【九八《休まらない時》】:二

「凛恋さん、ありがとう。凡人もとても凛恋さんの言葉で救われたはず」

「お婆、さん……」

「でも、今のうちはとても良くない状況なの。マスコミの人は時間を考えずに家に押し掛けてきて、今は警察に通報して対応してもらっているけど、家の周りにはマスコミの人達がうろうろしている。それに、私達家族のことを良く思っていない人も当然居て、そういう人達が何をしてくるか分からないの。お爺さんも私も、それに凡人も、そんな場所に大切な凛恋さんを置いてはおけないの。凛恋さんに何かあってからでは遅い。大切な凛恋さんを守るためにも、凛恋さんには安全な自宅で待っていてほしい」


 婆ちゃんの雰囲気と言葉には柔らかさがある。でも、ずっしりと重みのある言葉で、誰も婆ちゃんの言葉に反論しようとはしなかった。


「凛恋。凛恋が俺のことを守ってくれようって思う気持ちは嬉しい。でも、爺ちゃんや婆ちゃんが言ったみたいに、今は周りが騒いでる。マスコミは面白がって俺達の周りを嗅ぎ回っているし、俺達が嫌いな人達はそれこそ婆ちゃんが言ったみたいに何をしてくるか分からない。そういう状況に凛恋を置いてはおけないんだ。爺ちゃんや婆ちゃんには悪いけどさ、俺が一番大切なのは凛恋なんだ。だから、何よりも最優先で凛恋の安全を確保しなきゃいけない。そのためには、まず第一に俺達の側に居ないことが大切なんだ」

「ずっと……ずっと私の側に居てくれるって言ったじゃんッ! ずっと私の側に居てくれるって約束したじゃんッ! 約束……守ってよ……」

「凛恋、凡人くんを困らせては駄目」


 俺の言葉に、凛恋がポロポロと涙を流しながら抵抗する。その抵抗する凛恋を、お母さんが凛恋の手を握って抑える。そのお母さんの手は、小刻みに震えていた。


「凛恋、大丈夫だ。すぐにみんな興味を失って騒がなくなる。そしたら、元通りだ」


 意味は無い言葉。何の根拠も無い言葉。でも、今の俺にはそんなくだらない、情けない言葉しか凛恋に掛けられなかった。


「凡人……」

「凛恋の声が聞きたいからさ、毎日電話しても良いか?」

「うん」


 凛恋はコクンと小さく頷く。その頷いた頭の動きで涙が弾け、畳の上にポトリと音を立てて落ちた。


「毎日、会いに来るから」

「…………凛恋、そ――」

「毎日会いに来るからっ! 学校が終わったら絶対毎日来るっ!」

「…………分かった。毎日楽しみに待ってる」


 凛恋の気持ちを全て否定するわけがない。本音なら、凛恋の側に居てほしい。

 一緒に居てくれたらどんなに幸せで心強いか。

 ……でも、それで凛恋を傷付ける可能性があるなら、その気持ちを抑えないといけない。




 凛恋のお母さんが凛恋を連れて帰って、俺は一人で部屋のベッドに寝転ぶ。すると、寝転んでスマートフォンを手に取った瞬間に部屋のドアがノックされて開いた。


「カズ」

「栄次? もう学校終わりの時間か……」


 全く時間を見ていなかった俺は、刻季の授業が終わって部屋を訪ねてくる栄次の登場で、もう時間が夕方に差し掛かっていることに気が付く。


「希から話は聞いてる。こんな時まで、みんなのことを考えるなんてカズらしいな」


 栄次はテーブルの脇にあぐらを掻いて座り、俺を見る。栄次は朗らかな笑顔から、真剣な表情に変えて、あぐらを掻いた足の上に手を置いてギュッと握りしめた。


「何もしないのか?」

「ああ」

「何もしなければ、絶対に向こうは押し切ってくる。そうなったら、カズは刻雨に居られなくなるんだぞ? ……凛恋さんと一緒に居られなくなるんだ」

「栄次、俺は今、背水の陣みたいだ。でも、俺がやられれば敵は帰っていく。ただ、これ以上俺が抵抗してたら、後ろに居る凛恋や希さんや他の友達……栄次にも流れ弾が当たるかもしれない。だったら、俺がやられれば被害は最小限に済むだろ?」

