【一〇六《人間らしさ》】:二
凛恋の家を出てしばらく歩き、俺は立ち止まって地面を見る。
こんなにも、人に消えてほしいと思ったことはない。
あの、池水を殺してやるとハサミを持った時とは違う。あの熱せられた、怒りに焚き付けられた殺意とは違う。
無関心を装った冷たい関心。
意識の外に外したい。居ないものとして扱いたい。でも、それが出来ないほど視界の中に、意識の中にチラついてくる。
だから、純粋に俺と凛恋の世界から消えてほしいと思った。
俺が人に消えてほしいと思った瞬間、道路を走っていた車のタイヤが、水溜まりに溜まった水を勢い良く跳ね上げた。
冷たさと、勢い良く水を叩き付けられた痛みを感じ、全身ずぶ濡れになった重みを感じる。
人を消したいなんて思ったから、きっと神様から罰を与えられたんだ。
でも、そう考えても、俺が間違っているなんて思えなかった。
「多野くん!? どうしたの!?」
雨が降っている上に日が落ちて暗くなった歩道の先、街灯が照らして明るくなったその場所に、傘を持った露木先生が立っていた。
「多野くん!? どうしてそんなに濡れ――誰かに何かされた?」
近付いてきた露木先生が、俺の顔を見て血相を変える。
それは、ずぶ濡れになった俺が、顔に滴る水に紛れて涙を流していたからだ。それを見付けてくれた露木先生が心配してくれた。
「大丈夫です。ただ車に水を跳ね上げられただけですから」
近くにあった水溜まりを指さしながら言うと、露木先生は険しい顔をする。俺の言葉が真実かどうかを考えているのかもしれない。
「とにかく体を冷やすのは良くない。付いてきて」
露木先生はそう言って、ずぶ濡れになってふやけた俺の手を握る。そして、強く前に引っ張った。
「入って」
露木先生の家まで連れて来られて、玄関で貸してもらったタオルで濡れた体を拭くと、露木先生にそう言われる。
「玄関前で立ってる方が人に見られてまずいから」
「お邪魔します」
そう言って俺が中に入ると、露木先生は俺の顔を下から覗き上げる。
「ジャージは濡れてない?」
「はい」
「じゃあ着替えはあるね。シャワー使って温まって。冷えたまま帰ったら風邪を引いちゃうから」
「それは……」
「生徒を家に連れ込むのは良くない。だけど、あのまま返して、大切な教え子に風邪を引かせたくないの」
露木先生が分かっていないわけがなかった。一度噂が立っている俺を家に連れてくることがどういうことか。
また誰かに見られたら勘違いをされて噂が広められるかもしれない。でも、そういう嫌な思いをするかもしれないと分かりながらも、露木先生は俺を心配してくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「そのまま上がっていいから」
「でも……」
「早く」
「はい」
俺はまだずぶ濡れで、水が滴り落ちている。その状況で廊下に上がったら汚してしまう。でも、露木先生は躊躇う俺の腕を引っ張り上げて廊下に上がらせた。
露木先生が先にシャワーの準備をしてくれて、俺は露木先生が出て行った脱衣所でずぶ濡れになった制服を脱ぐ。
水で濡れて重くなり、肌にピッタリとくっ付く制服は脱ぎ辛かった。
浴室に入って、蛇口をひねった俺は、頭から熱いお湯を被る。
最初は冷たい体には痛い温度だったが、体が温まると丁度良い温度になった。
体が温まってすぐに、また頭の中に思い浮かぶ。消してしまいたいと。あいつを……石川を、俺と凛恋の居る世界から跡形もなく消し去りたいと。
石川が消えることで、間違いなく凛恋は安心して生活出来る。
石川が存在する以上、凛恋は石川という存在を警戒しなければならない。俺も、凛恋に対して何をするか分からない石川が居なくなれば、もっと平穏に暮らせる。
石川は凛恋のストーカーだったコンビニ客と池水のようなことはしない。
ただ、直接的な行為に出ずに凛恋の周りをうろちょろしている石川の方が、よっぽど悪質だった。あれは一途なんて綺麗事で済ませられる存在じゃない。
そんな純粋でキラキラとしたものじゃない。
消し去りたいと思えはする。でも、実際にはそれが出来ない。
