【一一〇《優先順位》】:二

「凡人とエッチしたい」


 凛恋が俺を正面から優しく抱き締めてそう言う。俺は凛恋を抱き返しながら、目の奥が熱くなるのを感じた。


「俺も凛恋とエッチしたい……」


 体は痛いし寒さで震える。

 今すぐにでも温かいシャワーを浴びて、ベッドの中で凛恋の温かさを感じて眠りたいと思った。

 そう出来たら、どんなに幸せだろうと思った。


「私達、結構性欲強いわよね。でも、私がしたいって思うのは凡人だけだから」

「俺だって凛恋としかしたくない」

「とりあえず帰った次の日は休みだから、私の家に来てね。私の部屋でゆっくりしよ。あとは、クリスマスも近いし、みんなとクリスマスパーティーの計画立てないと。また、今年も萌夏の家とカラオケかな?」


 凛恋は明るい声で話す。俺はそれに答えずに、凛恋の体を抱きしめ続ける。

 分かっている。凛恋は修学旅行から帰ってからの楽しいことを俺に考えさせて、俺の考えを変えさせようとしているのだ。でも、雪洞は俺が掘ったし、今更俺と凛恋の位置関係は変えられない。

 だから、もうほとんど優先順位を考えた行動は終了している。これから先は、俺と凛恋が無事に帰れるかは、本当に運しかない。


「年末年始は今年も一緒に居られると良いね。今年はお爺ちゃんとお婆ちゃんに凡人を紹介したいな。それに年明けには、また歩こう会があるし。来年は、今年よりも大人数で歩けそうだから楽しくなりそうね。それに、バレンタインデーもあるし、年度が替わったら次は三年よ。そしてその先は大学生で、社会人になって……凡人と結婚。忘れてないよね?」

