【一〇八《眠れない夜に》】:二

 深夜、眠れなかった俺は、小鳥が寝てから部屋を出た。


 ホテル自体に消灯時間はない。でも、学校で決められた消灯時間はとっくに過ぎていた。

 ロビーまで行ったら学校の先生に見られて注意されるかもしれない。だから、俺は下ではなく上に上った。


 ホテルの中階にあるガラス張りの展望スペースにある一人掛けのソファーに座り、相変わらずナイター設備が照らすゲレンデを見下ろした。


 誰かのせいと考えるのは良くない。誰かのせいであるとしたら、それは俺のせいだ。


 萌夏さんが彼氏に振られた時も、俺は上手く出来なかった。

 萌夏さんを慰めるのも、凛恋と希さんに任せっきりだった。そして今回の小鳥は、俺は一切何も声を掛けられず話を聞いているしかなかった。


 失恋したばかりの小鳥に、軽い感じで「女の子は星の数ほど居る」なんてことが言えるわけもない。

 世界に女性は星の数ほど居たとしても、その時の、全力の好きを向けている相手は世界にたった一人しか居ないのだから。


 俺はどうするべきだったんだろう。どうすれば、正解が、小鳥が求めている対応が出来たんだろう。


「多野、くん?」

「露木先生? どうしてこんなところに?」


 後ろから聞こえた声に戸惑って振り返ると、スポーツジャージを着た露木先生の姿が見えた。音楽教師なのに妙にジャージ姿がしっくりくる。


「消灯時間を過ぎてるよ」

「はい……」


 そう注意されて、部屋に戻ろうと立ち上がろうとした時、俺の座っているソファーの隣にあった一人掛けのソファーに露木先生が腰を下ろした。


「昼間、スキーが壊れてることに気付かなくてごめんね」

「えっ? いや、露木先生は何も悪くないじゃないですか」

「でも、私がもっと早く気付けてたら、多野くんはもっとスキーをみんなと楽しめていたのに……」

「露木先生……」

「全く多野くんのせいじゃないんだけど、そのことを考えてたら寝られなくて。それで、気を紛らわすためにここに来たんだけど、多野くんは?」


 俺はどうしようか躊躇った。

 小鳥が振られたなんて話すわけにもいかない。でも、自分では処理出来ない気持ちを誰かに聞いて解決してほしい気持ちもある。


「友達が失恋したんです」


 個人を特定しない”友達”という言葉で濁した。それで、露木先生が友達を小鳥だと察する可能性は大いにあった。でも、俺は小鳥とは言っていないという言い訳に逃げた。


「俺は友達の好きな人とも友達で、二人の連絡先を交換する機会を作りました。でもその後に、二人とは別の友達から、友達の好きな人はその友達のことを好きじゃないって聞いて……」

「うん。それで?」


 友達ばかりの、必死にぼかそうとして分かりづらい話に、露木先生は頷いて相槌を打ってくれる。


「もっと、友達の好きな人にも確認するべきだと思いました。凛恋にも同じ話をしました。凛恋には、俺が気に病む必要はないって言われました」

「でも、友達の恋がダメだったって聞いて、多野くんは自分がもっと考えられれば、友達の恋が叶ったかもしれないって思ったんだね」

「……はい」

「優しい多野くんらしい」


 ニコッと笑った露木先生が、うーんと背伸びをしながら長く息を吐く。そして、ボソッと口にした。


「恋愛って難しいよね。恋愛は、人の綺麗なところも汚いところも出てしまう、本当に純粋な気持ちのやり取りだから。自分が良かれと思ってやったことが失敗したり、失敗したと思ったことが恋の助けになったり、行動を起こした時点では分からないことばかり。その失恋した友達はどんな顔をしてた?」

「悲しさを隠しながら、お礼を言われました。俺が居なかったら、連絡先も交換出来なかったし、デートだって出来なかったって」

「そっかぁー。その友達は、多野くんにそうやって悩んでほしくないと思ってると思うよ」


 露木先生は窓ガラスの向こうにある風景をジッと見詰めて、真剣な表情を外に向け続けた。


「世の中には、どんなに好きな人が居てもデートはもちろん話も出来ない人だって居る。好きな人との関係では、好きだって言えない関係もある。そんな人達に比べたら、好きな人と連絡先を交換出来てデートも行けた多野くんの友達は、凄く幸せだったと思う」

