【一〇四《笑顔のために》】:二

 昼休み、音楽準備室で昼飯を食べていると、正面に座る露木先生がニコッと俺に笑う。


「多野くん多野くん」

「はい?」

「多野くんにお願いがあるの!」

「お願い、ですか?」


 露木先生に改まってそう言われると姿勢を正してしまう。

 背筋を伸ばして露木先生の言葉を待っていると、露木先生がテーブルの上に一枚の紙を差し出す。それは、何かの歌の歌詞カードのようだ。


「あっ! それって、今やってるドラマの主題歌ですよね?」

「ドラマの主題歌?」


 横で歌詞カードを覗き込んだ凛恋が、露木先生へ尋ねる。

 俺は凛恋の言った『ドラマの主題歌』という言葉を復唱してみるが、そもそもドラマなんて見もしない俺が復唱したところでピンとくるわけがなかった。


「そう! その主題歌を今度の文化祭で演奏しようと思って!」

「露木先生は個人で出し物をやらないといけないんですね」

「ピアノが弾けると、こういう時によく駆り出されちゃうんだよね」


 アハハと笑う露木先生から歌詞カードに視線を落とし、しばらくジーッと歌詞カードを見つめた後に露木先生に視線を戻した。


「お断りします」

「えーッ!」


 露木先生は、俺の言葉に驚いた様子で目を見開く。

 露木先生が何故このタイミングで、自分が文化祭の出し物で演奏する曲の歌詞カードを見せたのか。それは、俺にこの曲を歌わせようとしているからだ。理由は分からないが。


「えーって言われても困るんですけど……」

「多野くんは歌が上手いから、多野くんに歌ってもらえると嬉しいんだけどなー」

「私も、凡人くんは歌ってみた方が良いと思います」


 希さんが露木先生の提案に賛同する。しかし、凛恋が焦った表情で立ち上がる。


「絶対にダメです! 歌なんて歌ったら、凡人がモテモテになっちゃうじゃないですかッ!」


 凄みを感じさせるというか、心底必死そうにそう言う凛恋を見て、希さんと露木先生がニコニコと微笑ましそうな笑顔を向けている。


「八戸さん。心配しなくても、多野くんが八戸さん以外の女の子に目移りするなんてことはないよ」

「そうだよ凛恋。凡人くん以上に凛恋が好きで凛恋にメロメロな人は居ないから大丈夫だよ」


 露木先生の言う通り、凛恋以外の女子と付き合う気なんて全くない。

 それに、希さんの言う通り、俺は誰よりも凛恋が大好きだし誰よりも凛恋に惚れている自信がある。しかし、それは俺が文化祭で歌わされることとは全く関係ない。


「嫌ですよ、人前で歌うなんて」

「お願いっ!」

「露木先生にはお世話になってますし、露木先生の申し出なら協力したいとも思いますけど、人前に立つようなことは苦手なので」

「会場に居る人達はじゃがいもだと思えば緊張しないよ?」

「発表会で緊張してる小学生じゃないんですから……。そもそも、緊張するから嫌なわけではなくて、人の視界に入って視線を向けられるのが嫌なんです」


 文化祭の出し物をやるということは、体育館のステージに立つということになる。

 そうなると、刻雨生や文化祭に来た見物客の数一〇〇人に見られるということだ。そんな居心地の悪い状況は嫌だ。


「きっと、多野くんに対する周りのイメージを変えられると思うの!」

「露木先生……」


 露木先生の言葉に、俺は返す言葉をとっさに思い付かず、言葉を詰まらせる。

 俺は、栞姉ちゃんに暴力を振るっていた元彼から怪我をさせられて入院している間に、新聞の記事が発端で謹慎処分と自主退学要求の撤回を理事長が出した。でも、それは俺のことを認めたわけではなくて、世論の風向きが変わっただけの話だ。


 もちろん、保護者の大半は俺が通学していることを良くは思っていないだろう。そう言う声が俺まで届かないのは、世論とは違う意見を口にすることを恐れているからだけに過ぎない。


