【一一〇《優先順位》】:一

【優先順位】


 修学旅行三日目は天気に恵まれ、スキー場は一日目と同じように沢山のスキーヤーで賑わっている。

 俺はそんな賑やかなスキー場のゲレンデを眺めながら、小さくため息を吐いた。


 スキーウェアを着てスキー板を履き、ストックを持ってはいるものの、俺はスキーを楽しもうという気が起きなかった。


 凛恋も萌夏さんも、男を怖がっている。いや、嫌悪している。

 その原因は全て、男の傲慢さで、凛恋と萌夏さんは何も悪くない。凛恋と萌夏さんは、その傲慢さに傷付けられた被害者だ。


 もう何度だって考えた。

 どうすれば凛恋を救えるのか、どうすれば萌夏さんを救えるのか。

 でも、何度考えたって同じだ。


 ただ、二人の側にいる。ただ、側で支えるだけ。

 俺が考え付ける、何も力のない俺が出来ると思えるのはそれだけしかない。

 それじゃ……何の解決にもならないことが分かっていながら、俺は何の解決にもならないことしか出来ない。


 俺は、これまでの人生でもっと人と関わってくれば良かったと後悔した。

 俺は他人なんてどうだって良いと思ってきた。

 どうだって良いと思ってきたからこそ、他人に興味を持たずに関わりを持たなかった。だから、俺は人間関係の上手い立ち回り方を何も知らない。

 でも、もし俺が今まで、人と関わって人と接して、人と笑って泣いて喧嘩して……そしたら何かあったんじゃないかと思う。

 何か、凛恋や萌夏さんの悲しい心の傷を解決出来る何かを経験出来ていたんじゃないかと思う。


 それが行動なのか言葉なのかは分からない。でも、もし俺が人と接することをしてきたら、二人をただ側で支える以外のことが出来たかもしれない。

 もっと具体的に、問題を根本から排除して、二人の心の傷を綺麗さっぱり消しされたかもしれない。

 もしそうだったら……俺は大切な人達に悲しい思いをさせずに済んだかもしれない。


 かもしれない、かもしれない……と、仮定ばかりが浮かぶ。


 過去の俺が、どんなに人と接して、人に対する経験を積んできたとしても、問題を解決出来るとは思えない。

 でも、そうだとしても、頭の中のかもしれないは消えない。


「凡人」

「凛恋……」


 凛恋が俺の肩を叩いて声を掛けてくれる。声色から、俺のことを心配してくれているのが分かる。


「休憩中?」

「ああ」

「そっか、じゃあ私も休憩しよ!」


 凛恋が隣に並んで、ギュッと俺の腕を抱く。


「ごめんね、凡人にばかり甘えちゃって」

「何で謝るんだよ」

「だって凡人は、限界ギリギリになるまで絶対に弱音を吐かないし、弱いところ見せない。誰かに頼るのだって本当に最後の最後になってから。そんな凡人を甘えさせられないのに、私達ばかり凡人に甘えてる」

「俺は凛恋に甘えてもらえて嬉しいけどな」

「でも、凡人が悩んでる」


 手袋越しに凛恋は俺の手を握る。


「凡人ありがとう。萌夏……多分限界だった」

「いや、萌夏さんの友達として力になりたかったから。……でも、俺じゃダメだった」

「…………凡人、ちょっと来て」


 凛恋が俺の手を引いて休憩所の裏に歩いて行く。途中で板を外しストックを置いて休憩所の裏に付くと、凛恋が上目遣いで俺を見る。


「んっ……」


 ゆっくり背伸びをして、凛恋がキスをして固く俺の首を抱く。

 外の寒さなんて感じなくなるくらい、熱いキスに没頭する。

 本当に、俺という生き物は単純だ。どれだけ重要な問題で心をざわつかせていても、凛恋にキスされただけでそれをすっかり頭の端に追いやってしまう。

 自然と、頭の中の問題よりも、目の前に居る魅力的な凛恋のことだけを考えてしまう。


 凛恋と俺が互いを貪り合い求め合っていると、横から靴が雪を踏みしめる音が聞こえる。ゆっくり凛恋から唇を離して音のした方を見ると、俺を睨み付けている石川が居た。


「多野……お前、何してるんだ」

「それはこっちの台詞だ。お前こそ何してるんだ」


 俺は石川にそう不快感を露わにして言葉を返す。石川に凛恋がキスをする姿を見られたことに腹が立ったのだ。

 外でキスをしていた俺と凛恋も迂闊ではあった。でも、休憩所の裏なんて普通にスキーを楽しんでいたら用がある場所じゃない。だから、石川は俺と凛恋を――いや、凛恋を付けてきたのだ。

