【一〇八《眠れない夜に》】:一

【眠れない夜に】


 遂にやってきた修学旅行一日目、スキー場は飛行機に乗って青森空港まで行き、そこから貸し切りバスで約一時間乗せられた先にあった。


 スキー場に併設されたホテルの中に入り、割り当てられたホテルの部屋に一度荷物を置きに歩いていく。


 旅館のような大人数で宿泊出来る部屋はなく、最大でも二人部屋になる。

 当然、女子が泊まるフロアと男子が泊まるフロアは離されている。

 ホテルに居るうちは、凛恋の部屋へ会いに行くのは難しそうだ。


「凡人……また後でね」

「ああ、また後でな」


 凛恋が寂しそうに手を振って、希さんと一緒に女子の集団に混ざって歩いていく。


「凡人? おいて行かれちゃうよ」

「ああ」


 小鳥に肩を叩かれ、俺は小鳥と一緒に男子の集団に付いて行く。

 男性の引率教師がホテル内での諸注意を話し、生徒に部屋のカードキーを手渡す。

 俺は小鳥と相部屋で、小鳥が代表してカードキーをもらって来てくれた。


「小鳥、ありがとう」

「ううん。凄く高そうなホテルだね」


 小鳥がロビーの辺りを見回して感嘆とした声を出す。

 俺達の宿泊するホテルは、落ち着いた雰囲気で華やかさはないが高級感はある。

 ただ、凛恋達と泊まったロンドンのホテルよりも高級感は薄い。しかし、修学旅行の宿泊先と考えると、かなり良いホテルではある。

 説明を受けた後、一旦解散になってそれぞれの部屋へ向かう。


「スキー楽しみだね」

「小鳥は運動好きだからな」

「凡人は楽しみじゃないの?」

「みんなとスキーで遊ぶのは楽しみだな。スキー単体だったら部屋で引き籠もってる」

「プッ! 凡人らしいね」


 エレベーターに乗って部屋のある階に着くと、小鳥が小走りで駆けて行き、部屋のドアをカードキーで開く。


「凡人! 見て見て! 景色が凄いよ!」


 小鳥に続いて部屋に入ると、部屋の奥にある大きな窓の側で、小鳥が窓の外を眺めていた。

 荷物を床に置きながら窓に近付くと、太陽に照らされたゲレンデが見える。

 ゲレンデの端に設置されたリフトに座っている人影が見え、そこそこのスキー客で混み合っているのが見える。大混雑になっていると面倒だから、そこそこくらいが丁度いい。


「あっ! 準備して下に戻らないと! 凡人! 早く早く!」

「慌てなくても十分間に合うぞ」


 小鳥が慌てて荷物を整理し、俺を急かすように部屋のドアの近くで振り返る。

 完全に修学旅行に来たことで、小鳥のテンションが高くなっている。

 まあそれは、全く悪いことではない。


「分かった分かった」


 身近に自分よりもはしゃぐ人が居ると妙に冷静に物事を見られるようになる。俺は今、そういう状態だ。


「あんまりテンションを上げると、転んで怪我するぞ~」


