【一〇一《わがまま》】:二

「ごちゃごちゃ言っとらんで責任者を出さんかッ!」


 ドアの向こう側から、爺ちゃんの怒鳴り声が聞こえる。

 今、爺ちゃんは田丸先輩が暮らしている施設に電話をしている。しかし、爺ちゃんの怒鳴り声から察するに、爺ちゃんの納得のいく電話は出来ていないみたいだ。


 俺は家の敷地で田丸先輩と会ってから、すぐに爺ちゃんに連絡した。

 それで、爺ちゃんと一緒に田丸先輩に付き添って病院まで行き、今は病院から帰ってきたところだ。

 田丸先輩はシャワーを浴びてから、ずっと黙って俯きベッドの上に膝を抱えて座っている。


「何ぃ? 今すぐ栞さんを連れ戻しますだと? 栞さんは怪我しとるんだぞ! しかも明らかに暴力を振るわれた怪我だ! そんな状態で戻せるわけあるかッ!」


 爺ちゃんの怒りは当然だ。田丸先輩は明らかに、誰かに暴力を振るわれている。それがどこの誰かも分からない状態で施設に戻すなんて危険過ぎる。


「栞さん」


 爺ちゃんが部屋のドアを開けて、ベッドに膝を抱えて座る田丸先輩の前に歩いて行く。そして、床に膝をついてから話し掛けた。


「何があったか、話せるかい?」

「…………向こうで付き合っていた彼氏に、殴られました」


 それを聞いて、爺ちゃんが両手でベッドの上に敷かれた布団を握りしめる。

 デートDV、恋人間で起こる暴力のことを言うその言葉は、元々のDV、ドメスティックバイオレンスから出来た言葉だ。田丸先輩はその、デートDVの被害に遭っていたのだ。


「分かった。すぐに警察に通報しよう。警察に、事情を話せるかい?」

「……はい」


 田丸先輩はそう答えるが、声には当然元気はなく弱々しい。その状況で、警察の事情聴取に耐えられるのか不安だった。

 爺ちゃんが部屋を出て行くと、田丸先輩はベッドから下りてきて俺の隣に座る。


「…………向こうに行ってから、最近彼氏が出来たの」

「田丸先輩、話さなくて良いです。これから警察に話さないといけないんですから」

「だから……凡人くんで練習させて……。彼氏は、施設にボランティアに来てる大学生。彼の方から告白されて、それで付き合ったの。そしたら、付き合って初日に、施設の男の子と話してたらビンタされた……」


 なんでその時に別れなかったんですか。その言葉が出そうになった。でも、田丸先輩が言葉を続けようとしていたから、俺は口をつぐんで黙った。


「メールをすぐに返さなかったり電話に出なかったりしたらビンタされて……エッチを断ったら失神するまで首を絞められて……。それで……今日別れてって言ったら……何度も叩かれて蹴られて、首を絞められて……やっと逃げ出せて……」

「田丸先輩、もう話さなくていいです。もう、いいですから」


 田丸先輩はポロポロと涙をこぼして、俺の手を必死に掴んで体の震えを抑えようとしている。

 なんで、こんなことをする人間が居るんだろう。好きで付き合えたなら、なんで付き合えた彼女のことを大切に出来ないんだろう。大切に出来ないどころか、なんで好きな人を傷付けられるんだろう。


「ごめんね」

「なんで謝るんですか」

「……凡人くんには頼らないようにしようって思ってたのに……ダメだった……」

「こんなになるまで、なんで我慢してたんですか。もっと早く助けてって言ってくれなかったんですか」

「…………今は、凡人くんが辛い時だから、絶対、絶対に凡人くんに迷惑を掛けたくなかった」

「…………そんなの、気にしなくていいですよ」


 俺は、田丸先輩に掴まれていない方の手をきつく握った。俺のせいで、また一人傷付――。


「でも……良かった。凡人くんが居てくれて……凡人くんが居なかったら……私はどこにも逃げられなかった……」


 田丸先輩はポロポロと涙を流しながら、俺の腕を強く握る。


「凡人くんには八戸さんが居るのは分かってるの。でも、凡人くんが居なかったら、私は誰にもすがりつけないから……」


 田丸先輩は、俺の胴に手を回して俺の胸に顔を付ける。


「キスもエッチもしてなんて言わないから。だから、せめて抱きしめさせて……」

「田丸先輩……」

「本当に凡人くんが居て良かった……」


 俺は、控えめに田丸先輩の背中に回した手を握る。

 田丸先輩は、俺が居て良かったと言ってくれた。もし、俺が早々に離島へ転学していたら、もしさっき、家の敷地に居られなかったら、田丸先輩は施設に戻っていたかもしれない。そしたらまた、田丸先輩は彼氏に暴力を振るわれたかもしれない。


