘘……ウソよ……こんなの……」


 優愛ちゃんが持っているテディベアを見て、ポロポロと凛恋が涙を流しながら近付く。そして、テディベアに触れようと手を伸ばした瞬間、千切れ掛かっていた腕がポトリとアスファルトの上に落ちた。


「待て」

「離してッ!」


 テディベアの腕が落ちた瞬間、振り返って部屋に戻ろうとした凛恋の腕を俺は掴んで引き留めた。

 当然、凛恋は俺の腕を振り解こうとする。しかし、俺は凛恋の腕を引っ張って後ろから抱きしめる。


「落ち着けって」

「落ち着けるわけないッ! 凡人がくれた大切な物なのにッ! 絶対に健太を許さないッ!」


 もし俺が、凛恋から貰ったプレゼントを壊されたら、きっと同じように怒り狂って冷静さは保てない。

 それに、プレゼントを壊された辛さや悲しさ、それからプレゼントしてくれた凛恋への申し訳なさを感じてしまう。だから、俺は凛恋の気持ちをちゃんと理解出来ていると思う。でも、俺は凛恋を止めなきゃいけない。


 今の凛恋は完全に頭に血が上って冷静じゃない。だから、怒りに任せて何をするか分からない。

 手を上げることはしないにしても、怒った凛恋は言葉に容赦が無くなる。

 好きな女の子に容赦の無い言葉を向けられた健太くんは酷く傷付くだろうし、なにより……冷静になった後の凛恋が、そういう言葉を幼い健太くんに向けてしまったことを後悔して自分を責めるだろう。

 だから、凛恋を止めなきゃいけないと俺は思った。


「私がもっと早く健太を止めてれば……」

「優愛ちゃんは何も悪くない。優愛ちゃんが責任を感じる必要なんてない」


 落ち込んだ様子で力なく言う優愛ちゃんにそう言いながら、走り出そうとする凛恋の体を俺の方に向けて、凛恋の額に俺の額を当てた。


「凛恋、俺の目を見ろ」

「凡人……」


 両目から涙をポロポロと流す凛恋が俺の目を見てすぐに申し訳なさそうに目を逸らす。俺はその凛恋の体を正面からそっと優しく抱きしめる。

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