「カズ!」

「…………どうすれば良いか分からないんだ。みんなを傷付けずに自分が助かる方法が。俺が抵抗したら、絶対に俺の周りの人が傷付く、それを考えると無神経に動けないんだ」

「カズ……。どうして、なんだろうな。どうして、こんなに友達思いのカズが、カズのことを何にも知らない人達に学校を辞めろなんて言われなきゃいけないんだろうな。しかも、大人が寄ってたかって子供一人を相手になんてさ……」


 槌屋先輩の母親に恨まれていて、それの仕返しなのだろう。だが、それが分かっても俺には、俺の退学要求を覆す方法が分からない。

 たとえ、私怨がきっかけだとしても、退学要求の根拠とされていることは事実だからだ。


「栄次にも悪いことをしたな」

「何も悪いことなんてしてないだろ」

「希さんを変なことに巻き込んだ」

「ボイコットは希が考えてやったことだ。希は希なりにカズのことを助けたかったんだ。それに、俺だってカズのために何か出来ないかって考えてる。でも……」

「でも……何も思いつかないよな。俺もだ」


 子供には力がない。大人が持っている責任能力も社会的地位も経済力も影響力も、全て大人の方が子供より高い。

 いくら子供が泣き喚いても、大人の力で全部押さえ付けられて、進む方向さえ強制される。

 たとえ、子供が正しいとしても、大人の絶対的な力に強制されたら、子供はそれに逆らう術がない。


「カズ、このままじゃダメだ。こっちも動かな――」


 その栄次の言葉を止めるように、栄次のスマートフォンが着信音を鳴らす。栄次は素早くポケットからスマートフォンを取り出すと、耳にスマートフォンを当てて電話に出た。


「もしもし、希?」


 栄次は希さんからの電話を受けると、俺の目を見た後に立ち上がって部屋を出て行く。

 俺に聞かせられない話なのだろう。それが、栄次と希さんの惚気話だったらマシな方だ。


「カズ、ごめん。希と会うから帰る」

「そうか。希さんが変なことに巻き込まれないように気を付けておけよ」

「じゃあ」


 足早に栄次が出て行くのを見送り、俺は自分のスマートフォンの画面を見る。


『詐欺師の息子、多野凡人の詳細』


 そんなスレッドタイトルで、インターネットの匿名掲示板に書き込まれた書き込みを見て、小さくため息を吐く。

 今回問題になったことの詳細が書かれているのはもちろん、匿名掲示板のくせに俺の名前は全く隠されていない。

 俺は書き込みを見て、頭に引っ掛かったことが頭から離れない。


 書き込みには、俺が学校内で石川を殴って暴力事件を起こしていることも書かれていた。それは、今回問題になった俺が犯罪者の息子であるということとは関係ない。

 犯罪者の息子だから暴力事件も起こすという関連付けには出来るだろう。でも、暴力事件の話は浮いて見えた。そして、その暴力事件の書き込みはこうだ。


『多野凡人は刻雨高校の男子生徒に対して、右手でいきなり殴り付けるという暴力事件も起こしている』


 俺は”右手で”という部分がものすごく気になった。そして、その気になった部分のせいで、ある程度予測が出来てしまう。


 匿名掲示板に書き込んだ人物は、俺にものすごく恨みがあって、俺が右手で石川を殴ったことを知っている人。

 そして、石川を俺が殴ったことを、俺がどの手で殴ったかも覚えているくらい恨んでいる人。


 インターネットのニュースで、俺の個人名が書き込まれているという記事があった。そこから辿った結果、俺の名前が匿名掲示板で公開されていた。


 いつかはそうなるのではないか、そうは思っていた。だから、個人名が書き込まれていること自体に驚きはしない。しかし、こんなにも分かりやすく書き込み者が予想出来るとは思わなかった。

 こんなに分かりやすいと、何かの罠なのではないかと思ってしまう。


「凡人」

「爺ちゃん?」

「先生がいらしてくれたぞ」


 ドアを開けた爺ちゃんが、中に人を招き入れるように動くと、部屋の中に露木先生が入って来た。しかし、その露木先生の表情は、いつものニッコリと笑った明るいものではなかった。