 廊下に出て行く小鳥を追いかけながら、小さく笑って小鳥をからかう声を掛けた。




 勢い良く風景が流れ、俺は体の側面を雪の上に打ちつけた。すると、俺の上から小鳥の声が聞こえる。


「凡人、テンションを上げ過ぎると転んで怪我するよ」

「俺はテンションなんて上げてない」


 クスクスと笑う小鳥は、器用にストックで地面を押して滑っていく。

 見た目はひ弱なのに、やっぱり運動神経はあるらしい。


「凡人、大丈夫?」

「…………大丈夫だ」


 スキーウェア姿の凛恋が心配そうに上から覗き込む。

 人には向き不向きがある。同じことをやっても成長度は人によってまちまちだし、他の人に出来るから自分にも出来るというわけではない。

 それに、競争心が皆無の俺は誰かと比べない。そうは思っていたが…………俺は酷く情けない気分だった。


 スキー合宿が始まって、俺達はインストラクターに基本的な動きを教えてもらった。

 そして、今はスキー初心者の人のほとんどが、初心者コースに出て緩やかに斜面をターンしながらスキーを楽しんでいる。


 初心者でもセンスのあるやつらは、中級コースに挑戦するレベルだ。

 そして、スキー経験者は上級コースでスキーを満喫している。そして俺は、斜面にもなっていない平地で、両手を地面に付いている。

 つまり、俺はまだ初心者コースにも出られないレベルということになる。運動が苦手だと自覚していたが、自分がここまで酷いとは思わなかった。


「凛恋は希さん達と上に行ってこいよ」

「凡人と一緒が良い」


 凛恋が優しく笑ってくれる。その笑顔が嬉しいと思う気持ちがあったが、俺の情けなさがより強くなる。

 俺は平地で歩くことさえ出来ていない。

 インストラクターは、初心者コースの方に出て行った希さん達に付いて行っている。

 まあ、平地ですっ転ぶより、斜面ですっ転ぶ方が危険だから俺の方がほったらかしになっていて当然だ。

 それに、上に行ってるのは女子だし。


「凡人、落ち着いてやれば大丈夫」

「り――」

「おいおい。まだ平地で遊んでる子供が居るぞ」


 凛恋の手を取って立ち上がろうとした瞬間、その声が聞こえる。

 颯爽と滑ってくる人物が見え、そいつはゴーグルとフェイスマスクをずらして俺を見た。


「まだ平地で遊んでるやつが居るなんて思わなかったな」


 そう言った石川は、ニヤッと笑って俺を見下ろす。石川の滑り方を見る限り、スキーの経験があるのだろう。


「彼女の前で醜態晒して惨めな気分だろ?」

「今すぐ私と凡人の前から消えて」

「八戸もそんなやつとは――」


 晴れ渡ったゲレンデに、小さく鈍い殴打音が鳴る。凛恋が石川に平手打ちをしたのだ。グローブをはめている手だったから石川に痛みはなかっただろうが、凛恋から平手打ちをされたというショックはあっただろう。


