【九六《認識の懸隔(けんかく)》】:二

 次の日。体育前の休み時間に、俺は両手で積み重なったファイルの山を抱えて歩く。


「本当にごめんなさいっ!」

「なんで露木先生が謝るんですか」

「体育の前なのに運んでもらっちゃって」

「これを運んでから体育館に行っても間に合いますよ」


 体育館へ向かっている途中、ファイルの山を持ってフラフラ歩いている露木先生を見付け、その状態で放っておけるわけもなく、俺が代わりにファイルを持っている。


「森滝先生にファイルを移動しておいてって言われちゃって……」

「また森滝先生ですか」

「…………はぁ~、この前のテストで、また赤城さん、多野くん、筑摩さんが一位、二位、三位だったのが気に入らなかったみたい」

「根本的な問題は、森滝先生が若い露木先生に嫉妬してるからだと思いますけど?」

「はぁ~……勘弁してよぉ~」


 露木先生は大きく息を吐きながら肩を落とす。

 子供の社会でも大人の社会でも、妬み嫉みは存在する。

 露木先生は若くて人気もあるから、そういう妬み嫉みを受けやすい人なのだ。


「…………多野くん、あれから八戸さんとは上手く行ってる?」

「はい。変わらずです」

「良かった…………八戸さんのこと、傷付けたくなかったから。まあ……八戸さんは大人だから、飲み込んでくれたんだろうけど……」


 露木先生はチラッと俺を見て、すぐに視線を正面に向けた。


「多野くんは平然としてるよね」

「あそこで露木先生が内笠を挑発しなかったら、萌夏さんも露木先生も酷い目に遭ってました」

「切山さんは、大丈夫?」

「俺が見る限り、元の萌夏さんです」

「そう…………でも、辛かったと思う。それもこれも――」

「内笠が自分の欲望に勝てない弱い人間だったせいです。萌夏さんも露木先生も、そんな内笠に脅された被害者です」

「多野くん……」

「俺は、露木先生に感謝してますよ。俺の親のことを知ってても、露木先生は優しく接してくれますし、凛恋にも希さんにも萌夏さんにも親身になってくれる。そういう露木先生に出会えて良かったと思ってます。きっと、俺以外の生徒もそうですよ。だから自信を持って下さい。露木先生はニコニコ笑ってる方が良いですよ。その方が話しやすいです」

「うん。ありがとう」


 ニコッと笑った露木先生が視線を前へ向けると、廊下の向こうから真っ青な顔をした男子が立っていた。そこは、女子更衣室の前だった。

 真っ青な顔をした男子は、オロオロとした様子で更衣室のドアを見ている。そして、床を見つめて頭を横に振った。


「君、上西透くんだよな?」

「えっ!?」


 真っ青な顔をした男子は、希さんに手紙を渡した上西透だった。俺に声を掛けられた上西は、ビクンっと体を跳ね上げてガチガチに体を固まらせる。


「上西くん、こんなところで何してるの? 凄く辛そうだけど大丈夫?」


 露木先生が上西に近付いて声を掛ける。上西が明らかに体調の悪そうな顔をしているため、心配そうに顔を覗き込んでいた。


「だ、大丈夫です! 今から保健室に行く途中で!」

「そうなの? 一人で大丈夫?」

「露木先生、上西について行って下さい。体調の悪い人間を一人で行かせるのは危ないです。ファイルを持っていく場所も分かってますし、俺一人で十分ですから」

「多野くんありがとう。上西くん、保健室に――」


 そう言って、露木先生が上西の背中を擦りながら歩き出した時、違和感を覚える。

 保健室があるのは、一般教室のある棟ではなく管理棟。そして、保健室は管理棟の入り口から入ってすぐの場所にある。

 つまり……一年の教室がある一般棟から、俺達の居る管理棟の二階まで来る間に、上西は”保健室を通り過ぎている。”


