【一〇六《人間らしさ》】:一

【人間らしさ】


 土砂降りの雨が地面を叩く音が、締め切られた窓越しに響く。

 その激しい雨を、濡れてボヤけた窓ガラス越しに見ながら、俺はあくびをした。


「多野くんって、日頃はボーッとしてるようにしか見えないけど、実際は凄くしっかりしてて、不思議な人だよね?」

「露木先生、それって褒められてます?」

「褒めてる褒めてる。やる時はやるメリハリのある人ってことだから」


 いつも通りの昼食風景。俺と凛恋と希さんと露木先生の四人で、音楽準備室に集まる。

 そのいつも通りの状況で、露木先生が控えめにテーブルの上に置いた弁当箱に俺達三人の視線が集まる。


「露木先生、今日は手作りですか?」

「う、うん」


 困ったような、恥ずかしいような、そんな表情をし歯切れの悪い声で答えた露木先生は、さり気なく小さな息を吐く。

 その仕草から、何か訳ありだというのは分かる。

 普段なら、俺は他人の事情に首を突っ込まない。でも、露木先生が分かりやすく訳ありさを醸し出しているということは、話を聞いてほしいのかもしれない。


「何かあったんですか?」

「多野くん、聞いてよ~」


 俺が尋ねた言葉に、露木先生が「よくぞ聞いてくれました!」とでも言いたげな、明るさと暗さが入り混じった表情をする。


「母に……料理くらい出来るようになりなさいって怒られちゃって」


 アハハと笑う露木先生は、弁当箱の蓋を開けて大きく肩を落とす。

 焦げた卵焼き、形の定まらないおにぎり、他はかなり出来栄えが良いが、冷凍食品の惣菜であるのは明らかだ。

 つまり、自分で作った卵焼きとおにぎりは、露木先生としては上手く出来なかったらしい。


 露木先生の視線は、さり気なく俺と凛恋の弁当に向けられる。それを見て、俺は納得した。


 俺と凛恋の弁当は、凛恋が毎日作ってくれる。

 もちろん露木先生の弁当と同じように、凛恋も冷凍食品を使う。しかし、卵焼きは色も形も綺麗だし、おにぎりも日によって三角だったり俵形だったりするが、きちんと形が整えられている。


 露木先生は、自分で作った弁当と、生徒の凛恋が作った弁当を比べたのだ。そして、自分の不出来さに落ち込んでいる。


 日本のことわざで、青は藍より出でて藍より青し、というのがある。

 これは、染め物に使う藍草を使って染めた布が、藍草の青より鮮やかな青になるということから”弟子が師匠よりも知識や技術を越える”という意味がある。


 どの業界でも、先人の知識を得た後人は、先人よりも優れていて当然だ。しかし、露木先生は凛恋の料理の先生ではないが、学校の先生であり人生の師匠であり、そして女性の先輩でもある。

 そういう色んな立場的な問題で、酷く自分が不出来ではないかと思ってしまうのかもしれない。


「八戸さん、料理が上達する方法ってある?」


 しかし、そこで変なプライドから嫉妬しないのが露木先生の良いところだ。年下で教え子である凛恋にも、素直に質問して助言を求められる教師はなかなか居ないと思う。


「そうですねー、慣れだと思います」

「やっぱり、何でも地道に続けるのが一番だよね」

「後は、好きな人のために作ると上達しますよ?」

「好きな人か~」


 自分の弁当に視線を落としながら、露木先生は凛恋の言葉を呟く。

 その呟きには、しんみりとした雰囲気が込められていて、そういう話には疎い俺でも、露木先生にはまだそういう相手が居ないのは何となく分かった。




 土砂降りの中、凛恋の家にお邪魔すると、部屋に入った途端、早速凛恋が俺の目の前で着替えをしようとする。

 俺はその凛恋に背を向けて、スマートフォンの画面を見た。


 俺のスマートフォンの画面には、クラスメイトの男子からメールが入っている。

 そして、そのメールには『分かった』という一言としょぼんとした顔文字が書かれていた。


 このメールの送り主である男子は、文化祭の日にステラに一目惚れをしたらしい。

 そして、それでステラと仲良くなりたいからと、俺にステラの連絡先を教えてほしいと言われた。


 俺は一度、小鳥と鷹島さんの件で失敗したことがある。だから、ステラにメールで『ステラと仲良くなりたい男子が居るんだけど』とメールをしてみた。

 すると『凡人以外の人に興味はない』という一言が返ってきた。


 メールの内容を直接男子に伝えるわけにも行かず、俺は男子に『今はヴァイオリンを頑張りたいから、ごめんなさい。だってさ』とメールを返した。その返事が『分かった』だったのだ。