 その行動と石川の意思を想像しただけで、心が煮えたぎるくらい不快になり、全身が寒気で震えるほど気色が悪かった。


「俺は八戸とお前が休憩所の外に歩いて行ったから――」

「最悪……」


 凛恋が俺に抱き付いてそう呟きながら視線を石川から逸らす。

 凛恋も石川の行動と言葉に不快感を露わにしていた。


「八戸、多野から離れろ」

「私達に話し掛けるな。今すぐ視界から消えて」


 凛恋は完全な拒絶を石川に向ける。しかし、石川は目を見開いて驚いた顔をし、俺を指さした。


「そいつは詐欺師の息子なんだぞ! 俺は八戸のことをずっと好きだったんだ! そんなやつより俺と付き合った方が幸せに決まってるっ!」

「消えて」

「八戸ッ! どうして分からないんだよ! 父親が身元不明で母親が詐欺師で、親の愛情なんて欠片ももらっていない冷徹人間が八戸に釣り合うわけ無いだろ! それに、そいつは子供の頃からいじめられ続けてきたんだぞ! そんな情けない――」

「死――」

「お前みたいな男が居るから、男を怖がる人が増えるんだッ!」


 凛恋に冷たく暗い言葉を言わせたくなくて、俺は凛恋の言葉を遮りながら必死に叫んだ。

 俺は石川が嫌いだ。

 石川は確実に、凛恋を怖がらせ傷付け続けている。でも、今の俺の怒りは、石川個人だけへの怒りじゃない。

 ”石川のような男達”への怒りだ。

 それを考えれば、俺の怒りはただの八つ当たりなのかもしれない。それでも、理性で収められる怒りじゃなかった。


 何度も何度も、嫌がっているのに付きまとい、自分の思い通りにしようとする。

 金や権力、脅迫や暴力、そんな汚い方法で、人の気持ちを思い通りにしようとする。

 そんなやつらが居るから、凛恋や萌夏さん、他の同じ傷を負った女性が増える。

 その傷を癒やすことも二度と出来なくなって、安心して眠ることさえままならなくなる。でも、そういう状態にさせた側は、全く自分が原因だなんて考えようともしない。

 だから、その身勝手で厚顔無恥な行動を見させられるから、俺は石川に嫌悪を煽られ、抑えきれないほどの怒りを湧かされる。


「八戸は俺と付き合うんだよッ!」

「凛恋ッ!」


 自分勝手な言葉を叫ぶ石川から凛恋を守るため、俺は凛恋と石川の間に立った。しかし石川は凛恋に手は伸ばさず、間に立っていた俺の体を思いっきり突き飛ばした。

 体が大きく後ろへ傾く。視界がスローモーションで動き、俺は後ろに首を向けて目を見開いた。

 オレンジ色の防護ネット。そして、ネットの向こう側にある急斜面。


「凡人ッ!」

「凛恋ッ! 来るなッ!」


 手を伸ばす凛恋の手を振り払おうとする。しかし、凛恋の手は俺の手を掴んで手繰り寄せ、凛恋は俺の体を強く抱き寄せる。


「ずっと側に居るって、言ったじゃん」


 スローモーションに風景が流れるのを感じた俺は、その凛恋の優しい言葉を聞いた。

 その俺は、凛恋を守るために突き飛ばさなければいけない。それなのに…………。

 俺は凛恋を、強く抱きしめてしまった。

 そして……石川に押された勢いを殺しきれず、俺は防護ネットの向こう側へ背中から墜ちた。




「凡人ッ! お願いッ! 目を開けてッ! お願いッ! お願いだからッ!」

「り……こ……」

「凡人ッ!? 私はここに居る! 目の前に居るよ!」

「りこ……けが、は……?」


 目を開くと、必死に俺の名前を呼ぶ凛恋の姿が見えた。そして、俺は肺がキリキリと痛むのを我慢しながら声を出す。


「大丈夫……凡人がちゃんと守ってくれたよ。私はどこも痛くないよ」

「よかった……りこが……ぶじなら……」


 石川に突き飛ばされた俺は、俺を助けようとした凛恋と一緒に急斜面を墜ちてしまった。それで、俺は凛恋に起こされるまで気を失っていたらしい。

 凛恋は涙目で俺を見下ろしているが、怪我をしている様子はない。だけど、俺はそれに安心して寝転がっているわけにはいかなかった。


「グアッ!」


 上半身を起こした瞬間、全身に激痛が走る。よく自分の体の状態は分からないが、どこかの骨の一本は折っているかヒビが入っているかもしれない。

 どう考えても体を動かして良い状態だとは思えない。でも、今の俺には自分の体の状態を考慮している暇はない。

 それよりももっと大事なことがある。


「凡人! 動いちゃダメ!」

「急がないと……」


 俺が倒れていたのは森の中。その森の上を見上げると、薄暗くなり始めた空が見える。もうすぐ、夜になるのだ。


 雪山は夜になればかなり寒くなる。それに、森の中には風が強く吹いている。

 長時間、夜の寒さと風に晒され続けたら生き延びられる可能性が低くなる。


 俺は、近くにあった木の枝を両手で掴み、斜面の雪を必死に掘る。


 本で前に見たことがある。雪山で遭難した時は、寒さと風を防げるシェルター、雪洞(せつどう)を作らなければならないと。

 遭難時に雪洞に避難しているかいないかで、生存率が大きく変わると本に書いてあった。だから、少しでも生存率を高めるために、日が落ちて気温が下がる前に雪洞に身を隠さなくてはいけない。


