【一〇五《砕けなかった存在》】:一
【砕けなかった存在】
放課後、音楽室に呼ばれて来てみれば、見慣れた顔だが刻雨生ではない人物の姿が目に入る。
そして、その人物は俺にまっすぐ視線を向けたまま口を開いた。
「凡人酷い」
「まずは状況の説明からだろ、ステラ」
なぜか、刻雨高校の音楽室で椅子に座っているステラは、俺に相変わらずの無表情を向ける。しかも、その無表情でいきなり酷いときたものだ。
「私は凡人のヴァイオリニスト。ステージに立つなら私に一声掛けるべき」
「いや……ステージに立つって言っても、文化祭の出し物で歌うだけだぞ?」
ステラの意味がよく分からない非難に困っていると、準備室の方から露木先生と、ステラのヴァイオリンの先生である宗村さんが出てきた。
「今回は神之木さんにも出ていただけるなんて」
「いえいえ。ステラがやりたいと言い出したことですし、ステラにも良い経験になります」
笑顔で会話をしている露木先生と宗村さんを見ていたが会話が弾んでいるようで、今は話し掛けられる状況ではなさそうだった。
俺は二人から視線を外し、ステラに視線を戻して尋ねる。
「歌のこと、誰から聞いたんだ?」
「凛恋が、凡人が文化祭でステージに立つと言っていた。と、優愛が言っていた」
「なるほど」
優愛ちゃんが世間話で話したことに、ステラが勝手に乗っかってきたということだろう。しかし、ステラがステージに立つなら俺は居ない方がいい気がする。
いや、確実に俺は居ない方が良い。
ステラのヴァイオリン演奏は世界でもトップレベルだ。だから、そのステラがステージに立って演奏するだけで一つの出し物になる。
もっと言えば、金が取れるコンサートになる。
そんなところに、歌のレッスンなんて受けたこともない俺が加わったら、ただの雑音でしかない。
「凡人、私が居るから大丈夫」
「ステラが居るからちょっと不安なのよねー」
宗村さんがニコニコ笑いながら、ステラの頭に手を置く。そして、俺の方を見てニカッと笑った。
「多野くん、結構迷惑を掛けると思うけど、許してね」
そう言った宗村さんが、音楽室の椅子に座る。それを見届けると、横から露木先生に肩を叩かれた。
「さあ多野くん。練習を始めようか」
物凄い満面の笑みでそう言う露木先生から、俺はもう一度宗村さんに視線を向ける。だが、宗村さんの方も変わらず明るい笑顔で椅子に座っている。
そして、視線をさらにステラへ向けると、ステラは自分のヴァイオリンを取り出して俺を見ていた。
その状況から考えるに、俺にはもう断る余地は残されていないのだと悟った。
一時間の練習を終えて、宗村さんが俺と露木先生に深々と頭を下げた。
「露木先生、多野くん。ステラが迷惑を掛けてごめんなさい」
「いえ、まだ練習段階ですし」
露木先生が笑顔でそう答えるのを聞きながら、俺は宗村さんに無理矢理頭を下げさせられたステラに視線を向ける。
ステラは終始、宗村さんに怒られっぱなしだった。
その理由は、ステラの演奏が目立ち過ぎるからだ。
ステラの演奏は完璧だった。
欲を言えば、ステラの演奏だけで聴きたいと思えるほどだった。だが、それがマズかったらしい。
宗村さんは、今回の出し物のメインは俺の歌だと露木先生に説明を受けたらしい。
もちろん、俺は自分の歌をメインになんてしてほしくはないが、俺の歌をメインだと考えると、ステラのヴァイオリンが俺の歌より目立っているのは良くない。
普通に考えれば、ステラの演奏に負けている俺の歌の方が悪いように見えるが、宗村さんはそうは思っていないらしい。
「ステラ。今のステラはソリストじゃなくて、多野くんの伴奏者。その伴奏者が主奏の歌を掻き消してどうするの」
ステラにまた同じことを言うと、ステラは真顔を宗村さんに向ける。