「ちょっと自分が出来るからって、出来ない人を貶す方が惨めでしょ」

「ほんっと最低ね」

「凡人くん、大丈夫?」


 いつの間にか戻ってきていた溝辺さんと萌夏さんが石川と俺の間に立ち塞がり、希さんが俺の側にしゃがんで心配そうに覗き込む。

 嬉しかった。でも……心配されると酷く情けなさが濃くなる。


「刻雨高校二年生の皆さん! 昼休憩の時間です!」


 ゲレンデに響くインストラクターのその声を聞いて、俺は慎重に立ち上がって休憩場の方に歩いて行く。

 今の俺には、言葉さえ発することが出来なかった。




 昼食のビーフシチューにスプーンを付けたが、すくい上げずにボーッと赤黒いビーフシチューに視線を落とす。

 個人差という言葉では済まされない。上手くいくなんて思ってはいなかったが、まだ平地で立つことも出来ないとは思わなかった。


「凡人、ちゃんと食べて」

「ああ……」


 ああ、とは言ったものの、その言葉を発するのがやっとだった。

 俺が笑われるのはどうだっていい。俺が石川に馬鹿にされるのもどうだっていい。でも……俺のせいで凛恋に惨めな思いをさせるのが嫌だった。


「凡人、ちょっと来て」


 突然凛恋に手を引っ張られて、俺は休憩場の外に連れて行かれる。そして、建物の裏にある室外機の側まで行く。


「凡人」

「り――」


 がっつくように凛恋が唇を押し付ける。すぐに凛恋が舌を絡めてきて、俺の体にしがみつくように俺の腕を掴む。

 俺は、凛恋の腰に手を回して凛恋の体を抱き寄せた。


「午前中からずっとチューしたかった」

「凛恋……」

「スキーウェア着てる凡人とチューしないとか、絶対に一生後悔するし」


 凛恋が優しく俺の頭を撫でながら微笑む。


「スキーが上手く出来ないから何よ。凡人は世界で一番格好良いじゃん」

「凛恋に惨めな思いをさせたくなかった……」

「私は凡人と付き合って、誇らしくなったことはあっても、惨めなんて思ったことなんてないわよ」


 凛恋は唇を尖らせて俺の鼻を人さし指で突く。


「凡人にもチューしてほし――……んっ」


 凛恋の体を抱き寄せて、凛恋よりもがっついてキスをする。

 柄にもなく凹んでた自分が情けない。

 せっかく凛恋と修学旅行に来てるのだから、凛恋と一緒に修学旅行に来られていることを楽しむべきだ。

 絶対に凛恋は、俺のことを否定しないのだから。


「さ、戻ろ。せっかくのビーフシチューが冷めちゃうわよ」

「凛恋、ありがとう」

「どういたしまして。でも、私は彼氏とチューしたかっただけだから」


 クスッと笑った凛恋が手を繋いで俺の隣に並ぶ。


「凛恋?」

「どうせ私と凡人が付き合ってるのはみんな知ってるし平気よ。それに、石川に私と凡人がラブラブなの見せ付けてやるわよ」


 凛恋と一緒に手を繋いで休憩場の中に戻ると、ニヤッと笑った溝辺さんと目が合う。


「あーら、そこのラブラブカップルは、二人で席を外して来て何をしてきたのかなー」

「私と凡人の秘密よ」


 椅子に座って、俺はスプーンで口にビーフシチューを運ぶ。そしてバケットを食べようとしたら、隣から凛恋にさっとバケットを掴んで一口大に千切って俺に差し出す。


「凡人、あーん」

「…………凛恋、流石にそれは」

「良いじゃん」

「凛恋~、隣」


 萌夏さんが呆れた顔を凛恋に向けながらそう言う。俺が凛恋の隣に視線を向けると、ニコニコ笑顔を向けている露木先生と目が合った。


「八戸さん、多野くん? 節度は守ってね」




 午後のスキーが始まってすぐ、俺はインストラクターに全力で謝られた。

 それは、俺が使っていたスキー板が壊れていたからだ。


 俺が平地で転び続けたのは、スキー板が壊れていたせいで、踏ん張りが利かない上にバランスが取れなかったからだったのだ。だから、俺はいつまで経っても平地で転び続けた。


 新しいスキー板に変えた途端、すんなり立てた上に初級コースを滑るところまで難なく行くことが出来た。

 そして、中級コースをたどたどしく滑れるようになったところで、一日目が終了した。

 夕食を終えて食堂からロビーに戻る途中、横から肩を叩かれる。


「凡人くん、スキー板が壊れてなかったら、午後は上級コースだったんじゃない?」

「いや、上級は無理だ。斜面がキツ過ぎる」


 ニコッと笑いながら言う萌夏さんに答えながらロビーに戻っていると、凛恋が隣でため息を吐く。


「明日まで凡人と会えないのか……」

「でも、また明日会えるだろ?」

「だって同じホテルに泊まってるのに別々だし……」

