【一〇一《わがまま》】:一
【わがまま】
純喫茶キリヤマのテーブル席で、目の前に置かれているカップに入ったコーヒーを見つめ、その深みのあるコーヒーの色を見続ける。
隣には凛恋が座り、周囲には栄次に希さん、萌夏さんに溝辺さんを含めたいつもの面々。
その中で、俺は重い唇と詰まった喉を動かして必死に言葉を発しようとする。でも、なかなか口にすることが出来なかった。
どう言えば良い?
遠く離れた離島の高校に転学を勧められた。言葉にすれば簡単だ。吐き出してしまえばすぐ終わる。でも、その言葉には絶望が詰まっている。
もう、気軽にみんなとは会えなくなる、と……。
「…………一ヶ月以内に、謹慎が解けないと欠課が出て進級に響いて来るらしい」
絞り出せた言葉は、言わなきゃいけない言葉じゃなかった。
「みんなで署名とか抗議とか、やれることやってみ――萌夏?」
明るい声を発した溝辺さんを、萌夏さんが手だけで制する。そして、俺にまっすぐ視線を向けた。しかし、同じような視線を、希さん、栄次、凛恋も俺に向けていた。
「カズ、ちゃんと話せ」
「うん、凡人くん、全部話して」
栄次と希さんに、落ち着いた声で言われる。栄次も希さんも萌夏さんも分かっているのだ。俺があえて伏せた話があると。それは凛恋もだった。でも凛恋は、黙って俺の手を握り続けている。
「…………理事長のお母さんが、別の高校の理事長をしてて、そっちの高校に転学しないかって言われた」
「別の高校に? それってどこの高校だ?」
「センシビリタ高校って名前の高校だ」
俺が高校の名前を口にしたら、戸惑うみんなの中で、たった一人だけ違う反応をした人が居た。希さんだ。
希さんは、右手で口を覆って俯く。そして、目からポロポロと涙を落として激しく頭を横に振った。
「ダメっ……その高校は絶対にダメ。他の選択肢を考えないと……」
「希? どうしたんだ?」
「センシビリタ高校は九州の南にある久熊島(ひさくまじま)にある高校なの」
「久熊島って……めちゃくちゃ遠いじゃないか……」
希さんの話を聞いて、栄次が目を見開いて声を上げる。それと同時に、俺の手を握る凛恋の手に力が籠もった。
「…………飛行機と車を使って二時間移動した後、高速船で更に二時間掛かるらしい」
俺がそう言うと、凛恋の手が俺の心を締め付けるように更に強く俺の手を握る。
「飛行機と車で二時間の上に、船で二時間!? そんなところに行ったら…………」
「…………簡単には会えなくなる」
栄次の言葉に結論を付けたのは、萌夏さんの明るさのない言葉だった。
「どうにかしないと! どうにかして凡人くんの謹慎を解かないと!」
「とりあえずカズの謹慎を解かせれば、出席日数は気にしなくていい」
「そうね! まずは凡人くんの謹慎を解かないと! 反対してる親のことはあとから考えれば良い!」
「反対してる保護者は、俺を通わせるなら子供を転学させるって言ってる。それは私立の刻雨には困るから」
「それって、学校のためにカズを切り捨てるってことだろ! そんなの許されるわけないだろ! 徹底的に戦わないと――」
「…………戦ってる間に一ヶ月経ったら、俺は進級出来なくなる。それに、一ヶ月以上頑張っても、復学出来ないかもしれない」
「じゃあカズは良いのかよッ! 凛恋さんと――」
「良いわけないだろッ! 俺だって凛恋と離れ離れになるなんて絶対に嫌だッ!」
そう怒鳴り声を上げながら立ち上がり、俺は力無く椅子に再び座る。
絶対に行きたくない。凛恋と離れ離れになるなんて絶対にあり得ない。何とかしなきゃいけない。一ヶ月以内に、栄次が言ったみたいにせめて謹慎を解いてもらわなきゃいけない。
でもその方法が何も思い付かない。
早く方法を見付けなきゃいけないのに、何も思い付かないことに苛立ちがつのる。
早くしないと凛恋と、みんなと一緒に居られなくなるのに、何も思い付けないのだ。
「マスコミに――」
「刻雨の時も今回もマスコミに報道されて、俺のことを非難する人ばかりだ。今更マスコミに何か言ったって、すぐに世の中の考えが変わるわけがないだろ」
栄次が言い終える前に否定する。
誰も言葉を発しなくなった。みんなが押し黙り、聞こえてくるのは店内に流れるジャズだけ。