「智恵。凡人はとても素晴らしい声をしている。だから、私の演奏に負けることなんて――」
「昔っから音楽やってきたステラが本気で弾いたら、素人の多野くんの声量で勝てるわけないでしょうが!」
「智恵……痛い……」
ステラの頭をグリグリと拳で挟む宗村さんに、ステラが顔をしかめて抗議をしている。
宗村さんが言っているのは、いわゆるプロのスポーツ選手がろくに運動もやったことないやつ相手に本気を出すようなものだ。
そりゃあ、勝てるわけがない。
俺も自分なりに声を張ってはみたものの、やはり素人の俺では出来る工夫にも限界がある。
そうなると、ステラの方に抑えてもらうしかない。
本来なら、実力のあるステラに手加減させるのはとてつもなくもったいないことだ。
そんなことをするくらいなら、俺が下りた方が良い。しかし、それは露木先生がやらないだろうから、やっぱりステラに手加減してもらうしかない。
「次の合わせまでに、ステラには伴奏の弾き方をきっちり叩き込んで来ます」
宗村さんが俺と露木先生に「叩き込んで来ます」と言った瞬間、ステラの体がピクッと動くのが見えた。どうやら、かなりハードなレッスンになりそうだ。
一瞬だけ「そんなに肩肘張らなくても大丈夫です」と言おうとは思ったが、宗村さんはステラの先生であるし、そう言う適当な感じは許さないだろう。
「ステラ、協力してくれてありがとう」
せめて怒られて凹んでいるであろうステラを慰めるために声を掛けると、ステラはいつも通りの表情だった。
「次の練習、期待してて。露木先生、ありがとうございました。智恵、早く帰って練習」
「神之木さん、ありがとう。またよろしくお願いします」
露木先生がニッコリ笑って返事をすると、ステラは宗村さんの腕を引っ張って音楽室の外へ出て行った。
「ステラ、全然凹んでなかったですね」
「怒られたことよりも、演奏を良くすることを考えてたね。あの向上心があるから、上のレベルに行けるんだろうなー」
ニコニコ笑う露木先生と一緒に片付けを手伝っていると、音楽室のドアが開いて中に人が入ってくる。その人物を見て、俺は片付けの手を止めた。
「多野、話がある」
「俺にはない」
前置きも無しにいきなりそう言った石川から視線を外し、俺は冷たく答える。
「俺は話があるって言ってるんだ」
「ごめんね、石川くん。この後、クラスの方の手伝いがあるから――」
「贔屓ですか」
その言葉を聞いた瞬間、露木先生に対して侮辱した言葉を発した石川に俺が詰め寄ろうとすると、後ろから露木先生が俺の腕を掴んで止めて首を横に振る。
そして、俺と石川の間に歩み出た。
「贔屓が、多野くんのことを気に入って色々手助けしてるって意味ならそうかな。でも、私は依怙贔屓という意味での贔屓はしたことないよ」
「贔屓してるでしょう! 多野のことを守ってる! 教師がそんなこと――」
「生徒を守るのは教師の務めだよ。石川くんは多野くんの退学に肯定的だった。今の石川くんみたいに喧嘩腰で話をしても、多野くんとトラブルになるだけじゃない?」
「そいつは犯罪者の息子な――」
「石川くん。もう一度言ったら許さないよ」
露木先生は、抑揚のない冷たい声で石川に言い放つ。
「チッ……」
石川は舌打ちをして音楽室から出て行く。それを見送った露木先生は、俺の顔を覗き込んで心配そうな視線を向ける。
「多野くん、大丈夫?」
「大丈夫です。さっさと片付けて戻りましょう。……このこと、みんなには言わないで下さい」
「うん、分かった」
露木先生は笑って片付けを再開する。俺はそれを見ながら、小さく息を吐いた。
教室に戻ってすぐ、様子がおかしいのが分かった。その様子のおかしさは露木先生も気付き、俺の横を通り過ぎながら教室の中央に駆けていく。