 俺は退学しなくても良いし転学しなくても良い。でも、学校や保護者から存在を理解してもらって肯定されたわけじゃない。

 大っぴらに否定出来なくなっただけの話なのだ。


 露木先生は、その俺に対するイメージを変えようとするために文化祭の出し物を提案してくれた。

 しかし、俺がステージに突っ立って歌うだけでイメージが変えられるとは思わない。


「凡人がモテモテになるのは嫌だけど、凡人の歌は凄く良い。だから、きっとみんな凡人に対して今よりも良いイメージを持ってくれると思う」


 凛恋が口をへの字に曲げて、納得し切っていない様子で言う。でも、さっきまでの必死そうな否定は感じられない。

 凛恋も俺が歌うことでみんなのイメージを変えられると思っているのだ。


 露木先生、希さん、凛恋の言葉を疑うわけじゃない。でも、三人は初めから俺に対して、良い印象を持ってくれていた。

 だから、俺を良い人間だと思ってくれている。


 俺は、俺を良い人間だなんて思わない。嫌いなやつは嫌いだし、俺を悪く言うやつには面倒なやつらだとも思う。

 友達や俺を味方してくれる人を傷付けるやつらは、倍以上傷付けてやりたいと思う。

 それに、家族や凛恋を傷付ける人間は、酷い苦しみを与えて八つ裂きにしてやりたいとも思う。


 俺は、刻雨で俺を嫌ってるやつらが嫌いだ。

 相手が俺を嫌っていて、俺が相手を嫌っているなら、イメージを変えるのは不可能だ。

 そもそも、俺自身が相手に持っているイメージが変わらない。


 俺も、凛恋と出会う前より、人に対して信頼出来るようになった。でも俺の生きて来た人生の根っこには、人を疑うという習慣が残っている。


 自分を疑う人間を、人は信頼しない。


 生徒の七割と、生徒の保護者の九割、それから、割合は分からないが教師の圧倒的多数が、俺が刻雨高校から居なくなることを望んだ。

 そんな相手をどう信じれば良い?


 生徒の三割と生徒の保護者の一割、それから教師の極少数に俺は感謝してる。

 圧倒的多数の俺を知りもしない人達が俺を否定する中、少ないながらも俺のことを助けようと頑張ってくれた。


 そんな俺を、俺を信頼していないやつが信じるわけがない。

 俺に持ったイメージを変えるわけが――。


「露木先生、出し物の話は保留にさせてください」

「八戸さん?」「凛恋?」


 ニコッと笑った凛恋が言った言葉に、露木先生と希さんが首を傾げる。


「……凛恋?」

「ちょっと今は、凡人も前向きに考えられないみたいです」


 凛恋が机の陰で俺の左手を握る。そして、優しく薬指を撫でた。


「ごめんなさい多野くん。無理にとは言わないけど、考えてみて」


 露木先生が酷く後悔した、申し訳なさそうな顔をして謝る。俺はそれに頭を横に振って否定する。


「いえ、露木先生の気持ちは嬉しいですから」




「凡人、シャキシャキ歩く!」

「凛恋……どこに行く気だよ……」


 休日の早朝、俺は家を訪ねて来た凛恋に叩き起こされ着替えさせられ、凛恋に手を引っ張られて外に連れ出された。

 若干肌寒さを感じる秋空の下、俺は薄明るくなった外をぼやけた視界のまま歩く。


「凡人、今日は何の日か知ってる?」

「何の日って、今日は休み――」

「違うわよ、今日は凡人とデートの日」


 そう言った凛恋が、俺の目の前に一枚の紙を差し出す。

 鮮明になってきた視界の中心にある、その紙に視線を集中させると、俺は目を見開く。


「これって……」

「そーよ。ゲームボックスとレジェンドアドベンチャー一六の同梱版の予約券よ」

「…………五万だぞ?」

「知ってるわよ」

「どうやってそんなお金を――」

「私、バイトしてたし」


 ゲームボックスは最新の家庭用据え置き型ゲーム機の名称で、レジェンドアドベンチャー一六は、ゲームボックスと同時に発売される人気ロールプレイングゲームの最新作だ。

 このゲームの発売を待っていた全世界のゲームファンが大勢居る。しかし、ゲームボックスは本体台が四万強もするし、レジェンドアドベンチャー一六のソフトも八〇〇〇円する。