「なんで……凡人が転校しないといけないの?」
沈黙を破ったのは、凛恋の震えた声だった。
「なんで?」
凛恋の言葉に答えられる人は誰も居ない。俺も、俺が転学しなければならない理由が説明出来ない。
俺の進級に影響するという理由があるが、それは学校側の理不尽な謹慎が解ければ解決する。でも……理不尽なことを否定出来る方法がない。
「…………ごめん……帰る」
「凡人……行かないで……」
この場に居続けるのが辛かった。誰も、たった一ヶ月で状況を変えられる方法が分からないと分かっていたから。
これ以上、みんなに変な負い目を感じさせたくなかった。
でも、俺の好きな人がこの場に居続けてほしいと言った。
座り続けても状況は変わらない。でも、凛恋が側に居てほしいと言った。だから、俺は側に居なきゃいけない。
二DKの月決め賃貸マンションの一部屋が俺の部屋になった。でも、部屋とテレビと簡単な収納家具があるだけ。だけと言っても、それだけあれば十分だが。
ベッドに転がっていた俺は、スマートフォンを取り出して露木先生へ電話を掛ける。すると、すぐに電話は繋がった。
『もしもし多野くん?』
「こんばんは、露木先生」
『今、多野くんの退学に反対してくれてる先生や保護者の方々と集まって話をしたの。こっちも多野くんが何も悪くないことを主張して、明日から署名を集める。絶対に多野くんに辛い思いはさせないから』
「露木先生……」
露木先生は焦ったような声で、電話の向こうから話す。露木先生は知っている。
誰から聞いたかは分からない。でも、俺にあまり時間がないことを知っている。だから、焦っていて、すぐに行動を起こしてくれた。
『多野くんは、何か相談があったんじゃない?』
「露木先生も知ってると思いますけど、離島にある高校へ転学を提案されました」
『…………そんなこと、絶対にさせないから』
露木先生は少し黙った後、はっきりとした声で言ってくれる。でもそれが、俺を元気付けるための言葉であると同時に、露木先生本人を奮い立たせる言葉であるのも分かった。
『大丈夫。絶対に大丈夫。元通りに学校に通って、みんなで文化祭の出し物を決めよう。それに、今年は修学旅行だよ! みんなでいっぱい楽しい思い出を作ろう!』
「ありがとうございます」
『駄目。ちゃんと、はいって答えて』
「…………はい」
『うん。絶対に多野くんを退学になんてさせないから』
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、励みになります」
『また、多野くんの顔を見に行くから』
「はい」
『じゃあ、おやすみ』
「夜分遅くに失礼しました。おやすみなさい」
電話を切ってベッドに寝転がり、俺は見慣れない天井を見上げる。
もし俺が刻雨にこだわり続けて、もし進級出来なかったら、凛恋達と一学年ずれることになる。
そうなったら卒業もずれて、大学の学年もずれる。
就職するのもずれる。全てが噛み合わなくなって、俺の目標が確実に一年先延ばしになる。
でも転学すれば、少なくとも一年間は凛恋と離れ離れにならなければいけない。だけど、一年間我慢すれば、将来の目標が先延ばしにならなくて済む。
俺が刻季から刻雨へ転学する時、栄次にもっと先のことを考えるべきだと言われた。だけど…………。
「凡人、いいか?」
「爺ちゃん……」
部屋に爺ちゃんが入って来て、床にあぐらを掻いて座る。俺はベッドから起き上がり、爺ちゃんの前にあぐらを掻いて座った。
「さっき、先生から電話があった。凡人のために、署名をして下さるそうだ」
「俺もさっき露木先生に電話して聞いた」
「…………済まん、凡人。俺達がしっかり娘を、お前の母親を育てなかったばかりに……」
「爺ちゃんと婆ちゃんは何も悪くないだろ。謝るなよ……」
爺ちゃんが謝る必要はない。今回のことで爺ちゃんには責任がないと思う。それに、そんなことをしても、状況が良くなるわけでもない。
「爺ちゃん、婆ちゃんは?」
「…………部屋で寝てる」
「そっか…………」
婆ちゃんは、帰ってきた時から体調を崩していて寝込んでいた。それが、俺の転学の話が原因なのは間違いない。