「凡人くんを忘れるために付き合った私がバカだったの……そんな気持ちで付き合ったから、だから、ばちが――」

「田丸先輩は俺のお姉さんみたいな人です」

「凡人くん?」

「年上で、俺なんかよりもずっとしっかりしてて、ちゃんと一人で生きていこうと頑張れる尊敬出来る人です。だから……俺はそんな田丸先輩を傷付けたやつのことが許せません」

「ありがとう、凡人くん。私も、凡人くんのこと、弟みたいに思えるように頑張るね……」

「田丸先輩、うちに戻って来てください」

「えっ?」


 俺は、一度田丸先輩から離れて部屋を出てすぐに戻って来る。右手には、一枚の紙があった。


「これ、新しい家の間取り図です。新しい家、前の家よりも部屋数が”一部屋多い”んです」


 間取り図を見せながら、俺は思い出し笑いをしながら言う。


「部屋数を間違えてないかって言った俺に、爺ちゃんが言ってたんです。『栞さんの部屋が増えたんだから、一部屋増やさないと、凡人の部屋がないだろう』って。爺ちゃんの中では、田丸先輩は全寮制の高校に行った孫娘の感覚みたいです。それに、田丸先輩にはこっちに友達も居るでしょ? 行ったり来たりで大変かもしれませんが、帰ってくる場所はちゃんとあります」

「でも……」

「俺も田丸先輩のことは、お姉さんだと思ってますし、田丸先輩も俺のことを弟だと思うなら何の問題もないでしょ?」


 そう簡単にいかないのは分かっている。俺は田丸先輩を姉と考えられても、田丸先輩の方は難しいに決まっている。

 俺が凛恋のことを姉妹だと思えないのと同じで、田丸先輩も言葉で言えたからと言って、心からそう考えられるわけでもない。

 でも、言い聞かせれば、言葉に出していれば、たとえ最初は偽りだとしても、いつかそれが真実になる日が来るに決まっている。


「俺、転学しようと思ってたんです」

「てん、がく?」

「はい。俺が刻雨に通うことを、九割の保護者が反対してて、俺を通わせるなら子供を転学させるって。それで、刻雨の理事長から自主退学を勧められました。でも、離島にある高校の理事長をしているお婆さんに、その高校に転学しないかって言われてて……。一ヶ月以内に転学しないと出席日数が足りなくて留年になることとか、自分のせいで周りに沢山迷惑を掛けて傷付けて、だったら、俺がすぐにでも転学した方がいいんじゃないかって思ってて」


「ダメだよ。凡人くんが居なかったら、私はどこにも逃げられなかった。それに、八戸さんには凡人くんが絶対に必要だよ」

「ただ、何も出来ない俺が居るだけで、田丸先輩の役に立ったって聞いて、安心した自分が居るんです。わがまま言って、すがり付いても良いのかもしれないって。誰かの役に立てるなら、卒業するまで刻雨に居たいって藻掻いても良いのかもって」

「良いよ。悪いことなんてない。私も協力する。こんな優しくて良い子が、みんなが言ってるみたいに悪い子なわけない。それをみんなに分かってもらえるように、私も精一杯頑張る」