口では、凛恋に関わるな、凛恋に近付くなとは言える。でも、それを強制出来る力は無いし、それを強制出来るような悪事を石川はまだやってない。
シャワーを浴び終えて、露木先生が用意してくれたタオルで水気を拭き取り、ジャージに着替えた。
「露木先生?」
脱衣所から廊下に出て、露木先生の名前を呼んでみる。すると、廊下の奥からジュウジュウと何かを炒める音が聞こえた。
「露木先生?」
「多野くん、温まれた?」
「は、はい。ありがとうございました」
露木先生はフライパンから白い皿の上に何かを盛る。見た感じ、じゃがいもとベーコンを炒めたやつだ。
「私が唯一上手く作れる料理! って言っても、おつまみだけど」
そう言った露木先生はクスッと笑って、ガラスのコップにお茶を注いで、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出す。
「ごめんね、いつもは飲まないんだけど、今日はちょっと飲みたい気分で」
「いえ、俺はすぐに帰りますから」
「ちょっと、多野くんに愚痴を聞いてほしいなー。それに、私も簡単な料理が出来るところも見せておかないと」
ソファーの前に置かれたローテーブルの上に、炒め物の載った皿とお茶の入ったコップを置き、缶ビールを片手に露木先生がソファーを手でさす。
「座って座って」
「失礼します」
露木先生に勧められるまま座ると、箸を一膳渡されて、俺は視線を炒め物に向けた。
「ただ、じゃがいもとベーコンを合わせて炒めただけなんだけど、お父さんには評判がいいんだよ? お酒飲む時に、真弥~あれ作って~ってよく言われるんだから。食べてみて」
「い、いただきます」
受け取った箸を持ち直して、炒め物に箸を伸ばす。箸の先で角切りにされたじゃがいもを摘んで口に運ぶと塩こしょうとサラダ油の味がした。
美味しいか美味しくないかで言えば、美味しい料理だった。
「美味しいです」
「そうでしょ?」
露木先生はニコッと笑って自分の箸で摘みながら缶ビールの口を開ける。
「あの、ご両親は?」
「二人とも出掛けてるみたい。もう帰ってくるとは思うけど」
「そうですか」
露木先生のご両親が帰ってきたら、また改めてお礼を言わないといけない。
「何かあった?」
「えっ?」
二口目の炒め物を食べながら、露木先生が何気なく口にする。
それに俺は戸惑った声を発するしか出来なかった。
「泣いてたから、何かあったんだよね?」
気付いているのは分かっていた。でも、人を消し去りたいと思ったなんて、どう話せば良いのか分からない。
「凛恋が……石川のことを怖がってて」
「石川くんにはちゃんと私の方から注意もしたし、担任の先生にもお願いした。それに、今日の放課後、石川くんのクラス担任の先生と一緒に、石川くんと石川くんのお母さんと面談して来たの」
「話にならなかったでしょう」
あの親子と面談と聞いて、最初にその言葉が出た。それに、露木先生はクスッと笑ってビールをグッと飲む。
「うん、全く話にならなかった。お母さんの方は自分の息子は悪くないの一点張りだし、石川くんの方は私が多野くん贔屓の教師だって非難してばかり」
そう言った露木先生は、あまり学校では見ないムッとした表情で言った。
「贔屓するに決まってるよ。だって、多野くん可愛いし」
「はい?」
予想外の言葉にポカーンとして固まっていると、露木先生はプリプリと怒りながらパクパク炒め物を口へ運ぶ。
「相手は私の可愛い教え子の八戸さんも傷付けた生徒でしょ。平等に扱いたい気持ちはあるけど、本心では絶対に無理。私は石川くん、大嫌い」
「つ、露木先生?」
「しかも何よ、あの親。息子が酷いことしてるのに、自分の息子は悪くないって言ったのよ? 私は、あなたの息子さんは、私のクラスの生徒達全員を侮辱するような行為をしましたって言ったの。そしたら、あなたのクラスの生徒の方が、私の息子に悪いことをしたんでしょって。頭にきた、本当にムカーってきた」
露木先生は怒りを露わにして、グッと缶ビールを飲み干す。
すると、おもむろに立ち上がって冷蔵庫から二本目と三本目を持ってきて、再びソファーに座る。