「何かあったの?」
露木先生が尋ねると、筑摩さんが露木先生の方に歩いて来て困った顔を向けた。
「露木先生、少し良いですか?」
筑摩さんがそう言って露木先生と出て行く。それを見送ると、俺は視線を凛恋の方に向けた。
キュッと唇を結んだ凛恋が、椅子に座って腿の上でわなわなと震える拳を握っている。その凛恋の隣には、凛恋の背中を擦る希さんの姿があった。
「小鳥、何があった」
「えっ……えっと……」
小鳥の近くに行って尋ねると、小鳥が困ったように歯切れの悪い言葉を発する。筑摩さんはスマートな対応をしていたが、小鳥はそういうのは苦手だ。
何か、俺には事情を説明出来ないことがあったんだ。そしてそれは、クラスの雰囲気が悪くなり、凛恋が拳を怒りで震わせるようなことだ。
「石川くんが来て…………凡人は犯罪者の息子だから目を覚ませって、八戸さんに言っ――凡人待ってっ!」
後ろから俺の腕を掴んで来る小鳥の手を弾いて、俺は石川の教室まで歩いて行く。しかし、後ろから腕を掴まれた。
「凡人くんダメ! それじゃ石川くんの思う壺」
「多野くん、落ち着いて。私がちゃんと正式に担任の先生を通じて抗議するから!」
後ろから腕を掴む筑摩さんと露木先生を振り返ると俺は立ち止まる。そして、安心した二人が腕から手を離した瞬間、走り出した。
「凡人くん!」「多野くん!」
後ろから二人の声が聞こえるが、俺は構わず石川の教室に行く。
すると、男子数名と一緒にしかめっ面で話している石川の姿を目に捉えた。
「噂をすれば、露木先生に守られてる犯罪者の息子だ」
立ち上がった石川は、俺の方にゆっくり歩いてくる。その後ろには、数名の男子も居た。
「石川、いつまで俺に関わる気だ」
「お前が俺の視界から消えるまでだ」
「石川の視界に俺から入ったのは久しぶりのはずだぞ。それにクラスも別だから、そんなに毎日顔を合わせてないが?」
「お前が刻雨に通ってるだけでイライラするんだよ」
「俺のことが気に食わないことを気に食えとは言わない。でも、無視してくれないか? 俺のことは居ない人間だと思ってくれれば良い。石川だって俺を居ない人間だと思えばイライラもしないだろ?」
「じゃあ、八戸と別れろよ」
石川の言葉に、怒りの感情が沸き立つ。しかし、それはすぐに呆れに変わった。
やっぱり、根本的には凛恋と俺が付き合っているのが気に食わないという感情があるのだ。
いや、凛恋が自分以外の男と付き合っているのが気に食わない、か……。
「石川、お前何度も凛恋に拒絶されてるだろ」
「お前が八戸をマインドコントロールして言うことを聞かせてるんだろ!」
「犯罪者の次はマインドコントロールか……」
「詐欺師の息子だからな! そういうことが出来るに決まってる! そうじゃなかったら、八戸がお前なんかと付き合うわけがない!」
もう何度となく、そう言われた。俺と凛恋が付き合っていることを否定されるという意味では、石川以外に何人も俺へ言葉を向けてきたやつらが居た。
だから、もう呆れて返す言葉もすぐには思い付かないほどだった。
「お前、警察に注意されたの覚えてないのか?」
俺がそう言うと、石川のクラスがざわつく。やはり、石川の周囲の人間は知らないらしい。
石川は、夏に凛恋が池水からのストーカー被害に遭っていた時、凛恋の家の玄関前に立っていたことがあった。
それを、警察からやんわりと注意されたことがある。
凛恋を不安にさせるような行動は控えるようにと。でもそれは公にされていることではない。
ただの注意だから、犯罪でもなんでもないからだ。
本来は言う必要はない。でも、諦めろと言うだけでは凛恋を諦めようとしない石川を諦めさせるには仕方ない。