「あっ! ダメッ!」


 俺はとっさにファイルを廊下に置いて、女子更衣室のドアを開ける。そして、俺がドアを開けたのを見た上西が悲鳴のような声を上げた。


「くっそ、どれが筑摩のだよ。あのクソ女、ゼッテー恥掻かせてやる」

「でもさー、うちの高校、水泳無いから下着ないだろ?」

「バカ、ブラウスの下に来てるキャミソールがあるだろ? それにスカートにもブラウスにも女子の匂いが付いてる」

「なるほど!」


 女子更衣室の中にあるロッカーを手当たり次第に開けながら、呑気に話をする吉原、中園、村方の三人。その三人を見て、俺は一瞬で頭に血が上った。


「おっ! これ、八戸先輩のじゃん! 溝辺先輩も良いけど、八戸先輩も良いよな~。彼氏持ちってところが興奮す――」


 ロッカーを開けて笑いながら話す中園の襟首を掴み、俺は力一杯引っ張って中園を外へ放り投げた。


「うわっ!? 多野せ――」


 次に俺は、俺を見て驚いた村方の胸倉を掴み上げ、中園と同じように引っ張り出す。そして、更衣室の奥まで逃げた吉原を見た。


「チッ……何やってんだよ、上西のやつは」

「…………吉原、お前――」

「多野先輩違うんですッ! 吉原も中園も村方も! 僕が無くしたハンカチを探してくれてて! 可愛い柄のハンカチだから、女子の物と間違えられたかもしれないって!」


 俺が更衣室の奥に吉原を追い詰めていると、上西が後ろから俺の腰に腕を巻き付けて、必死に俺に説明をしようとする。

 とっさに思い付いたにしては、よく頑張った嘘だ。でも、バカ三人の会話を聞いた後では、全く意味のない嘘だった。


「上西、放せ。こいつらを庇ったらお前も同罪だぞ」

「…………悪気はなかったんです! 吉原は筑摩先輩が好きで、でも筑摩先輩に迷惑だって言われて、それで冷静さを失ってしまって。僕も悪いんです! 吉原達を止められなかった僕も悪いんです! だから――」


 上西はそう叫んで、必死に吉原達を庇う。

 きっと、更衣室の前で顔を青くしていたのは、友人が悪いことをしているのに止められなかったことで罪悪感に苛まれていたからだ。


「チッ、ちゃんと見張ってろって言ったのに、役立たず」


 追い詰められている吉原は、自分を庇って、自分の代わりに罪を認めた上西にそう言い放つ。そして、上西から視線を外して後方の窓に視線を向けた。

 俺は、その軽薄な吉原の行動を見て、上西の腕を掴んで体から引き剥がす。


「すまんな上西。お前は吉原を許せても、俺は許せない」

「多野先輩……あっ!」


 上西の腕を振り解き、吉原の胸倉を掴んで廊下に放り投げる。


「吉原ッ! 上西は友達じゃないのかッ! 友達に犯罪の手助けさせて! しかも役立たずだと!? ふざけるなッ!」

「イッテェー、腕の折れたかも。暴力だ暴力! 暴行罪で訴えるぞ!」

「多野くんダメッ!」


 全く反省の色のない吉原に、俺は本当に腕の一本でも折ってやろうかと足を踏み出した瞬間、後ろから露木先生に羽交い締めにされる。


「多野くん落ち着いてッ! 他の先生を呼んだから後は任せて!」


 露木先生の言った通り、すぐに生徒指導部の先生を含めた複数の男性教師が駆け付け、吉原、中園、村方、そして上西を連れて行く。


「先生! みんな悪気があったわけじゃないんです! みんな本当は優しい人達なんです!」


 上西は、自分の腕を引っ張る男性教師に、まだ吉原達を庇おうと声を張り上げる。

 俺は、その上西の姿が見えなくなってから、体に込めた力を抜いた。




 次の日の朝、学校に行くと昨日の話題で持ちきりになっていた。


 一年の吉原昌也(よしはらまさや)、中園一輝(なかぞのかずき)、村方利弘(むらかたとしひろ)三名の停学処分。理由は、女子更衣室への侵入。それは、三人の事件が発覚してからすぐに三人と、三人の保護者に言い渡されたらしい。


