【九九《焦土と化し、洗い流されていく》】:一
【焦土と化し、洗い流されていく】
あっという間だった。
あっという間に、母屋を燃やしていた炎は母屋全体に燃え広がり、母屋を飲み込んで灰にした。
俺の視界の中では、防火服を着た消防士が何人も横切り、鎮火の終わった現場で撤収作業をしている。
誰がこんなことを……。そう思った。でも、そう思っても手に力が入らず、悔しさで拳を握ることも出来なかった。
爺ちゃんが消防士に言っていた。火炎瓶が投げ込まれたと。
火炎瓶は中に可燃物を込めた瓶の口に、布や紙で栓をして、その栓をした布や紙に火を付けて投げる投てき武器だ。そんなもの、勝手に飛んでくるわけがない。
悪意のある誰かが、俺の家に投げ込んだんだ。
「凡人、先生には帰ってもらった。今からホテルに行くぞ」
「いい」
「家は使えない。どこで寝るつもりだ」
「ここに居る」
物心付いた頃から、ずっと同じ姿だった。
悪く言えば古臭い家。でも、良く言えば味があって思い出が染み込んでて、落ち着く家だった。それが今、ただの灰になっている。
門の前には黄色い規制テープが張られ、俺は中に入ることが出来ない。そもそも、ただの灰に寝泊まり出来るわけがない。でも、この場を離れたくはなかった。
「…………誰だよ」
「凡人……」
「誰だよッ! こんなことやったやつはッ!」
その場でやり場のない怒りを叫ぶ。怒りを叫んでやっと、俺は拳を握ることが出来た。
俺を退学させようとするやつらにも、俺のことを好き勝手報道するマスコミにも、俺のことを無責任に笑う世間の不特定多数にも、俺は我慢した。我慢して、堪えて……その結果、住む場所を奪われた。
「凡人、来い」
強く爺ちゃんに腕を引っ張られ、俺は放り投げられるようにタクシーへ押し込まれる。助手席には俯いて座る婆ちゃんの顔が見えた。
「出してください」
後から乗り込んできた爺ちゃんが、俺の横に乗り込んでそう言うと、ゆっくりとタクシーが走り出す。
俺は後部座席から、リアウィンドウ越しに見える、俺の家だった場所を振り返った。
ホテルに着いてホテルの部屋に案内されて、でも、すぐに部屋に入る気は起きなくて、俺は部屋に入らずホテルを出た。
すっかり日は落ちて、まだ秋と言っても夜風が冷たい。
あてもなく歩き出して、すぐに灰になった自分の家が思い浮かぶ。そして、それを振り払うように頭を横に激しく振った。
でも、消え失せるどころか、より鮮明に浮かび上がる。
忘れることなんて出来ない。
振り払うことなんて出来ない。
鮮明に、べっとりこびり付いて、くっきり焼き付いた光景は、どうやっても頭から離れなかった。
犯罪者の息子だったら誹謗中傷されて良いのか。
犯罪者の息子だったら学校に通うことも許されないのか。
犯罪者の息子だったら住む場所を奪っても構わないのか。
世間から悪だとされている対象には、何をやってもいいのか。
そんな言葉が浮かんでも、声を上げることも出来ない。
俺は昔から、どんなに酷いいじめを受けても耐えられた。それは、俺には俺を信じてくれる家族が居たからだ。
俺には、帰る場所があったからだ。
でももう、俺には帰る場所が無い。
帰る場所が無い。そう思った瞬間、足の力が抜けそうになった。でも、必死に足に力を込めてアスファルトで塗り固められた地面を歩く。
今どこかで座り込んだら二度と立てなくなる。そんな気がして、必死に二本の足で立って歩き続けた。
「凡人、ここで何をしてるの?」
歩き続けた俺の横から、俺はそう声を掛けられる。その声の方向を見ると、隣にはステラが立っていた。
「ステラ……」
「凡人?」
ステラが俺の顔を覗き込んで、首を傾げる。そしてすぐに、俺に言葉を掛けた。
「凡人、誰に何をされた? とても凡人が辛そうに見える」
俺にそう尋ねるステラは、きっと俺のことを知らないんだ。
俺はステラに、俺の母親のことを話したことがない。それは、話せばステラがどう反応するか怖かったからだ。だから、ずっと今で黙ってきた。
ステラが知ったらどう反応するだろう。犯罪者の息子とは友達で居られないと言うだろうか? いや、ステラはきっとそんなことは言わない。
でも……もしかしたら……。
「ステラ、勝手に歩いて行って――…………」
ステラの後ろから、三〇代前半くらいの女性がステラの肩に手を置いて声を掛ける。そして、俺の姿を目で捉えると、ジーッと俺を見て固まった。
だが、すぐにステラの方を向いて両肩を掴んで言った。
「ステラ! 男を逆ナンするなんて、成長したわね!」
俺は、何故かカウンター席に座らされ、目の前に置かれた湯気を立ち上らせるラーメン鉢に視線を落とす。