 同梱版と呼ばれるゲーム機とソフトがセットになって価格を抑えているとは言え、発売日に買えば五万は掛かる。


「言っとくけど、買うのは私だから、やるのは私よ? でも、私はゲームが上手くないから凡人と優愛に手伝ってもらうけど」


 凛恋が俺の腕を引き寄せてニーッと笑う。


「凡人が頑張ったご褒美」

「凛恋……」

「凡人は頑張った。チョー頑張った。めちゃくちゃ、頑張った。なのに、何も無いっておかしいでしょ? だから、今日は朝からずーっと楽しいことするの。頭が痛くなるまでゲームして、疲れたーってベッドで爆睡して、また起きたらゲームするの。…………楽しいことしてれば、凡人は悲しい顔しなくて済むでしょ?」

「凛恋、歌のことを――」

「これはそれよりももっと前に予約してたのよ。本当に、凡人と一緒に目一杯笑いたいの。まだ……凡人は心の底から笑ってない」


 凛恋の言葉が胸の奥をせり上げ、両目の奥がカッと熱くなる。そして、気を抜いたら溢れそうなほど瞳が熱く潤った。

 凛恋の声には悲しさが滲み、辛さが込められ、痛みを感じた。俺は凛恋に余計な――。


「余計な心配させたとか思ったら引っぱたく」

「凛恋――」

「謝っても引っぱたく」

「り――」

「笑ってくれたら、チューする」

「り――」

「今のやっぱり無し。笑わなくてもチューする」

「それは嬉しいな」

「良かった。ちょっとは声が明るくなった」


 凛恋がニコッと笑って俺の腕に抱きつく。


「凡人は、まだ安心出来ない?」

「…………正直に言うと、出来ない」


 俺は否定された。否定されることは今に始まったことではない。でも、俺は今まで他人から否定されたことに怯えたことはなかった。

 だけど……今回は違った。


 俺は、もしあのまま否定され続けていたら、凛恋と一緒に居られなかった。

 一年間も離れ離れになって、知らない島で一人きりになっていた。


 俺には凛恋が居て、家族が居て、友達が居て、そして俺を認めてくれる人が居る。その人達から離れるのが怖かった。

 今は、何とか首の皮一枚繋がっている。

 今はまだ何とか、否定されずに済んでいる。

 でも……“今は”だ。


 これから先、また俺が否定されないなんて断言出来ない。

 これから先、また否定されるだろうという方が断言出来る。

 それが、小さな否定でも、大きな否定でも。


「また周りから否定されて、凛恋と、みんなと引き裂かれるかもしれない」

「させない」

「でも……」

「どこにも行かせないって言ったじゃん。それで、私は凡人をどこにも行かせなかった。凡人だって私と一緒に居たいって言ったじゃん。それで、凡人は今も私と一緒に居る。私と凡人は誰にも引き裂けないの」