卑怯な手ではある。でも、石川が凛恋の周りをうろちょろすることに不安しかない。
なら、卑怯と言われても石川の行動を止めさせる方が良い。
「凡人くん!」
筑摩さんが後ろから駆け寄って来ると、石川がニヤッと笑った。
「露木先生の次はヤリマ――」
「お前、親に金積ませて俺のこと辞めさせようともしたな」
「えっ?」
後ろに立っていた筑摩さんが戸惑った声を出すのが聞こえる。しかし、俺は石川に言葉を続けた。
「お前の母親が理事長に言ってたぞ。寄付金を払ったんだから俺を辞めさせろって」
これも言う必要はないことだ。でも、俺の彼女を悲しませた上に、大切な友達を侮辱した石川には、それを思い留まらせる根拠が無かった。
「お前には、金まで積んで、保護者までまとめて、子供の俺一人を責め立てる母親が居てくれるんだ。俺にだって味方してくれる人が居ても良いだろ?」
「寄付金のことは母さんが勝手にやるって言ったんだ! 俺は関係な――」
「止めなかったんだろ?」
「な――」
「勝手にやったことだから俺には関係ないって、金を積んで俺を辞めさせようとする母親をそのまま見てたんだろ? どうせ、金まで加われば俺を辞めさせるしかないって思って笑ってたんだろ? 残念だったな、俺が辞めなくて。何が露木先生に守られてるだ、筑摩さんに守られてるだ。お前は金に守られてるだろ」
「金も実力のうちだ!」
「それだったら、俺に味方してくれる二人も、俺の実力のうちだから許されるよな? 凛恋がお前じゃなくて俺を選んで、今もずっと俺の彼女で居てくれてるのも、俺の実力のうちだよな? 実力のうちで全部許されるなら、俺も許されるよな?」
「お前は犯罪者の息子だろうが!」
「困ったら犯罪者の息子、犯罪者の息子って、お前にはそれしか俺を責める手はないのかよ。他に言ってみろ」
ぶん殴っていない分、俺は冷静だった。でも、怒っていないわけではなかった。
呆れの方が怒りよりは大きい。でも、自分が責められれば反論はせず、自分以外の誰かが悪いと喚くだけ。
話がしたいと言っていたが、結局は自分の言いたいことを言いたいだけで、俺の話なんて最初から聞く気なんてない。
「凡人くん、みんな待ってるから戻ろう。このまま石川くんと話してても無意味だよ」
筑摩さんが俺の腕を引っ張って、俺を石川から引き離す。そして、小さくため息を吐いた。
「さっきのお金の話、八戸さんには?」
「誰にも言ってない。……筑摩さん、誰にも言わないでくれ」
石川の母親が学校に払った寄付金の話は、俺、理事長、理事長の母親、石川の母親、槌屋先輩の母親しか知らない。
露木先生も、爺ちゃん婆ちゃんさえも知らないし言ってない。
「石川くんのことを庇うの? 私は、石川くんはもう少し痛い目に遭った方が良いと思うけど」
「庇うつもりはないよ。ただ、余計なことをみんなに考えさせたくないんだ。筑摩さんには嫌なことを聞かせてしまったけど」
「私は大丈夫だよ。それにみんなにも言わないようにする」
「ありがとう」
「歩こう会の時、私にしたみたいに、石川くんの目の前で八戸さんとキスしてみたら? そしたら、流石に石川くんも諦めるんじゃないかな?」
「凛恋のキス顔を誰かに見せたくない。石川なら、絶対に嫌だ」
「そうだよね」
筑摩さんと話しながら教室に戻ると、教室ではいつも通り文化祭の準備が再開されていた。
みんなの表情も明るく、俺は安心して自分の席に戻る。
「凡人……」
「凛恋、大丈夫だったか?」
「うん。希も居たし、クラスのみんなも居たから」
そう言った凛恋は机の陰からそっと俺の手を握って微笑む。
その凛恋の笑顔を見て、俺は心の中でホッと息を吐いた。
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