しょうゆベースのスープの中に細麺が沈み、その上にはメンマと海苔とチャーシューとなるとが載っている。
左隣にはステラが黙々とラーメンを食べていて、その向こう側ではさっきステラに声を掛けてきた女性が、ビールジョッキを片手にステラの肩を激しくバシバシと叩いていた。
「友達なら早く言いなさいよ~! てっきり、ステラが男を引っ掛けてきたのかと思って喜んじゃったじゃない」
「智恵(ちえ)、痛い」
「あ! 多野くん、私は宗村智恵(むねむらちえ)。ステラのヴァイオリンの先生よ! それと遠慮せずに食べて! 麺の伸びたラーメンが好きならゆっくり食べて!」
随分出来上がっている感じの宗村さんからステラに視線を向けると、ステラは俺のラーメン鉢を見て首を傾げる。
「凡人はラーメンが嫌い?」
「いや……そういうわけじゃないけど」
「だったら食べて元気を出して」
「あ、ああ……」
ステラと一緒に宗村さんにラーメン屋に連れて来られ、それで座らされて勝手にしょうゆラーメンを注文されて目の前に置かれた。
だから、俺が頼んだわけじゃない。でも、ステラの友達だからと宗村さんが気を遣ってくれたのだから、手を付けないわけにもいかない。
箸とれんげを手に取り、れんげでスープをすくって口に運ぶ。
しつこくないしょうゆスープの味と、スープの温かい温度が伝わり、ホッと心が据わる感じがした。
「凡人、美味しい?」
「ああ、美味しい」
ステラに尋ねられて答えると、ステラは宗村さんの方を向いて声を掛けた。
「凡人が美味しいと喜んでる。智恵、ありがとう」
「そう? 良かった。でも、多野くんが例の凡人だとはねー」
チラッと俺に視線を向けた宗村さんは、明るく嬉しそうに笑う。
「ステラの演奏がいきなり劇的に変わったと思ったら、演奏を聴かせたい人が居るって言い始めて。それから瞬く間に国音で金賞。ステラの殻を破ってくれてありがとう」
「いえ、俺はステラの演奏に救われた側なので」
「そっか。多野くんもステラの演奏に惚れたのね。私もステラの演奏のファンなのよ。それで、もっとステラの演奏を磨いて、世界中、全ての人にステラの演奏を聴かせるのが夢なの。でも、今のステラだと、夢で終わらないでしょうけど」
「智恵、食べ辛い」
ワシャワシャとステラの頭を撫でる宗村さんに、ステラは迷惑そうに言葉を返す。それでも、宗村さんはステラを撫でる手を止めようとはしなかった。
俺は目の前のラーメンに箸を伸ばし麺をすする。こんな時でも腹は減るのかと、自分のことを責めたくなった。でも、ラーメンは美味しくて温かかった。
「凡人、何が――」
「ステラ~? そういうことは、こんな場所で聞くものじゃないわよ」
「じゃあどこで聞けばいい?」
「もっと人目がないところが良いわね~」
俺に話し掛けてきたステラの言葉を遮り、宗村さんはそうステラをたしなめる。しかし、ステラは首を傾げて不思議そうな顔をする。
「ステラはだからモテないのよ。女は気遣いが大事なの」
「智恵は独身。だから、智恵の言葉は信ぴょう性がない」
「その遠慮の無さもモテない理由よ」
大分失礼なステラの発言にも、宗村さんは慣れたように言葉を返す。
宗村さんは、俺のことを知っているのだろうか?
宗村さんはテレビは見そうだが、インターネットの匿名掲示板は見そうな人ではない。でも、この街に住んでいるということは、噂話は聞いたことがあるのかもしれない。
「私の場合は、私に釣り合う男が居ないだけよ。その気になれば、結婚相手の一人や二人すぐに連れてきてやるわ」
グッとビールを飲み干した宗村さんは、ステラから俺に視線を戻してニッと微笑む。
「ステラって変わってるでしょ?」
「ええ、大分。でも、凄く良い子です」
「そっか。それを多野くんが分かってくれてるなら安心ね。追加のビール下さ~い」
ビールの追加注文をする宗村さんの横で、俺は残ったラーメンを食べ始める。
しつこくないそのしょうゆスープは、少しだけ俺の心を緩めてくれた。
「じゃあ、後は若い者同士で!」
食べ終え宗村さんが一人で歩き出そうとする。しかし、その宗村さんはかなり千鳥足だった。
「凡人、ごめんなさい。智恵をこのまま一人で行かせるわけにはいかない」
「ああ、ステラは宗村さんに付いていった方が良い」
まともに歩けていない宗村さんを心配して、ステラが宗村さんの体を支えながら俺に謝った。
「凡人、愛してる」
「ごめん、俺には凛恋が居るから」
「じゃあ、また」
ステラはそう言って、フラフラと千鳥足で歩き出す宗村さんの後を付いていく。それを見送って振り返ると、俺は立ち止まって目を見開いた。
パンッという弾けた音が左耳に聞こえ、俺は左頬にヒリヒリとした痛みを受ける。
「…………凛恋」