 温かい凛恋の体温を感じながら、俺は凛恋と組んだ手を握り返す。

 俺は、悲しくなった雰囲気を吹き飛ばすために話題を変える。


「凛恋がゲームボックスを買うとは思わなかった」

「レジェンドアドベンチャーって、凡人が好きなゲームでしょ? 希と栄次くんと四人で行ったカラオケの時に歌ってくれた歌の。カラオケの後、一緒にやったじゃん」

「覚えてたのか」

「忘れるわけない、私と凡人の大切な思い出だから」


 凛恋と付き合う前だ。俺はカラオケで歌った曲が使われているゲームを凛恋と一緒にやった。

 それはもう一年以上前の話だ。でも、俺も覚えている。


 凛恋はそのゲームを楽しんでくれた。

 ストーリーに引き込まれ、敵には怒って、味方は応援した。その、ゲームを楽しむ凛恋を見て、俺も嬉しくなった。


「それに、ちょこちょこ凡人にレジェンドアドベンチャーのシリーズやらせてもらって、私もシリーズのファンなのよ? 最新作が出るって言うならやってみたいじゃん!」

「俺も、良いなーとは思ってたけど、ゲーム機本体が四万超えはキツいから諦めてたんだよなー」

「まあ、ゲーム機は買っとけば長く使えるし。それに、うちは据え置き型のゲーム機なかったからほしかったの」


 凛恋と優愛ちゃんはファンフューを遊ぶタイプの携帯ゲーム機は持っているが、据え置き型のゲーム機は一台もない。

 うちでゲームをする時から、欲しい欲しいと言っていた。

 タイミングが良かったと言えば良かったのかもしれない。でも。凛恋はそれを理由にして、俺を元気付けるためにしてくれた。


「とりあえず、ゲームを買ったら凡人の家に寄って着替えとかの荷物を取りに行かないと」

「荷物を纏めるの時間が掛かりそうだな」

「大丈夫よ。私がちゃちゃっとやっちゃうから」

「ありがとう凛恋」


 凛恋を間近に感じながら歩いていると、街で一番大きなゲームショップが見えてくる。そこには、びっくりするぐらいの行列が出来ていた。


「凄っ!」

「うへぇ~……やっぱり並んでるか~」


 大体予想はしていた。

 ゲームの発売日というのは、一種のお祭りのようなものだ。

 首都圏のゲームショップでは発売記念イベントか催されたりするし、全国のゲームショップでは少なからず開店待ちの列が出来たりする。

 ここも、そのお祭りを楽しもうという人達で溢れているのだ。


「結構、女の人も居るのね」

「ゲームが男の遊び、なんて言われてたのは一昔前だからな」


 凛恋の言う通り、行列には凛恋以外にも女性が沢山居る。しかし、可愛さは凛恋がダントツだが。


「凡人は並んだことある?」

「昔はあったけど、中学に入ってからは予約して、行列がなくなった頃合いに買いに来てたな」

「やっぱり、並ぶの嫌?」

「凛恋とだったら何時間でも並べそうだ」


 少し不安そうに尋ねてきた凛恋にそう言うと、凛恋は安心したように笑ってギュッと手を握る。


「出て来る時、珍しく優愛が早起きしてさー。そわそわしてんの。もう高一なのに、まだまだ子供だなーって思った」


 微笑ましく笑う凛恋の後ろを見る。凛恋の後ろには二〇代くらいの男性が立っている。

 スマートフォンを熱心にいじりながら、チラッと正面に立っている凛恋の後ろ姿を見た後に、俺と目が合って慌てて視線をスマートフォンに戻す。


 凛恋は髪は黒いが格好は明るい服装をしている。しかも、今日はミニスカートとタイツという、下半身に男の視線を集めやすい服装になっていた。


 凛恋という彼女を持って、俺も多少の寛容さが持てるようになった。凛恋は可愛いから男から視線を集めやすい。だから、視線を集めるのは仕方ない。

 俺だって凛恋が目の前を歩いていたら目で追うに決まってる。だから、つい見てしまうくらいは許してやる。ただし、明らかに下心丸見えの視線を向けていたら話は別だ。


 それに、いくら凛恋のことを他の男が見ようとも、凛恋は俺以外には気移りしない。おごっているわけではなくて、そう信じている。


「開いた開いた」


 ゲームショップの店員が自動ドアを開けると、先頭の方から少しずつ店内に入っていく。それを見て凛恋が弾んだ声を上げながら、人の流れに乗って俺の手を引っ張る。

 店内に入ると、でかでかとゲームボックスとレジェンドアドベンチャー一六のコーナーが作られ、数台のモニターに店頭用のデモ映像が流れていた。


「すみません。ゲームボックスとレジェンドアドベンチャー一六の同梱版を予約してた者です」


 レジカウンターまで行き着くと、凛恋が予約券を店員に差し出す。


「商品をお持ちしますので、少々お待ちください」


 店員がレジカウンターの裏に用意されたゲームボックスとレジェンドアドベンチャーの同梱版を持ってくる。

 俺は凛恋が会計を済ませる間、凛恋の横顔を見続ける。ふと俺に視線を向けた凛恋は、ニコッと微笑んだ。

 やっぱり、凛恋の笑顔は励みになる。凛恋が側で笑ってくれるとそれだけで元気が出る。


「凡人、ありがとう」


 同梱版の入った大きなビニール袋を手に取ると、凛恋が満面の笑みで俺の腕を組む。

 一緒に店の外に出ると、凛恋がニッと横から笑い掛ける。


「凡人、私の前なら泣いても良いからね」

「凛恋?」

「いっぱい泣いて良いよ。辛いって弱音だっていくらでも吐いたって良い。全部私が受け止める。それで絶対、私が凡人のことをちゃんと笑顔にするから」


 凛恋がそう笑ってくれた。その凛恋の笑顔に俺も、自然と笑みが溢れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る