【一〇三《フォルテッシモタイフーン》】:二

 学校も終わり、いつも通り凛恋と一緒に帰って、そして八戸家にお邪魔した俺は、凛恋の部屋でベッドの上に座らされ、隣で頬を俺の頬に擦り付ける凛恋に戸惑っていた。


「本当、何で凡人ってこんなに格好良いんだろ」


 凛恋が手に持ったスマートフォンには、凛恋が撮影した執事服姿の俺の写真が表示されている。

 隣で腕を組んでいる凛恋は可愛いが、俺の方は客観的に見ても無愛想だった。


「でも、本物の方がチョー格好良い!」

「おわっ!」


 凛恋に飛び付かれて、ギュウっと抱きしめられる。


「凡人、やったね。」

「凛恋が側に居てくれたからだ」


 みんなの協力ももちろんあった。俺に協力してくれたみんなが居なければ、絶対に謹慎と自主退学要求は覆らなかった。でも、一番俺の心の支えになってくれたのは凛恋だった。凛恋が居てくれなかったら、俺は早々に諦めていた。


「でも、当然なのよ。凡人は何も悪くないんだから」


 凛恋がテーブルに置いてある皿の上から、クッキーを一枚取って俺に差し出す。俺は凛恋の手からクッキーを食べると、俺もクッキーを手に取って凛恋に差し出す。


「あーんっ! 美味しいっ!」


 ベッタリくっつく凛恋は、またスマートフォンに写っている無愛想な俺を見る。


「凡人が執事をやったら、うちのクラスは一番人気間違いなしね!」

「女子が接客した方が良いんじゃないか?」


 接客というのは、客に対する印象が重要だ。

 俺みたいな無愛想な人間がやるよりも、女子がやった方が柔らかい雰囲気になるし印象が良いはずだ。


「女子も執事の衣装着てやる子も居るわよ? 私は去年に引き続き裏方。まあ、男の人と話すの嫌だし、最初から裏方のつもりだったけど」

「俺は凛恋が裏方でも表でも嫌だな……。表だったらめちゃくちゃ人気を集めるに決まってるし、裏方でも凛恋の手料理を色んなやつが食べると思うと…………」

「また言ってる。去年も言ったけど、凡人以外には適当よ。私の愛情は凡人にしか込めないんだから」


 凛恋がムギュムギュと俺の腕に胸を押し付けてくる。


「かーずと? ペケのこと、忘れてないわよね?」

「あっ、忘れてた」


 忘れているわけはないのだが、わざとそう言ってみる。凛恋はぷくっと両頬を膨らませると、勢い良く俺の唇にキスをした。


「こら、彼女を心配させておいて忘れてたってどういうことよ」

「冗談だよ。ちゃんと覚えてる」


 凛恋の背中に手を回して抱き寄せると、凛恋も俺の背中に手を回して再びキスをしてくれる。


「ん?」


 凛恋の頭を撫でていると、ポケットに入っている俺のスマートフォンが震える。すると、唇を離した凛恋がムッとした表情で俺を見る。


「ペケが一つから二つに増えました」

「ごめん」


 凛恋に謝りながらスマートフォンを確認すると、露木先生からの電話だった。


「もしもし? 露木先生、何かありま――」

『ヘーイ、タノカズ――』

『多野くんごめんね! 今、忙しくなかった?』


 明るい黒人青年の姿が思い浮かぶ聞き覚えのある声を遮るように、露木先生の困った声が聞こえる。

 俺は、露木先生の「忙しくなかった?」という問いに、凛恋と視線を合わせながら答える。


「凛恋と話をしてたところです」


 話は終わってキスの真っ最中ではあったが、それを素直に言うわけにもいかない。


『今、例のピアニストのジュードさんが来てて』

「はあ……」

『多野くんに会わせてほしいって言ってるの』

「なんでまた学校に……」

『多野くんの居場所が分からないからだって』

「まあ……そうでしょうね」


 学校はステラから聞いたんだろうが、自宅までは流石のステラも教えるわけがない。だから、学校に行って俺と話をしようと言うのだろう。

 しかし、ステラのことはステラと直接話して交渉するべきだ。


『……多野くん、今から学校に来られない?』


 俺は視線の先に居る凛恋を見る。凛恋は俺に両手を広げて「おいで」と言わんばかりに、受け入れ体制が万全なことを俺に示している。恐ろしいくらい冷たい真顔で。


「分かりました」


 俺がその言葉を発すると、凛恋がさっきよりも頬を膨らせて、俺の頬に音を立ててキスをする。すると、スマートフォンの向こう側から露木先生の朗らかな声が聞こえた。


『ごめんねー、仲良くしてるところに』


 声は朗らかだった。しかし、なんとなく背筋にゾッとした寒気が走る。


「いえ、凛恋も分かってくれますから」

『ありがとう。私の方は、健全なお付き合いをしてくれたら、何も言うことはないから。じゃあ、学校で待ってます』

「はい、すぐ行きます」


 電話を切り、俺は目の前の凛恋にキスをした。


「――ンンッ!? んっ……」


 いきなりキスをして凛恋はびっくりしていたが、すぐに目を閉じて俺のキスを受け入れてくれた。


「ごめん、学校に戻らないと」

「私も――」

