【一〇二《最期の希望》】:二

 教室に戻った瞬間、一瞬教室の中がざわめいた後、シンと静かになった。それでもう……辛かった。


「凡人?」


 凛恋がよろよろと足を進めてきて、俺の名前を呼んで尋ねる。


「ダメだった」


 出来るだけ明るい声で、軽く答えた。でも、俺が明るく振る舞って軽く感じて見せたって、教室の暗くて重い雰囲気は拭えなかった。


「希っ!」


 机が音を立てて横へズレる。その横では、床にペタンとへたり込んだ希さんと、その希さんの脇に座り込む萌夏さんの姿が見えた。


「どうして……」


 両手で顔を覆った希さんの、そんな声が聞こえる。その後、萌夏さんの鼻をすする震えた声が聞こえた。


「ほんと……どうしてよ……凡人くん何も悪くないじゃん……」


 萌夏さんが制服の袖で目元を拭ったのを見た後に顔を上げると、沢山の人が俯いて……涙しているのが見えた。


「ありがとう、みんな。みんなが頑張ってくれたから、一〇〇万人も署名が集まったし、俺も前向きに――」

「凡人は辞めさせないッ!」


 凛恋が大きな声を上げて俺の言葉を遮る。そして、俺の腕を掴んで何度も何度も引っ張った。


「一〇〇万人でダメなら二〇〇万人集めるッ! 二〇〇万人でもダメだったら、一〇〇〇万人集めるッ!」

「凛恋、人数じゃないんだ」

「じゃあ警察に言うッ!」

「警察に言ってもダメだ」

「じゃあ、裁判すれば良い!」

「もし勝てても、それまでに出席日数が足りなくなって卒業出来ない」

「じゃあ……どうすれば凡人は辞めなくて済むのッ!?」

「ごめん、分からない……」


 俺が力なくそう答えると、凛恋が振り返って床に両手両膝を突き、額を床につけた。


「みんなお願いッ! 凡人を助けてッ!」

「八戸さん……」

「筑摩お願いッ! 頭が良い筑摩と希が協力したら、凡人を助けられるでしょ!? だからお願い……凡人を助けて……」

「八戸さん……私も凡人くんがこのまま辞めるなんて嫌だよ。でも……子供の私達じゃこれ以上は……」


 筑摩さんが弱々しい声で凛恋に答える。


「凛恋……そんなことしなくて良いから」

「良くないッ! 凡人が一人になるのよ!? 知らない島に凡人が連れて行かれるのよ!? 一年間も……凡人に……会えなく……なるのよ……」


 今ならまだ、転学すると言えば留年は回避出来る。

 でも……転学すれば、凛恋の言う通り一年間は遠く離れた場所で暮らすことになる。


 俺はそれが嫌で、凛恋と一緒に居たくて、みんなと一緒に居たくて、この街に残るという望みを抱いて今日まで頑張って来た。


 選択肢は、離島に転学するか、この街にこだわるか。

 離島に転学すれば、進級出来てみんなと学年はずれない。卒業して志望校に合格出来れば、凛恋と一緒に近い大学へ通える。しかし、この街にこだわり続ければ、転学試験を受ける時期は決まっているから、ほぼ確実に留年する。