「多野くんと八戸さんが悪いわけないじゃない。他の子達だって、間違うことはあるかもしれないけど、あの時に悪かったのは石川くんだけ。それだけは絶対に断言出来る」
「露木先生、そういうこと生徒の前で言って良いんですか?」
「多野くんなら大丈夫。それに、勤務時間外だから黙っててね」
人さし指を立てて唇に当てた露木先生が、ニコッと笑いながらウインクをする。すると、俺に首を傾げて尋ねる。
「多野くんはどう思った?」
「…………石川なんて、消えてしまえば良いと思いました」
正直に話した。
でも、罪悪感は思ったよりなかった。心のつっかえが取れてスッキリした感覚だった。
「そう思って当然だよ。大切な彼女を傷付けられたんだから」
「でも、許されることじゃありません」
「そうだよ。もしそれを、実際にやったらね。でも、思うだけなら何も悪くない。私だって、人を消し去りたいと思ったことなんて何度もあるから」
「露木先生……」
「特に……池水渡のことは今でも許せない」
露木先生のその言葉と一緒に、握っていた缶ビールの缶がペコッと軽い音を立てた。
「本当にあの人だけは一生許せない。…………教師として、一人の女性として、あんな卑劣な行為をしようとするなんて……」
「俺は、本気で池水を殺そうとしました」
「その気持ちは分かる。でも、私は多野くんが実際にあの人を殺さなくて良かったと思う。あんな人間のために、多野くんの人生を無駄にさせなくて良かったと思ってる。多野くんは本当に素晴らしい人だから」
「人を殺したいとか、消し去りたいと思った俺がですか?」
俺の質問に、露木先生は視線を向けず答える。
「多野くんは、人を守れる人だから。打算とか下心とかなしに、純粋に人を悪意から守ろうと考えられる人」
露木先生はそう言って、グッと缶ビールをあおる。
「前原先生に言われたの。多野くんの復帰と快気祝いに二人でご飯に行きませんかって」
その言葉に、酷い冷たさと嫌悪を感じて、俺は視線をテーブルの上に落とした。
「ガッカリした。本当に残念だった。私は多野くんの良さを知って、多野くんが何も悪くないって信じて色々と協力してくれてると思ってた。でも、前原先生の気持ちには打算と下心があった」
露木先生の握っている缶が、さっきよりも明確な音を立てて潰れる。
前原先生にあった打算と下心は、露木先生への好意だったのだ。
露木先生に協力すれば露木先生の印象が良くなるという打算があった。そして、露木先生と親密になれるという下心があった。
「私の大事な生徒の人生を、自分の下心のために利用するなんて、本当に最低。軽蔑したし、もう二度と話もしたくない」
ショックだったか、と言われればショックではある。でも大したショックではない。
これが露木先生がそうだったと言われたら酷く落ち込んだだろうが、前原先生に対しては露木先生ほどの信頼がない。
露木先生は三本目の缶ビールをグッと飲むと、唇をギュッと閉じる。
「あの人と付き合ってるって噂まで立ってて、結構迷惑」
「露木先生自身も聞いてたんですか」
「生徒から言われるからね。露木先生と前原先生って付き合ってるんですか? って。一度か二度、多野くんのことで外で会っただけなのに」
やっぱり、露木先生は前原先生と付き合っていなかった。そして、それを良いことだとは思っていなかった。
「ごめんね、私の愚痴にばかり付き合わせちゃって。なんか、多野くんは話しやすくて」
三本目を飲み干した露木先生は、俺の頭に手を置いて優しく撫でた。
「多野くんが一番可愛いんだ。こういうこと言うのは良くないんだけど、本当に多野くんが一番可愛い。贔屓になるようなことは絶対にしないけど、つい目を掛けちゃう。多野くんに学校を楽しいって思ってほしいから」
「露木先生、ありがとうございます。楽しいですよ、今が一番」
俺は頭を撫でられながら露木先生に笑顔でそう答える。
それに、露木先生は頬を赤くしてニコッと笑った。
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