「忘れてない。忘れるわけない」

「じゃあ生きよう、一緒に。諦めちゃダメ」

「凛恋……」


 凛恋が飴玉の封を開けて口に放り込む。そして、ゆっくりと俺に唇を重ねた。

 自然と、条件反射のように唇と舌を動かして俺は凛恋とキスをする。

 唇で凛恋の唇を挟み、ゆっくりと凛恋を引き寄せるようにキスをする。


 凛恋のキスは甘かった。溶け出した飴玉の甘さが、凛恋の口から俺の口へ流れ込んでくる。

 その飴玉の甘さは凛恋のキスの甘さと合わさり、体をじんわりと温めてくれる。


「凛恋、好きだ」

「私も凡人が大好き」


 言葉を交わし、俺と凛恋はまたキスをする。

 凛恋に体力を使わせちゃいけないのに、俺はどうしてもキスを止められなかった。

 死にたくない。俺は凛恋とずっと一緒に居たい。

 三年になっても、大学生になっても、社会人になっても一緒に居たい。一生一緒に居られるように、俺は凛恋と結婚したい。


 今この瞬間の凛恋の命を優先したい。でも、これから先の凛恋と過ごす人生が、その優先順位の上へ割り込んでくる。

 そして、優先順位の境を曖昧にされて、俺は目から涙を流しながら、凛恋の背中に回した手に力を込めた。




 目を開くと、俺の腕の中で凛恋が眠っていた。雪洞の中は温かくて凍える心配が無かったから、安心して眠ることが出来た。

 雪洞の入り口から太陽の光が入っている。ということは、俺はなんとか雪山で一晩を生きて乗り越えられたらしい。


 凛恋が口移しで飴玉とチョコレートを食べさせてくれたからか、体力は戻っている。

 ただ、昨日よりも体を動かし辛い。

 昨日、体に鞭を打って雪洞を掘ったことで、何かしらの怪我が悪化したんだろう。


「……かず、と?」

「おはよう、凛恋」

「良かった……凡人が生きてる」


 凛恋がギュッと俺を抱きしめてくれる。

 体に感じる痛みに耐えながら、凛恋から抱きしめてもらえる幸せを噛みしめる。


「凛恋……体は何ともないか?」

「うん。凡人に抱きしめられてチューしながら寝られたから、チョー元気」


 凛恋が浮かべた明るい笑顔を見て、俺は凛恋が無事なことを確認しホッと胸を撫で下ろした。


「良かった……」

「凡人は?」

「昨日の怪我があるから、元気とは言えないけど、他は問題ない」


 怪我が悪化しているであろうことは言わなかった。言ったって、凛恋を悲しい思いにさせるだけだ。


「凡人、おはようのチュー」


 凛恋がチュッとキスをして微笑み、俺の頬を撫でる。


「遠くには居ないはずだっ! 絶対に見付けるぞっ!」


 凛恋が頬に手を触れた直後、雪洞の外から男性の声が聞こえる。


「救助の人かも! 私が助けを呼んでくる!」


 凛恋が雪洞の入り口から出て行く。

 それを見送り、俺は目を閉じた。人が探しに来てくれるなら助かる。凛恋だけじゃなくて、俺も何とか助かりそうだった。

 そう安心した瞬間、体に籠もっていた力が抜けて、どこから出てきたかも分からない疲労と眠気が湧き出てきた。


「助けて下さい! 怪我人が居るんです!」

「君は刻雨高校の八戸凛恋さんか!?」

「はい! この中に、多野凡人が居ます! 凡人は怪我をしてるんです! お願いします! 凡人を助けてください」

「これは雪洞? 君が掘ったのか?」

「いえ、凡人が一人で作ってくれました!」


 入り口から、オレンジ色の防寒着を着た男の人達が入ってくる。

 ありがとう凛恋。

 男の人が苦手な凛恋にとって、初対面の男性に話し掛けて状況を説明するなんて恐怖でしかない。

 それを、俺のために耐えてくれたんだ。


「遭難者発見。要救助者有り、すぐにドクターヘリを。ソリに乗せて上に上げるぞ!」


 二人の男性に抱えられ、俺は雪洞の外に出される。

 ソリの上にベルトで固定され、手際よく俺は斜面の上へ引き上げられる。しばらく待っていると、俺は平面の場所に引き上げられた。


「多野くん! 無事なの!?」

「何とか生きてます」


 視界に沢山の人が集まって居るのが見え、その中から露木先生が俺の顔を上から見下ろして叫ぶ。


「八戸さんは!? 八戸さんは無事!?」

「救助の人と居ます。俺の知る限り、凛恋に怪我はありません」

「ありがとう。多野くんはゆっくり休んで」

「はい」


 俺は平地の上をズルズルと引きずられながら、ゆっくり目を閉じて息を吐く。

 何とか、凛恋を助けることが出来た。




 再び目を覚ました時、俺は病院のベッドに寝ていて、ベッドの脇に凛恋と優愛ちゃんが座っていた。


「凛恋……優愛ちゃん?」

「凡人、おはよう」

「凡人さん!」


 優愛ちゃんが居るということは、凛恋のお父さんお母さんも来ている。娘が遭難したとなれば、駆け付けて当然だ。


「凛恋……お父さんとお母さんを呼んでくれ」

「パパとママ? 分かった」

「お姉ちゃんは凡人さんの側に居て! 私が呼んでくるから!」


 優愛ちゃんが病室から出て行くのを見送り、俺は視線を凛恋に戻す。


「凛恋……体は?」

「大丈夫。怪我もしてないし病気にもなってない。ちゃんとお医者さんに診てもらったから安心して」

「良かった……本当に」

「全部凡人のお陰」


 凛恋が俺の手を両手で握りしめてくれる。それと同時に病室のドアが開いた。

 病室の中に、凛恋のお父さんお母さん優愛ちゃん、そして爺ちゃん婆ちゃん栞姉ちゃんが入ってきた。


「お父さん、お母さん、優愛ちゃん……本当にすみませんでした」


 俺は凛恋のお父さん、お母さん、そして優愛ちゃんに謝った。すると、凛恋が俺の手を強く握る。


「どうして凡人が謝るの!?」

「凛恋を……お父さんとお母さん、優愛ちゃんの大事な凛恋を危険な目に遭わせてしまいました。本当に申し訳ありませんでした」

「凡人くんは謝る必要なんてないわ」

「そうだよ! お姉ちゃんから、凡人さんはお姉ちゃんのことを守ってくれたって聞いたよ! だから凡人さんが謝る必要なんてないよ!」


 体が思うように動かなくて、体を起こすことが出来ない。だから、頭を下げることも出来ない。

 それでも、お母さんと優愛ちゃんは首を横に振って、俺が謝る必要がないと言ってくれる。

 でも、俺はそれでも謝った。


「本当に……すみませんでした……」

「凡人くん。私達は凡人くんを信じている。凡人くんは凛恋を自ら危険に巻き込むような人じゃない。実際に凛恋は、雪山で遭難したのに無傷で戻ってきた。それは凡人くんが凛恋を守ってくれたからだ。本当にありがとう。凡人くんが怪我をしている以上、最善ではない。でも、凛恋も凡人くんも生きていて良かった」