「でも、悲しさを隠しながら言ってたんです」

「悲しいよ。悲しいに決まってる。だって、好きな人に振られたんだもん。悲しくない人なんて居ないよ。でも、その悲しさを見せて多野くんに負い目を感じてほしくないって思ったから隠したんだよ。それは、多野くんに対して多野くんの友達が本当に感謝してたから。だから、友達の気持ちのためにも、そんなに悲しい顔をしちゃダメだよ」

「露木先生…………すみません、ありがとうございます」


 真実は分からない。小鳥の真意を知っているのは小鳥だけだ。でも、仮定だとしても、露木先生に俺は間違ってないと言われて救われた。


「多野くんはさ、なんでそんなに優しいの?」

「え?」

「多野くんは凄く優しい。それに、誰にでも優しく出来るから、どうしてかなって」


 露木先生の質問に、俺は首を横に振って窓の外を見た。


「俺は優しくないですよ。俺は人には無関心です。ただ、俺の味方をしてくれる人達に傷付いてほしくないと思ってるだけです。今まで、味方なんて片手で余るくらいしか居なかったから、味方してくれる人達が、真っ先に俺のことを信じてくれる人達がどんなに貴重か分かるんです。…………ただ、怖いだけかもしれませんね。味方が居なくなってしまうのが」