 嘘は良くないことではある。でも、真実を言って酷く傷付くなら、嘘で軽く傷付けた方が良い。

 もちろん、嘘だったとバレてしまえば、男子はより傷付いてしまうが。


「凡人、お茶とお菓子を持ってくるから待ってて」

「ありがとう凛恋」


 着替えを済ませた凛恋がそう言って部屋を出て行く。

 それを見送った後、俺は窓の外から雨を眺めた。

 相変わらずの土砂降り。これは帰る時までには止みそうにない。


「雨、止みそうにないね」

「ああ、帰る時も土砂降りだろうな」


 戻ってきた凛恋が後ろから俺を抱きしめて、耳元でそう囁く。俺は、その凛恋に返事をしながら、体の前に回ってきた凛恋の手の平に手を重ねる。


「泊まって行けば良いじゃん」

「明日学校だろ。それに、着替えも何もない」

「そうだけどさ……凡人と一緒に居たい」


 凛恋の手が首から解かれ、俺の手を引ったくるように握る。

 凛恋と一緒にテーブルの前に座りなおし、俺は凛恋が持ってきてくれたお茶に口を付ける。


「そういえば、凡人は露木先生の噂知ってる?」

「露木先生の噂?」

「うん。露木先生が数学の前原(まえはら)先生と付き合ってるって噂」

「そんな噂があるのか」


 凛恋から聞いた話は初耳だった。しかし、そういう噂話は男の俺よりも女子の凛恋の方が早く回ってきそうだ。


 数学の前原先生と言えば、俺の署名の時にも協力してくれた先生だ。

 前原先生は悪い先生ではないし、年齢も露木先生と近そうだから全くの不釣り合いというわけでもない。


「で、今日の露木先生のお昼、手作り弁当だったじゃん?」

「彼氏が出来たから、露木先生が料理に目覚めたってことか?」

「そうそう。同じ職場だし、一緒に居る時間も長いし」


 凛恋は楽しそうに露木先生と前原先生の噂話をする。しかし、俺は露木先生は前原先生と付き合っては居ないと思う。

 もし彼氏が居たら、昼休みのあのしんみりとした雰囲気に違和感が出て来る。


「露木先生には幸せになってほしいなー」

「凛恋、露木先生にその話はするなよ。もし違ったら露木先生が困るだろ?」

「あれ? 凡人は露木先生と前原先生は付き合ってないと思うの?」

「昼休み、もの凄くしんみりとしてたからな。彼氏が居て幸せって時にあんな顔はしないだろ」

「あ……確かに、なんか困った顔してたね」


 凛恋がハッと気が付いた表情をする。そして、口をへの字に曲げた。


「もしかしたら、露木先生も噂を聞いてたのかな?」

「その可能性もあるな。生徒から直接聞かれてるってこともあるかもしれないし」

「あっ…………」


 俺の言葉に凛恋が小さく声を漏らす。そして、スッと視線を下に向けて俯いた。


「凛恋?」

「別れてた時に、凡人と露木先生が付き合ってるって噂が立った時のこと思い出した……」

「ああ、そんなこともあったな。でも、ただステラの発表会の会場に露木先生が居ただけだったけど」

「今回もそうなのかな」


 露木先生は、俺の署名活動の件で色々と動いてくれていた。それで、協力してくれていた前原先生と学校外で会っていてもおかしくはない。

 露木先生が前原先生と付き合っていないという確証もないが、あまり余計なことに触れるのは野暮だ。


「……凡人は露木先生とチューも――ッ!?」


 すっかり不安が募ってしまった凛恋の唇を強引に奪い、俺は凛恋の言葉を遮る。そして、凛恋の気持ちが冷たくならないように、俺は必死に自分の思いを凛恋に伝えて、凛恋の心を温めよとする。