 もう、選択肢はない。




 凛恋の家から帰りながら、握る拳に力を込めた。

 凛恋は家に帰ってからもずっと泣き続けて、泣いて泣いて、泣き疲れて眠ってしまうまで、ずっとずっと泣き続けてくれた。

 薄暗い道を重い足を動かしていると、目の前にスッと人影が飛び出した。


「カズくん」

「…………栞、姉ちゃん」


 胸の横で手を振る栞姉ちゃんが、ニッコリと笑って近付いてくる。


「栞姉ちゃん……どうして?」

「弟を迎えに来たの」


 隣に並んだ栞姉ちゃんは俺の頭を撫でる。


「カズくんは頑張った」

「…………」

「どうするか決めた?」

「…………離島の高校に転学する」

「八戸さんには?」

「まだ、言ってない」

「…………そっか」


 子供の俺にはどうすることも出来なくなった。もう、大人しく転学するしかない。

 そうしなければ、大学へ行く時に凛恋と一緒に行けなくなる。

 戦略的撤退は恥ずかしいことじゃない。でも、戦略的撤退は悔しい。戦略的撤退はやり切れなくて納得出来なくて、でも生き延びるためにはやらなきゃいけない。


 凛恋は絶対に納得しないだろう。凛恋はずっと信じてくれていたんだ。

 何も悪いことをしていない俺が、理不尽な処分を受けるはずがないと。


「栞。みーつけた」


 栞姉ちゃんと並んでトボトボ歩いていると、正面からその声が聞こえた。


「探した。まあ、施設の名簿を見たらすぐだったけど」

「栞姉ちゃん、誰?」


 ゆっくり歩いてくる男性に視線を向けながら栞姉ちゃんに尋ねると、栞姉ちゃんは僅かに後退りをして俺の後ろに隠れる。そして、震える手で俺の腕を強く掴んだ。


「お前か、栞姉ちゃんに暴力を振るってたやつは」

「お前は誰だよ。栞から離れろ」


 栞姉ちゃんを後ろに隠しながら、歩いてくる男を見る。

 見た目は優しそうな好青年という感じだ。でも、顔に浮かべている笑みは冷たさを感じて気味が悪い。


「警察を呼ぶぞ」

「呼べばいい。それよりも、栞を渡してもらおうか」

「栞姉ちゃんを傷付けた相手に従うと思うか?」

「栞は俺のものだ。従う従わないの話じゃない。お前に栞の所有権はないんだよ」


 男がポケットから手を引っこ抜くと、その手を軽く振る。手の振りの反動で、男の手の中にあった折りたたみ式ナイフが軽い音を立てて、銀色に光る刃が晒される。


「栞、勝手に居なくなったら困るだろ?」


 男の言葉に栞姉ちゃんは一切何も答えない。いや、ナイフをチラつかせる男に怯えて声が発せないのだ。


「栞姉ちゃん、少し戻ったら交番がある。そこまで走れる?」


 俺が振り返ると、栞姉ちゃんは手も足も、体全体が小刻みに震えて動けそうにない。今の状態じゃ、走って逃げるのは無理だ。


「逃さないぞ? 栞は俺と付き合ってるんだ。栞はお前みたいなガキのものじゃない」

「栞姉ちゃんは俺の家族だ」

「アハハッ! アハハハッ! 家族? 栞に家族なんて居るわけないだろ! 栞は親に捨てられたんだぞ? そんな栞には俺しか居ないんだよ!」

「家族だ」

「はあ?」

「俺達は家族なんだ! てめえに何が分かるんだッ!」


 衝動的だった。握った右手の拳を男の顔面目掛けて突き出す。しかし、それよりも先に、男が手に持ったナイフを突き出した。


「カズくんッ!」


 拳を当てる前に、俺は硬いアスファルトの上に倒れ込む。アスファルトの上へ必死に腕を突っ張り、立っている男を見上げる。

 男の持っているナイフは、鈍い赤色の光を反射させていた。


「栞~、早く帰るぞ。何日も栞が居なくなってるから、ストレスが溜まってるんだ」

「あそこですっ!」

「お前ッ! 何をしてるッ!」

「クソッ! 誰だお前らッ!」


 視界の中心に居た男に、両脇から制服姿の警察官が二人飛び掛かって取り押さえる。誰かが、ナイフを持っている男を見て、通報してくれたのかもしれない。


「カズくんッ! カズくんッ! カズ――……カズくん……」


 体に力が入らなくて、俺の脇にしゃがみ込んだ栞姉ちゃんの方に首を向けることしか出来ない。

 栞姉ちゃんは、俺の体を仰向けに横たわせながら俺の頭を腿の上に載せる。


「君、どう――ッ!? 負傷者一名! すぐに救急車を向かわせてください!」


 警察官の声だけ聞こえる。視界の中では、上にある栞姉ちゃんの涙が、俺の頬にポトポト落ちてくる。その涙が落ちてくる度に、涙の温度が熱くなる。