「遅くなるかもしれないだろ? 大事な彼女を夜に出歩かせたくない」

「……凡人」

「ん?」

「ペケもう一つ増やそうかと思ったけど、一つにしてあげる」

「ありがとう」


 俺が立ち上がると、凛恋が俺の手を引っ張りもう一度キスをする。そして、耳元で囁いた。


「今度のお泊まり、楽しみにしてるからね?」




 学校に戻って来て校舎に入り、音楽準備室まで歩いて行く。すると、ピアノの演奏する音が聞こえてきた。

 軽快なリズムで細かい音が途切れることなく繋がって出来たそのメロディーは、階段を上る足を自然と軽くさせた。

 俺は階段を上り切り、音楽準備室ではなく、ピアノの音色が聞こえてくる音楽室のドアを開いた。


 いつも見慣れた音楽室に置かれた、グランドピアノにジュードが座っていた。

 ジュードは鍵盤の上を滑るように手と指を動かして音を奏でる。そして、その音が途切れた時、一つの大きな拍手が鳴った。


「凄いっ!」


 目をキラキラと輝かせた露木先生が、俺の姿を見てハッとした表情をする。


「ごめんね多野くん。多野くんが来るまで、ジュードさんが演奏してくれるって言ってくれて」


 子供みたいに目を輝かせていた露木先生は、いつも通りの表情を装っているが、よっぽど恥ずかしかったのか頬を赤くしている。


「タノカズト!」


 グランドピアノから離れて俺に近付いてきたジュードは、俺にニヤッと笑った。


「(多野凡人はステラに加えて真弥もだなんて、見た目に似合わずプレイボーイなんだね)」

「は?」

「(まあ、それはさて置き。頼むよ、多野凡人。君にステラが僕のコンサートに出てくれるように説得してほしいんだ)」

「多野さんに、神之木ステラさんがジュードさんのコンサートに出てくれるように頼んでほしいそうです」


 ジュードの近くに居た通訳の女性が、俺にジュードの言葉を説明してくれる。俺はそれに、ため息を吐いて通訳の女性に言う。


「大人しく帰ってくれって言ってください」


 俺がそう言うと、通訳の女性が俺の言葉を英語に変換してくれる。すると、ジュードはムッとした表情で俺を見た。


「(何言ってるんだ! 僕はステラに演奏を取り付けるために日本に来たんだ! ステラの承諾をもらえずに帰れない!)」

「神之木さんの出演承諾をもらえるまで帰れないと――」

「ステラはジュードと違ってプロじゃない。プロは演奏をすることで報酬を貰うし、報酬を貰う代わりに演奏をすることを承諾している。でもステラは違うだろ? ステラはアマチュアで、ステラはステラ本人の演奏をするしないの意思がある。それを強制しようとしてもダメだ。それに、俺はステラの友達だ。ステラがやりたくないって言ってることを無理矢理やらせる気はない」


 俺が言った言葉を通訳の女性がジュードに英語で伝えると、ジュードが目を見開いて俺を見る。そして、大きく肩を落とした。


「(…………僕はステラとなら、最高の演奏が出来ると思ったんだ。日本のファンに喜んでもらえると思った。でも、それは僕のエゴでしかなかったんだね)」


 通訳の女性が日本語にしてくれたジュードの言葉に、俺はジュードの肩に手を置いて微笑む。


「ちゃんと気持ちを言えば良いんじゃないか? ステラの演奏が凄いこととか、ファンを喜ばせたいとか。まあ、だからと言って、一〇〇パーセント、ステラが承諾するとは限らないけど」

「アリガトウ」


 ジュードは微笑んで俺にハグをし、ポンと両手を合わせた。


「(そうだ! 良いことを思い付いた! 急がないと! ありがとう多野凡人! また会おう!)」


 ジュードは英語でそう言って駆け出し、音楽室から出て行ってしまう。

 ジュードが何を言っているか分からなかったが、ジュードは晴れやかな顔をしていた。ということは、問題は解決したのだろう。

 結局、わざわざ来た割りには大したことはしていない。


「多野くん、ごめんね」

「いえ、ジュードが何を言ってるかは、ほとんど分かりませんでしたけど、ジュードが納得したみたいで良かったです」

「神之木さんも、多野くんみたいな友達が居てくれると安心ね」


 露木先生はジュードが座っていたグランドピアノの椅子に座り、そっと鍵盤に両手を置く。しかし、演奏を始めることはなく、すぐに膝の上に両手を置く。


「天才ピアニストの後だと、演奏し辛いね」

「俺は露木先生のピアノ好きですよ。露木先生のピアノは、堅苦しい服なんて着なくて良いですし」

「ありがとう。じゃあ、多野くんのために一曲弾こうかな。何かリクエストはある?」


 笑顔の露木先生にそう言われて、俺は少し考えて少し前に露木先生が弾いていた曲を思い出す。


「ショパンの子犬のワルツをお願いします」

「はーい」


 優しい返事の後、露木先生が軽やかに鍵盤を叩き始め、軽快なリズムでピアノが音を奏で始めた。

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