「ステラから電話があった。凡人の元気がない。ステラじゃダメだから、私にすぐに来てほしいって」
「ステラ……いつの間――」
今度は右頬だった。凛恋は振り抜いた手を反対側へ返し、手の甲で俺の右頬を打つ。打たれた右頬にジンジンとした痛みが走る。
「ふざけんじゃないわよッ! 黙って居なくなるなって言ったじゃん!」
「ごめん……」
「……心配したんだから。家のこと、お爺さんに聞いて……本当に心配した……」
「ごめん……どうしても、ホテルの部屋でジッとしてる気になれなくて」
凛恋が前から俺の体をギュッと抱き締め、背中を何度も撫でる。
「凡人、今日はずっと一緒に居るからね」
「明日学校だろ」
「荷物持ってきた。パパにもママにも許可もらったし、お爺さんとお婆さんにもちゃんと言った」
「俺はシングルの部屋だぞ」
「お爺ちゃんにダブルに変えてくださいって言ったらしてくれた」
全く……爺ちゃんは凛恋に甘い。でも、その甘さが今回は助かった。
今日、一人で寝ろと言われても、俺は絶対に寝ることなんて出来なかった。ホテルの部屋に一人で座っていることさえ出来なかった。
「ステラが見付けてくれてよかった。本当に心配した」
「凛恋、俺は――」
「分かってる。でも、傷付いてる凡人が一人で居ることが心配だったの。…………本当に……なんで……こんなことに……」
歩き出すと、手を繋いだ凛恋が自分の口を手で押さえて、そう嗚咽を漏らす。
凛恋は泣いてくれる。俺のために悲しんでくれる。いつもそうだ、いつも凛恋はそうやって俺のことを心配して考えてくれる。
凛恋と一緒にホテルへ戻ってくると、爺ちゃんと婆ちゃん、それから凛恋のお父さんが居た。でも、みんな俺を怒ろうとはしなかった。俺に気を遣ってくれたのだ。
俺は凛恋に手を引かれ、ホテルのエレベーターに乗る。凛恋は二人っきりのエレベーターで、手を繋いだまま俺に体をもたれ掛からせる。
凛恋は言葉を発しない。でも、ピッタリくっつけた体からは凛恋の体温が伝わる。
「凛恋、ありがとう。側に居てくれて」
「私が凡人の側に居るのにお礼なんていらない。私が凡人の側に居るのは当たり前なんだから」
「ああ」
「着いた」
凛恋は部屋のある階に着くと、俺の手を引っ張ってズンズン進んでいく。そして、俺達が泊まる部屋のロックをカードキーで外すと、ドアを開けて中に入った。
安いビジネスホテルだからか、凛恋とロンドンで泊まったホテルよりも狭いし質素だ。でも、その狭さと質素さが落ち着いた。
「凡人……」
部屋に入ってすぐ、凛恋が俺の下唇を自分の唇で挟む。そしてついばむようにねっとりとキスをして、凛恋は俺の首に手を回しながら微笑む。その凛恋の瞳から、すっと雫が落ちた。
俺は凛恋がしてくれたように、凛恋の下唇を自分の唇で挟んで、ついばむようにキスをする。
「凡人、お風呂入った?」
「いや、まだ入ってない」
「じゃあ、一緒に入ろっか」
ジーッと見上げる凛恋の顔から、俺はさり気なく下に視線を向ける。
凛恋は丈の短いミニのフレアスカートを穿いていて、スカートの裾から伸びる足はタイツに包まれて色気を感じる。
視線を凛恋の顔に戻すと、凛恋がクスクス笑っていた。
「ミニスカート穿いてきて良かった」
「えっ?」
「凡人がミニスカート好きだから、凡人が喜ぶかなって思って。さっ、お風呂入るわよ!」
凛恋が手を引いてシャワールームに歩いている。凛恋がシャワールームのドアを開くと、狭っ苦しいユニットバスが見える。しかし、隣に立っていた凛恋は微笑んで俺の腕を抱く。
「凡人とくっついて入れるね」
「狭いのは喜ぶことなのか?」
「だって、凡人の一番近くに居られるんだから、嬉しいに決まってるじゃん。…………凡人」
シャワールームの床に立った凛恋が、俺の前に立つとシャツを脱ぎ捨てて微笑む。淡いピンクで、大小様々な花柄の刺繍があるブラ。その下着を見て、俺は凛恋の腰に手を回して抱き寄せる。
「凛恋…………」
「凡人、泣いて。……悲しい気持ち、我慢しちゃダメだから。私の前くらい、弱くなって良いから」
凛恋が頭を優しく撫でながら、そう温かい言葉を掛けてくれる。その言葉に、俺の中にあった堰(せき)が砕けた。
「…………凛恋っ……家がっ……」
「うん……」
「気付いた時には火が上がっててっ! 何もっ、何も出来なかった……。あっという間に燃え上がって……灰になって…………」
「凡人っ……」
凛恋がギュッと抱きしめてくれながら、俺と一緒に泣いてくれる。
俺は、凛恋の体を抱きしめたまま、しばらく凛恋の腕の中で泣き続けた。
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