 口元だけで笑みを浮かべて、心に灯った冷たい炎を吹き消す。

 空元気で、偽りの笑顔ですぐに掻き消さなければ、あっという間に冷たい炎に心が覆われそうだった。


「絶対に自分を裏切らないって信じられる人は居る?」

「露木先生?」


 露木先生の言葉の直後、後ろから露木先生の名前を呼ぶその声が聞こえて、俺はとっさにソファーの陰に隠れる。

 すると、露木先生はスマートフォンを取り出してさり気なく耳に当てた。


「ごめんね、ちょっと先輩の先生がいらっしゃったから」


 電話をしていた振りをした露木先生は、ソファーから立ち上がって後ろを振り返る。


「こんばんは、森滝先生」

「こんなところで何をしているんですか?」

「少し友人と電話を」


 ニコッと笑って言う露木先生を斜め下から見ながら、ソファーを挟んだ向かい側に居る森滝先生の気配に気を配る。


「生徒も居るんですから、消灯時間に出歩かないようにして下さい」

「すみません。すぐに戻ります」


 露木先生が頭を下げると、森滝先生が歩いて行く足音が聞こえる。

 その足音が遠ざかって行くのを露木先生が見送ると、俺の方に視線を向けて手でオッケーサインを作る。


「もう大丈夫」

「ありがとうございます」

「まさか、ここにも見回りに来てるなんて」


 露木先生はげんなりとした表情でそう呟く。それにクスッと笑うと、露木先生もクスッと笑った。


「じゃあ、俺も戻りますね」


 俺は露木先生にそう言って部屋に戻ろうと歩き出す。


「多野くん」

「はい?」

「気を付けて戻ってね」

「ありがとうございます。おやすみなさい」


 俺は展望スペースから離れて、階段に向かう。すると、下から話し声が聞こえる。


「相部屋のやつ、今は他のやつの部屋に居るから、俺一人なんだ」

「戻ってこない?」

「戻って来るなって言ったからな」


 下りようとした足を止めて、俺は廊下へ引き返す。

 誰かは分からないが、どうやら俺は深夜の逢い引きに出くわしてしまったらしい。


 修学旅行の夜は、場所はいつもの学校とは違うし、そもそも泊まりで状況だって特殊だ。だから、気持ちが盛り上がってしまう人も居るだろう。

 俺が露木先生のように学校の教師なら、即注意に入るところだが、二人が誰だかも分からないし本人達の自己責任と放置しておくに限る。


 エレベーターを使うのも手だが、もしエレベーター内で先生と出くわしたら、やり過ごすことも逃げることも出来ない。

 仕方なく、少し遠い別の階段まで歩いて行き、えっちらおっちらダラダラと階段を下り始める。


 階段は辛い。上るのも辛いが下りるのも辛い。正直、動くのが辛い。

 眠れなかったのは、小鳥のことを考えていたということがあった。しかし、小鳥のことがすっきりした今も全く眠気が来ない。

 日頃運動をしない俺は、おそらく体が疲れ過ぎて眠れなくなったのだ。


「電話?」


 階段を下りている途中、ポケットの中でスマートフォンが震えた。


「凛恋、何かあったのか?」

『何かないと電話しちゃダメだった?』


 スマートフォンを取り出して電話を受けると、抑えた凛恋の声が聞こえる。


「ダメじゃない。凛恋だったら寝てても大丈夫だ」

『じゃあ、凡人は寝てなかったんだ』

「疲れ過ぎると眠れないみたいだ。凛恋は?」

『…………うん、凡人の声が聞きたくなった』

「嫌な夢、見たのか」

『うん……』

「今から行く」

『え?』

「部屋の外に居るから、凛恋に会いに行く」

『凡人……ありがとう。でも、大丈夫。先生の見回りとか――』

「凛恋は俺とは会いたくないのか?」

『会いたい』

「意地悪してごめん。部屋まで行ったら電話掛けるから」

『……繋いでて』

「分かった。凛恋はスキー楽しかったか?」


 再び歩き出し、俺の部屋ではなく凛恋の部屋へ向かう。


『うん。チョー楽しかった。凡人と一緒に滑れたし。里奈と萌夏に言われちゃった。修学旅行だって忘れてたでしょうって。二人の言う通り、完全に修学旅行のこと忘れてて、デートしてる気分だった』

「俺もデートしてる気分だった。凛恋が楽しそうに笑ってるのが見られて嬉しかった」

『だって凡人が一緒なんだもん。チョー幸せで楽しかった。あと二日も一緒に遊べるなんて幸せ過ぎ』


 凛恋がクスクスと笑いながら言い、最初の暗い雰囲気は薄れていた。

 凛恋の部屋があるフロアに着いて、凛恋の部屋の前に立つ。そして、繋がったままの電話に話し掛けた。


「凛恋、着いた」

『今開ける』


 すぐに部屋の内鍵が開く音がして、ゆっくりとドアが開いた。ドアの隙間から見えた凛恋は、俺の顔を見た途端にグニャっと顔を歪ませる。


『「かずとぉ……」』


 電話と正面から聞こえる二つの凛恋の声。俺はすぐに電話を切って凛恋を抱きしめた。


「大丈夫か?」

「凡人……凡人っ!」

「凛恋、もう大丈夫だ」


 俺は凛恋を抱きしめたまま部屋の中に入り、後ろ手でドアを閉めて内鍵を掛け、ドアノブを捻って開かないことを確かめる。


「凡人が……居なくなる夢だった……。どこを探しても凡人が居なくて……」

「俺は居なくならないって」

「うん……」


 凛恋の頭を撫でていると、凛恋が俺の胸に顔を埋める。


「希さんは寝てる?」

「うん」

「じゃあ、凛恋も寝ないとな。明日もスキーがあるんだし」

「…………」


 凛恋は返事をしない。その返事をしないことが、どういう意思表示なのかは簡単に想像がつく。でも、それはやっちゃいけない。

 優しく凛恋の唇にキスをして力いっぱい抱きしめる。


「また明日」

「うん、ありがとう。無理して来てくれて」

「可愛い彼女が会いに来てって言ってくれたら、どこでも行くに決まってるだろ?」

「ありがと……凡人が抱きしめてくれたから落ち着けた」


 さり気なく凛恋の腰に手を回すと、凛恋がニコッと笑いながら俺に体を押し付ける。

 薄暗い部屋で、俺達は時間を引き延ばすためにまた唇を重ねる。

 希さんを起こさないようにそっと……でも、一度目よりも熱く。

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