「ありがとうございます。でも、その前に田丸先輩は自分のことだけを考えてください。田丸先輩が安心して暮らせる、そう本気で思えてから、俺のことを考えて――」


 俺がそう言っていると、田丸先輩が俺の頭を優しく撫でる。そして、ニコッと笑って軽く俺の頬を引っ張った。


「もう大丈夫。だから、お姉ちゃんに無理しちゃダメだよ」

「田丸せ――イデデッ!」

「今から、先輩は禁止」


 俺の頬を軽く引っ張っていた田丸先輩の手に力が籠もり、鋭い痛みが頬に走る。


「田丸さ――イダダッ!」

「さん付けもダメ」

「じゃあ……田丸ね――」

「栞姉ちゃんにしようか」

「栞……姉ちゃん……」

「うん。それでオッケー」


 やっぱり言葉に出せても、すぐには気持ちは切り替えられない。だけど、栞姉ちゃんの嬉しそうな、安心したような顔を見てホッとした。


「凡人って呼び捨てにしたら、八戸さんに怒られちゃうから、私はカズくんにするね」


 そう言って、栞姉ちゃんは俺の頭から手を離す。そして、キュッと唇を閉じた後に、明るく笑った。


「ありがとう、カズくん。私、カズくんのこと好きになって本当に良かった。これからも、お姉ちゃんとしてよろしくね」

「はい、よろしくお願――イダッ! 栞姉ちゃん痛いで――」

「お姉ちゃんに敬語は無しよ」

「ごめんな――ごめん」

「栞さん、警察が来たよ」


 爺ちゃんがノックもせずに入って来て、栞姉ちゃんは慌てて俺から離れる。

 それを見た爺ちゃんは、俺へ一瞬鋭い視線を向けたが、すぐに栞姉ちゃんに優しく穏やかな眼差しを向ける。


「カズくんに一緒に居てもらって良いですか?」

「カズくん?」


 栞姉ちゃんの言葉を聞いた爺ちゃんが、今度は明らかに棘のある視線を俺に向ける。その視線に俺が怯えていると、栞姉ちゃんが微笑んで俺の頭に手を置いた。


「頼りになる優しい弟に、側に居てほしいんです」




 次の日、仮住まいの月決め賃貸マンションに、露木先生と、凛恋のお母さんが訪ねてきた。

 俺は爺ちゃんと婆ちゃん、それから栞姉ちゃんと一緒に二人に向かい合う位置で座る。


「露木先生、お母さん。今回は、ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ありません」

「多野くん! 多野くんは何も悪くないよ!」

「露木先生の言う通りよ。凡人くんは悪くない。凡人くんのことをろくに知りもしないで、凡人くんを否定している人達が悪いの」


 お母さんが首を横に振って、そう言いながら否定してくれる。


「……俺は、刻雨に居たいです」


 俺は、露木先生とお母さんにわがままを言った。二人に言うと同時に、爺ちゃんにも婆ちゃんにも、栞姉ちゃんにもわがままを言った。


「刻雨には沢山の友達が居て、この街にも沢山友達が居て、大切な家族も居て……俺はここを離れたくありません。文化祭もみんなでやりたいし、正月もみんなと一緒に迎えたい。修学旅行もみんなと行きたいし、来年の夏休みもみんなと居たい。卒業も、みんなと一緒が良いです」


 自分がやりたいことのために、自分以外に負担を掛ける。それはわがままで自分勝手だ。自分じゃ何も出来ないから、自分以外に何とかしてほしいと頼むなんて――。


「私は多野くんが卒業するまで責任を持ちたい。責任を持って、多野くんを笑顔で送り出したい。私は先生としては頼りなくて、多野くんに何度も助けてもらった。だから、今度こそ多野くんの担任らしく、教え子を守ってみせる」

「私達家族も、本当に凡人くんには何度も救ってもらった。今の八戸家があるのは、凡人くんが居たから。だから今度は、私達家族も凡人くんの助けになりたい」

「本当にっ……本当にありがとうございますっ……」


 ありがたくて嬉しくて……声が震えた。心強くて励みになって……握った拳が震えた。


「露木先生、八戸さん……凡人のことを助けてください」

「お願いします」

「お願いしますっ!」


 爺ちゃんがそう言って頭を下げると、婆ちゃんと栞姉ちゃんも頭を下げてくれた。

 俺は、目に滲んだ涙を拭った。

 俺には、俺を助けてくれる人が沢山居る。俺のために負担を背負ってくれる人が沢山居る。俺のために傷付いてくれる人が沢山居る。だから、俺はその人達になら言える。

 俺を助けてほしいという、わがままを。

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