 お父さんが俺の頭を撫でてくれて、俺は唇を噛んで涙を堪えた。


「娘と息子が生きて戻ってきた。今はそれを喜ばせてくれ」

「……はい。ありがとうございます」


 お父さんとお母さん、それから優愛ちゃんが出て行き、今度は爺ちゃん婆ちゃん栞姉ちゃんがベッドの側に立つ。


「カズくん、本当に良かった」

「栞姉ちゃん、心配掛けてごめん」

「ううん、生きてて良かった」


 栞姉ちゃんが優しくそう言ってくれた後、爺ちゃんが俺の肩に手を置く。


「全くお前は、殴られたり刺されたり忙しいやつだな」

「ごめん」

「でも、見てみろ。凛恋さんは傷一つ負っちゃいない。それに、他にも体に不調は無く、健康そのものだそうだ」


 爺ちゃんが頭に荒々しく手を置いて言う。


「よく凛恋さんを守った」

「…………当たり前だって」


 グリグリと強く撫でられ、俺は唇を結んで不満げな表情を作った。そうしないと、気恥ずかしかったからだ。


「露木先生も来てくれている」

「露木先生も?」

「ああ、本当に凡人のことを心配してくれたんだ」


 爺ちゃんと婆ちゃん栞姉ちゃんが出て行くと、入れ違いで露木先生が入ってきた。


「露木先生……すみません」

「多野くんは何も悪くないんだから、謝る必要なんて無いよ。謝る必要がある人は他に居る」


 そう言った露木先生は、見ただけで分かるくらい強い怒りを込めて両手の拳を握る。露木先生の言った言葉が誰のことを指しているのかは分かった。


「…………石川、私達を突き落としたこと、言わなかったらしい」

「そうか……」


 凛恋が憎しみの籠もった声で言う。でも、俺は石川に対する怒りも憎しみも湧かなかった。

 端から石川に期待なんてしていなかった。

 ずっと前から、俺は石川のことを外敵としか見ていなかった。だから、俺達のことを助けようとしなくても何も思わなかった。


「……生徒全員に私、聞いたんだよ? 多野くんと八戸さんを見た人は居ないって。それで石川くんは、平気な顔で見てませんって言ったの」


 握った拳が震え、結んだ唇が震え、絞り出した声が震える露木先生は、目から涙を流した。


「絶対に許さないっ……。生徒だから、子供だからって割り切れない。石川くんがやったことはそんなことじゃ絶対に許されない」

「もういいですよ、あいつのことは。凛恋に付きまといさえしなければ、どうだっていいです」

「私は露木先生と同じ。絶対にあいつだけは許せない。あいつは……石川は……凡人を殺そうとしたのよ? 絶対に……許さないっ」


 凛恋と露木先生の言葉に、俺はもう何も言わなかった。

 罪を憎んで人を憎まずということわざがある。

 罪を犯すまでに、その人なりの事情があったことを考慮して、犯した罪だけを憎み、その人自体を憎まない。

 そういう、考え方だ。しかし、世の中そんな綺麗事ばかりではない。


 俺は今でも池水を憎んでいる。内笠のことだって、心底憎んでいる。

 石川も憎みを通り越して無関心になっているが、凛恋をまた怖がらせたり傷つけようとしたりすれば、俺は憎しみと怒りを隠すことなく向ける。


 ただ、今は誰かに憎しみを向け続けるよりも優先しなければいけないことが山ほどある。全て、俺と凛恋と、俺の味方で居てくれる人達全てが笑顔で生きるためだ。


「赤城さん達は連れて来られなかったけど、近いうちにすぐに会えると思うから。みんな、二人のことを凄く心配してた。みんなに、二人とも無事だって伝えておくね」

「ありがとうございます」


 露木先生が病室を出て行き、凛恋が俺の両手から手を離して、そっと俺を抱きしめる


「凡人」

「なんだ?」

「特別ペケ、一つ付けるから」

「特別ペケ?」

「…………私だけ助けようとしたこと」


 俺は凛恋に向けていた視線を、病室の壁に逸らした。


「凛恋を助けるために必死だったんだ」

「必死になるなら、ずっと私と一緒に居るために必死になってよ……。私だけじゃなくて、私とって考えて。…………特別ペケを消す方法は一つしかないから」


 凛恋はそっと抱きしめていた手とは打って変わって、荒々しく激しく唇を重ねる。


「私と結婚したら消せるから。だから、これからは特別ペケを消すために、必死になって」

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