「爺ちゃん」
「何だ?」
「俺、転学する」
「凡人!」
「今のままが続いたら、爺ちゃんが意味もなく謝らなきゃいけなくなる。婆ちゃんはずっと心配して体調を崩し続ける。露木先生や他の先生にも迷惑を掛ける。露木先生達に賛同してくれている人にも負担を掛ける。それに……このままじゃ友達が……凛恋が学校を楽しめない」
もう、文化祭の準備を始めないといけない時期だ。年明けには修学旅行もある。
それに、俺の問題のせいで落ち着いて勉強も出来ない。
「爺ちゃん、センシビリタ高校の理事長に連絡してくれ」
「凡人、まだ早――」
「もたもたしてたら傷付くんだよッ! もたもたしてたら……大切な人達がどんどん傷付いて行くんだ……もう……そんなの見たくない……」
みんなに転学のことを話したら、みんなは俺の謹慎を撤回させようと言ってくれた。
露木先生は、賛同してくれる大人を集めて戦ってくれようとしてくれている。
婆ちゃんは、爺ちゃんと同じように自分を責めて体調を崩すほど悩んでくれた。
凛恋は、俺と一緒に居たいと言ってくれた。でも、みんな傷付いている……俺のせいで。
「もう……みんなが悲しい顔をしてるのは見たくない。みんな、みんな良い人達なんだ。俺の友達になってくれた人で、俺を悪くないって信じてくれてる人達なんだ。そんな良い人達が、俺のせいで悲しい顔になるところなんて、見たくない」
「凡人は良いのか? 凡人の気持ちはどうなんだ!?」
「…………良いよ、俺の気持ちは――」
俺の頬を爺ちゃんが打った。でも、いつも怒った時に殴られるのよりも痛くない。
「諦めるのかッ! 凡人のために傷付いてくれた人達の気持ちを無にするのかッ!」
「だったらどうしろって言うんだよッ! 保護者の九割が反対してるんだぞ!」
「そんなに簡単に転学なんて出来るわけがないだろ! ハッタリに決まってるッ!」
「ハッタリでも、九割の生徒を盾にされたら、学校は勝てるわけないだろ!」
「凡人ッ!」
俺は堪らず、部屋から飛び出してマンションの玄関を開け外へ出る。真っ暗な空の下、拳を握って叫んだ。
「どうしろって言うんだよッ!」
もう、どうすれば良いかなんて分からない。最小限のダメージで、俺が我慢すれば済む選択肢をした。でも、それでも否定される。
このままじゃ、ギリギリまで頑張っても、全部ダメになるかもしれない。
だったら、安全な方法を選べる時に選んでいた方が良いに決まってる。
俺が転学すれば、最善ではないが最悪にもならない。
きっと凛恋は止める、止めてくれるだろう。俺だって、凛恋に引き止められたらくじけてしまうかもしれない。でも、凛恋、栄次、希さん、萌夏さん、他にも沢山の俺の友達が悲しい気持ちになり続けるなら、俺は最悪にならない方法を選ばなくちゃいけないと思う。
だけど、爺ちゃんには否定された。いや……他の誰に言っても、俺の味方で居てくれる人達は否定してくれるだろう。
俺は気が付いたら、自分の家があった場所に辿り着いていた。もう、家の残骸は撤去されて、鉄筋が組まれて新たな基礎の工事が始まっている。
今は夜だから工事の作業員は居ない。でも、人が居ない方が丁度良い。
荒れた芝生の上に腰を下ろすと、物心付いた時から見続けていた家の形がくっきりと視界に浮かび上がる。でもすぐに、元の基礎工事の途中の現実が俺の思い出を塗り潰した。
ドサッ。
ボーッと組まれた鉄筋を眺めていた俺の耳に、地面に何かが落ちる音が聞こえた。
俺が音がした門の方を見ると、敷地の中に人が入ってくるのが見えた。
見慣れないセーラー服を着た女子高生。しかし、俺はその女子高生の顔を見て思わず立ち上がった。
「田丸……せん、ぱい?」
俺は、視線の先に見えているセーラー服を着た田丸先輩を見て固まった。
頬が赤く晴れ上がっている。
「かずと……くん……」
「田丸先輩!? いったい……どうした――ん、です……か?」
田丸先輩の首には、首輪のように青黒い痕があった。顔の腫れと首の青あざ。それを見て考えないわけがなかった。
田丸先輩は、誰かに暴力を振るわれたのだと。
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