「栞姉ちゃん……寒い……」

「カズくんッ! しっかりしてッ!」


 急に体が冷えてきて、雪が降る真冬にTシャツと短パン姿で外に放り出されたみたいだ。でも、寒さに耐えるために自分の体を抱き締めることも出来ない。


「…………栞姉ちゃん、大丈夫。……寒いけど、痛くないから……」

「カズくんっ……カズくんどうして……」

「栞、姉ちゃんは……家族だろ? 俺の、大切な家族……だろ? その栞姉ちゃんを馬鹿にされて……許せなかったんだ」

「カズくんっ…………」


 無謀に決まってたんだ。ナイフを持っている相手に、素手で殴り掛かるなんて。

 目の前の視界がどんどん霞んでいく。


 死ぬということは、案外、痛くないものだ。

 俺は、死ぬということを考えて、感情が詰まった。


 死にたくない。俺は、まだ一七だぞ。

 死にたくない。まだ、やりたかったことが沢山あるんだ。

 死にたくない。やっと沢山友達が出来たんだ。

 死にたくない。新しい家族が出来たんだ。お姉ちゃんが出来たんだ。

 死にたくない。俺にも、俺のことを好きだと言ってくれる人が出来たんだ。

 死にたくない。俺にも、好きだって言える彼女が出来たんだ。

 絶対に死にたくない。凛恋はまだ男が苦手なんだ。そんな凛恋を放っておけない。

 絶対に死にたくない。凛恋は男にモテる。他の男になんてやりたくない。

 絶対に、死にたくない! 凛恋と離れ離れになるなんて嫌だ。


「嫌だ……嫌だ……死にたくない。死にたく、ない……」

「カズくんッ! 大丈夫! もうすぐ救急車が来てくれるからッ!」

「もっと、みんなと一緒に居たい……。もっと、凛恋と、ずっと凛恋と一緒に……」




 甘い香りがして、唇が暖かさと柔らかさに包まれる。


「り……こ……」


 凛恋のキスだ。優しくて温かくて柔らかい凛恋のキス。その感触を、間違えるはずがない。


「かずと……凡人ッ!」


 凛恋のはっきりとした俺を呼ぶ声が聞こえた後、引き戸のローラーがゴロゴロと激しい音を立てるのが聞こえる。


「凡人ッ!」

「カズくんッ!」

「爺ちゃん……栞姉ちゃん……」


 耳に響く二人の声が聞こえた後、俺は目を開けて二人の姿を視界に捉えた。


「カズくん……良かった……」


 栞姉ちゃんがそう言って視界から消える。すると、すぐに肩を爺ちゃんに支えられた栞姉ちゃんの姿が視界に戻ってきた。


「…………良かった。俺……死ななかったんだ」


 思わずそう言葉が出る。そして、凛恋が握ってくれている手に力を込める。


「凛恋、ごめん。…………俺、転学する」

「凡人は転学しなくていい」

「一番、良い方法なんだ。転学すれば、一緒に大学に進学出来る。みんなと一緒に同じ時間を過ごせるんだ。俺は、みんなと一緒の時間に生きたい」

「違う、凡人」


 凛恋は横に首を振って否定する。そして、ニッコリと笑った。


「凡人の謹慎も退学要求も撤回されたの。凡人はすぐにでも刻雨に戻れる」

「………………えっ?」

「…………ちゃんと、気持ちが届いたんだよ」


 凛恋が切り抜かれた新聞の記事を見せる。


『私立高校、無実の生徒に不当な謹慎処分及び自主退学要求』


 その見出しの記事を見た後に、凛恋の顔に視線を向けると、凛恋は新聞を置いて俺の体を優しく抱き締める。


「ちゃんと、ちゃんと調べてくれた記者の人が居たの。凡人の関わった事件を全部調べて、全部誰かを守るためだって調べて証明してくれた人が居たの。それで、テレビでのニュースでも取り上げられて、無実の凡人を辞めさせるなんておかしいって、全国の人達が声を上げてくれたの」

「じゃあ…………」

「うん。理事長が記者会見して謝ってた。それで、全部撤回したの。だから、転学なんてしなくて良いんだよ」

「…………俺は、みんなと居られるのか?」

「うん」

「…………俺は、凛恋と一緒に居られるのか?」

「居られるに決まってんじゃん! 凡人と私はずっと一緒!」


 凛恋の温かい頬が自分の頬に当たるのを感じて、俺は両手に力を込めて、必死に凛恋の背中に手を回す。

 凛恋の体を引き寄せて、凛恋の温かさを強く感じて、凛恋の側に居られる幸せを噛みしめて思う。

 凛恋と一緒に居られて良かった。

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