「多野くん……」

「露木先生、明日にはみんな学校に来ると思います。それと、凛恋のことをよろしくお願いします。まだ凛恋は男が苦手で――」

「…………保護者の方に話を聞いてもらおうと思ったの。でも、誰も聞く耳を持ってくれなかった。それどころか…………私は金券で買収されているから、多野くんを擁護するに決まってるって……」

「露木先生は生徒思いで優しい先生です。それは生徒が一番分かってます」


 ペタンと座り込んだ露木先生は、両手で顔を覆ってすすり泣く。


「保護者がダメなら学校側を変えようと思ったの。でも、ほとんどの先生が多野くんに自主退学をって早々に結論付けて。私や、他の数人の先生が何も悪くない多野くんを守ろうって言ってるのに……聞く耳を持ってくれなかった……」

「何やってるっですかッ!」


 俺は慌ててベッドから下りて、床に両手をついて額を床につけようとした露木先生の腕を掴んで止める。


「ごめんなさい……ごめんなさい…………ごめんなさい……多野くん……」

「露木先生は何も悪くないでしょう」

「約束したのに……絶対に誤解を解いてみせるって……」

「露木先生が俺のことを信じてくれてるだけで、それで十分ですから」

 露木先生の体を起こして座らせると、露木先生は手の甲で目を押さえる。

「氷、持ってきますね」

「ごめん」


 俺は一旦部屋を出て、母屋の台所に氷を取りに行く。

 泣いて腫らした目では帰れないはずだ。露木先生は来たばかりだが、帰る頃には今から冷やしておけば腫れも引くだろう。


 台所で小さなビニール袋に冷蔵庫から氷を入れ口を縛り、コップにお茶を入れて部屋に戻る。

 部屋に戻ってくると、露木先生は正座した足の上で両手を握り締めていた。


「露木先生、氷です。後、お茶もどうぞ」

「ごめんね……」

「露木先生が謝る必要はないって言いましたよね?」

「でも、多野くんのために何も出来てない」

「露木先生はどうにかしようと動いてくれました。結果が露木先生の思う通りにならなかったとしても、俺には露木先生が俺のために頑張ってくれたって事実があります。俺はそれだけで良いですよ」


 テーブルを挟んで露木先生の前に座ると、露木先生が膝の上で握った手の上にポトリ、ポトリと涙が落ちるのが見えた。


「多野くんはすごく良い子なのに、多野くんの名前くらいしか知らない人が多野くんを悪いと決め付けてる。それに、多野くんのことを良く知ってる学校の先生達まで、多野くんを退学させようだなんて……」

「仕方ないですよ。俺の母親のことは、事実ですからね」

「多野くんと多野くんのお母さんは別じゃない!」

「そうやって考えられない人が多いから、俺は謹慎になってるんです。そして、それは露木先生が謝ることじゃありません」


 露木先生は俺を守ろうとしてくれている。だが、露木先生のように俺を守ろうとしてくれる人よりも、俺を排除しようとする人が多い。だから、俺は排除されようとしている。

 それは、俺を守ろうとしてくれている露木先生には、なんの落ち度もないことだ。露木先生とは違う考え方の人が多いだけ。


 多数決は、どんな理不尽なことでも、賛同者が多ければまかり通ってしまう。だから、俺を排除しようとする人達は同じ考えの人を集めて、大きな集団を作って自分達の意見を主張した。


「露木先生、もう俺のことはいいですから。凛恋や希さん達のことをお願いします」

「駄目よ! 多野くんも私の大切な教え子なの! その多野くんが傷付いているのに放ってはおけない!」

「ありがとうございま――」

「凡人ッ! 先生を連れて部屋から出ろッ!」


 露木先生に頭を下げてお礼を言っている途中、部屋のドアを開けた爺ちゃんが怒鳴る。

 俺は咄嗟に露木先生の腕を掴み、靴を履きながら庭に出た。そこで、俺は母屋を見て立ち止まった。


「…………なんだよ……これ……」


 顔に焼けるような熱風が当たり、目も鼻もその熱風でヒリヒリ痛む。強い風が流れると、黒い煙が風で煽られるように目の前を横切り、酷く焦げ臭い香りが鼻を刺す。


「多野くんッ! 外にッ!」


 立ち尽くしていた俺の手を引っ張りながら、露木先生がそう叫ぶ。俺は露木先生に引っ張られながらも、視線を向け続けた。


 轟々と炎を上げて炎上する母屋に。

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