 俺は凛恋の両手と俺の両手を組んで、凛恋の体をカーペットの上に押さえ付ける。

 そして、上から覆い被さりながら停められなくなった想いに身を委ねながらキスを続けた。




「かずとぉ……もう、ゆるしてぇ……」


 ベッドの上に体を投げ出してぐったりしている凛恋の上に覆い被さり、俺はもう何一〇回目かのキスをする。


「俺は凛恋しか好きじゃないって分かってくれたか?」

「わかった……ごめん、不安になって……」


 凛恋の隣で横に寝る俺は、自分の体を凛恋に近付け、凛恋の体を抱き寄せる。


「良いよ不安になっても、その度に分からせれば良いから。俺が誰を好きなのかを」

「うん。嬉しい、凡人の好きが私に向いてるの」

「俺も嬉しいんだけどな。凛恋の好きが俺に向いてると」

「向いてる! 凡人にしか向けてない!」

「じゃあ、もうこの話は終わりにしよう」


 凛恋の不安は凛恋の好きが溢れるからだ。凛恋の心の器に俺への好きが収まりきらなくて、それで不安になる。だから、溢れた凛恋の好きは俺が全力ですくい上げる。

 一滴たりとも、凛恋の好きを不安にして無駄になんてしない。


「凡人……」


 凛恋から優しくキスをしてくれて、何度も何度も俺の頭を撫でる。


「文化祭の後、凡人に言い寄ってくる人が居なくて良かった」

「言い寄ってくる人なんて居ないって」

「石川を追い払った時、凄く嬉しかった。凡人がみんなが一生懸命作ったんだって石川に怒ってくれて、凄く救われた。私もだけど、裏で頑張ってたみんなも、フロアで接客してたみんなも、全員が凡人のお陰で救われた」


 ベッドの中で、凛恋が俺の手を握る。

 その手は小刻みに震えていて、俺はその震えを止めるために強く握り返す。


「……凡人、怖かった」

「凛恋……」

「文化祭の準備してる時に石川がクラスに来て私に言ったの。凡人に騙されてる、目を覚ませって。私は怒って怒鳴り返そうとした。……でも、怖くて出来なかったの」

「良いよ。そんなことしなくても」

「言わなきゃいけなかったのに……凡人はあんたが言うような悪い人間じゃないって。でも、目の前で大きな声を出されたら体が震えて……」


 凛恋の手から、凛恋の全身に震えが広まって、俺はその震えを止めるために凛恋の体をそっと、でも強く抱き締める。


「どうして私のこと、諦めてくれないんだろ……」

「石川が凛恋のことを諦めなくても関係ない。絶対、凛恋はあんなやつに渡さない」

「私……石川にエッチしたいとか思われてるのかな……」

「させないっ!」


 守る。絶対に凛恋を守る。

 独占欲が強いとか、勘違いしているとか、そう思われたって構わない。凛恋が俺に溢れさせるくらい好きを持ってくれているから、俺はその凛恋の好きを信じて凛恋を独占する。

 誰にも、俺以外の男に凛恋を指一本でも触れさせたくない。


「怖い……凡人怖いよ……」


 凛恋の髪を手ですいて、凛恋の頬に優しく手を置き、俺はまた凛恋にキスをする。でも、がっつくような凛恋の好きを貪り、自分の好きを押し付けるようなキスじゃない。

 そっと、ゆっくり凛恋の強張りを解くように、凛恋の冷たくなった心の奥まで俺の好きが届くように、優しくじっくりと凛恋の好きと俺の好きを紡ぐ。


 好きと好きが絡み合い、好き合い、愛し合い、溶け合った気持ちはお互いの心と心を絡め合って近付け、自然とぴったり重なって一つになる。

 そうなった俺と凛恋の心に残るのは、ただ一つの純粋な幸福だけだった。

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