「凛恋と凡人くんを一緒に寝かせたら、二人じゃなくて三人になっちゃうでしょ?」

「ちょっ! 萌夏っ! ななな、なんてこと言うのよ! あっ!」

「えー? 希が居るから三人になるじゃん? 凛恋は何を勘違いしたのかな~?」


 萌夏さんがニヤァーと笑いながら小走りで駆けて行く。凛恋はカッと顔を真っ赤にして俺の手をそっと握る。


「最近は対抗出来るようになったけど、からかいではまだまだ萌夏さんの方が上だな」

「萌夏は容赦なさ過ぎだし。あっ……」


 ぷくぅっと頬を膨らませた凛恋が、ホテルのロビーに着いてギュッと手を握る。


「凛恋、また明日な」

「うん。また明日」

「希さん、溝辺さんもまた明日」

「うん、また明日」「また明日」


 俺は凛恋と手を離してから、後ろの方で教師同士で何か話している露木先生を見る。挨拶はしておきたいが今は忙しそうだ。

 凛恋達が自分達の部屋に戻って行くのを見送ると、俺は小鳥と一緒に部屋に戻る。

 部屋に戻って自分のベッドに座ると、俺は窓の外に視線を向けた。


「凡人、お風呂どうする?」

「小鳥が先に入って良いぞ」

「本当に? ありがとう、もうクタクタで」


 小鳥がすぐに風呂の準備をして、部屋備え付けの風呂に入って行く。

 窓から見えるゲレンデにはナイター設備があるからか、夜でもスキーを楽しむ人達がちらほら見える。

 スキーは転んで痛かったし疲れた。でも、みんなと滑るのは楽しかった。

 運動は嫌いだがみんなと遊ぶのは好き。

 その自分の矛盾に笑いながら、ホッと息を吐く。そして、凛恋と重ねた唇を撫でる。


「別れ際にキスしとくんだった」


 凛恋の唇の感触が鮮明に残っている。温度も柔らかさも凛恋の味も、だからか、鮮明に残っているから名残惜しくなる。もっと感じていたいという欲求が湧いてくる。


 彼女と、凛恋と一緒に修学旅行。凄く嬉しいしテンションが上がる。

 本当は、凛恋が一人部屋だったら、多少のリスクを冒しても凛恋の部屋に行ったはずだ。でも流石に、希さんが居るから自重した。


「凡人、お風呂上がったよ」

「分かった」

「ごめんね、先に入らせてもらって」

「気にするな」


 小鳥は自分のベッドに座って深く息を吐く。


「凡人、お風呂から上がったら聞いてほしい話があるんだ」

「聞いてほしい話?」

「うん。急ぐ話じゃないから、お風呂に入った後で大丈夫。ゆっくり入って来て」

「あ、ああ」


 俺は小鳥に返事をして部屋の風呂場に入る。

 小鳥に改まって話があると言われると気になる。

 小鳥の表情は明るかった。だから、暗い話ではないと思う。でも、話の切り出し方が、小鳥らしくないように思えた。


 手早くシャワーを浴びてから出ると、小鳥がベッドに座りながらボーッと窓の外を眺めていた。


「小鳥、話ってなんだ?」


 俺はベッドに座らず、窓際に立って窓の外を見ながら尋ねる。あえて、小鳥の方は見ないようにした。


「鷹島さんに振られちゃった」

「ごめん」

 笑った声で言う小鳥に俺は思わず謝った。


 小鳥と鷹島さんの連絡先を交換させたのは俺だ。その時に鷹島さんの小鳥に対する印象を悪くしてしまった可能性はあった。


「謝らないでよ。僕は凡人にお礼が言いたかったのに」

「お礼?」

「うん。鷹島さんみたいに可愛い人、僕が普通に生活してたんじゃ話し掛けられもしなかった。でも、凡人のお陰で鷹島さんと連絡先の交換も出来たし、その……初めてデートも出来た」

「小鳥」

「緊張したよ。プラネタリウムに行きませんか? って言うだけなのに凄くドキドキした。それで、一緒にプラネタリウムに行ったけど、鷹島さんの顔しか覚えてない」


 視線を向けた小鳥はクスクス笑って、ベッドの上で足をパタパタ動かしていた。


「それで、二回目のデートに誘った時に、告白しちゃった。雰囲気で告白しちゃうってあるんだね。自分でもびっくりしたよ。それで、ごめんなさいって言われて振られちゃった」

「小鳥……」


 小鳥は晴れやかな表情で言ったが、俺は笑顔を向けることなんて出来なかった。

 好きな人に振られたのだ。ショックを受けないわけがない。

 本当は笑って話すのも辛いはずだ。それなのに、小鳥は笑って振られたことを話している。

 それは、小鳥が俺に深刻に考えさせないようにと気を遣ってくれたからだろう。でも…………。

 その気遣いが、酷く心を凍えさせた。

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