 女子更衣室への侵入は、建造物侵入の罪になる。

 これが学校内だったから、まだ停学で済んだが、最悪の場合は退学だった。

 俺の方は、吉原達は退学でも良いと思ったが。


「多野くん、吉原達を捕まえてくれてありがとう」

「ほんと、多野くんが居なかったら私達の着替えに手を出されてたんでしょ?」

「そーそー。ホンット、女子更衣室に忍び込むとか気持ち悪いわよね」

「でも、多野くんのお陰で誰も被害に遭わなかったのが不幸中の幸いってやつよね」


 俺の席の前に集まった女子がそう話すのを聞き流しながら、俺は視線を机の天板に向けた。


「覗き犯を捕まえるなんて、八戸さんも自慢の彼氏じゃない?」

「凡人はずっと私の自慢の彼氏だから」

「「「キャー!」」」


 凛恋の言葉に、女子が黄色い歓声を上げる。俺は、その歓声から離れるために席から立ち上がった。


「凡人?」


 凛恋の声は聞こえていたが、応える気力はなかった。教室を出て、人けの少ない外階段の段差に座って息を吐く。


 吉原達三人が停学処分にはなったが、上西は中に入っていないことを露木先生が見ていたため、処分の対象にはならなかった。

 俺は、その上西が必死に庇おうとしていた吉原と、上西に向けられた吉原の言葉を思い出して、その友情のズレに胸がよじれた。


「多野くん」

「露木、先生……」

「隣、良いかな?」

「…………はい」


 隣に座った露木先生は、俺に向かって話を始める。


「小学生時代から、上西くんは同級生に馴染めなかったみたいなの。いじめられていたわけではなくて、恥ずかしがり屋で引っ込み思案で、自分から声を掛けられなかったそうなの。でも、高校に上がって、吉原くん達が上西くんに声を掛けてくれたそうよ」


 露木先生は悲しさも嬉しさも込めず、ただ真面目に、ただ淡々と事実だけを口にする。


「四人で集まって、ゲームの話をしたり学校の話をしたり、それから、好みの女の子の話をしたり……そんな普通の男友達の関係が凄く嬉しかったそうなの。それで、階段下で女子生徒のスカートの中を見ようとしたり、体育をする女子生徒の胸やお尻を見たりして、ドキドキしたり歓声を上げたりするのが楽しかったって言ってた」


 俺は、俺と同年代の男子と同じような境遇じゃない。露木先生の話に出てきたバカをやったり、バカ話で盛り上がったり、そんな普通の男子の生活はしたことがない。

 上西もきっと高校に上がるまではそうだったのだろう。そして、高校に上がった時にやっとそういう友達が出来た。


「吉原くん達の方も、もちろん上西くんを友達だと思ってた。でも、上西くんは強い理性を持っていたけど、吉原くん達にはその理性がなかった。それで、止める上西くんを無視して三人で女子更衣室に入ったそうよ」

「…………友達なら、なんで役立たずなんて言えるんでしょうね」

「多野くん……」


 露木先生が優しく背中を撫でてくれる。


「友達って、そんな簡単に見下せる対象なんですかね。…………俺には、そういう気持ちが分からないです」

「うん。私は多野くんの考えが正しいと思う。友達は役立たずなんて見下せる、見下して良い存在じゃない。でも、吉原くん達にはその考えがなかった」


 友達という関係は、もっと強固で揺るぎなくて純粋なものだと思っていた。でも世の中には、平気で友達を見下すやつも居る。


 俺は、自分自身が友達に対して幻想を抱き過ぎているとは思わない。

 俺は、俺が友達だと思った人達を信じている。だから、俺の友達は強固で揺るぎなくて純粋な友達だ。


「上西は?」

「今日は、学校を休んでいるそうよ。体調不良みたい」

「そう、ですか……」


 もし、上西も俺と同じような考えだとしたら、吉原達のことを強固で揺るぎなくて純粋な友達だと思っていたとしたら、自分と相手の気持ちのギャップにショックを受けるのではないか。

 そう考えて、また胸がよじれた。


「多野凡人を退学にしろーッ!」

「「「退学にしろーッ!」」」

「えっ!?」


 拡声器で大きくされた女性の声の後、重なった大勢の人の声が聞こえる。

 それを聞いた露木先生が慌てて立ち上がった。


「犯罪者の息子を学校に通わせるなーッ!」

「「「通わせるなーッ!」」」


 ゆっくりと立ち上がった俺は、校門の前でプラカードを持っている大人達の姿を見た。そして、そのプラカードに書かれている文字を見て視線を逸らす。


『詐欺師の息子』『即刻退学』『我が子を犯罪者から守れ』


 忘れ掛けていた、薄れ掛けていた現実が突然、なんの前触れも無く……。

 また鮮明に俺へ襲い掛かってくるのが見えた。

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