「凡人、私も手伝――」

「凛恋は何もするなッ!」


 俺は手を出そうとする凛恋を怒鳴って止める。

 雪山で一晩生き延びるには、寒さと風を防ぐのは前提条件だが、“無駄に動いて体力を消耗させないこと”も必要だ。

 凛恋に雪洞を掘らせたら凛恋の体力を消耗させる。そうなると“凛恋の”生存率が低くなってしまう。


 俺は痛む体に鞭を打ち、ひたすら斜面を掘る。そして、やっと人が二人入り込める雪洞を掘った後に、木の枝で天井を均して、出口に溶けた水を流すための溝を掘る。


「これで……寒さと風は防げる……」

「凡人……ありがと……」


 幸いだったのは、斜面が風向きとは逆になっていて、入り口から風が入らないことだ。これで、俺達の放熱で中は大分暖かくなるはずだ。


「凛恋、俺の前に」


 俺は雪洞の奥に入って雪の壁に背中を付け、後ろから凛恋を抱きしめる。

 これなら、凛恋と雪が直接触れる面積が少なくなって、凛恋の体が冷える可能性を減らすことが出来る。

 それに、俺からの放熱で凛恋の体が温まる。


「凡人……」

「凛恋、これを」

「これ……」


 俺はスキーウェアのポケットに入れていた飴玉と一粒ずつ小分けにされたチョコレートの箱を出す。

 何気なく余ったお菓子をポケットに突っ込んでいて助かった。飴玉もチョコレートも小さい割りにカロリーがある。


「凛恋に全部やる」


 俺は前に抱き締めた凛恋の手に、手に持った飴玉とチョコレートを握らせる。すると、振り返った凛恋が俺を見て目を見開いた。


「凡人……まさか……ダメだから! それは絶対にダメ!」

「凛恋は絶対に守る。だから安心しろ」


 凛恋に飴玉とチョコレートを押し付けて、凛恋の体を後ろから抱きしめる。

 俺達がどれくらい滑落(かつらく)したかは分からない。でも、もう薄暗くなった森から出るのは難しい。


 俺は自力で動けないし、動けたとしても知らない森の中を現在地も分からず闇雲に動き回るのはかえって危険だ。

 だから、俺達が行方不明だと誰かが気付いて消防に通報してくれて、その通報で捜索してくれるはずの山岳救助隊が俺達を見つけてくれるのを待つしかない。

 でも、山岳救助隊が出て、俺達を見つけ出してくれるまでどれくらい掛かるか分からない。一日なのか一週間なのか、それともそれ以上なのか。


 この場で最も優先されるのは凛恋の命だ。それは絶対に譲れない。

 俺は絶対に凛恋を生かすために動く。何を犠牲にしても、絶対に凛恋を無事に凛恋のお父さん、お母さん、優愛ちゃんの元に帰さなくてはいけない。

 その犠牲が、たとえ俺自身の命だとしても。


「凡人……だめっ……」

「大丈夫。絶対に、絶対に凛恋は守る」

「凡人は?」

「俺は……運が良かったら――」

「何で、そんなこと言うの? 私には……凡人が必要だって……凡人が居ないとダメだって分かってるでしょ?」


 凛恋の言葉に応えず、震える声で話す凛恋の体を抱きしめる。

 物事には優先順位がある。俺も凛恋も助かれば越したことはない。

 俺だって死にたくないし死ぬのは怖い。でも、今の状況はそうじゃない。


 俺と凛恋が二人とも助かるように動いたら、凛恋が助かる可能性が低くなる。

 今、俺は凛恋を一〇〇パーセント助けられると言い切れない。

 凛恋を助けられるパーセンテージが何パーセントかも判断出来ない状況だ。

 その状況では、最も優先順位が高い凛恋が生き延びられる可能性を少しでも高めないといけない。


「凛恋を助けたいんだ」

「私だって凡人を助けたい」


 凛恋が俺の方を向いて必死な表情でそう訴える。その凛恋の気持ちは痛いほど分かった。

 俺が凛恋を好きなように、凛恋も俺を好きで居てくれている。

 俺が凛恋を大切にしているように、凛恋も俺のことを大切にしてくれている。だから分かる。

 自分の大切な人が、自身を犠牲にして自分を助けようとしているのを見た時の気持ちは。


 俺だったら、もし凛恋が俺のことを助けるために自分を犠牲にしようとしたら、絶対に俺は反対して力尽くで凛恋を止める。

 そう言い切れるからこそ、凛恋の気持ちは簡単に理解出来た。でも、理解出来たとしても俺はそれに従うことは出来ない。

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