【九七《躊躇う》】:一
【躊躇う】
「露木先生ッ! どういうことですか!」
「筑摩さん、ごめんなさい……私もまだ、状況が分かっていないの。ただ、いきなり保護者の方々が来られたということしか……」
授業が完全に止まった教室で、教卓の前に立つ露木先生は頭を振って力無くそう答える。
今まで何もなかったことの方が異常だったんだ。刻季では、転学せざるを得ないくらいの問題になった。
当然、刻雨でも同じになるに決まっている。それが、今日だっただけの話だ……。
「多野」
「教頭先生」
教室に入って来た教頭が、俺を睨んで名前を呼ぶ。
「自宅謹慎だ」
「教頭先生! なんで多野くんが謹慎なんですか!」
俺に自宅謹慎を言い渡した教頭に、露木先生が声を荒らげて詰め寄る。しかし、その露木先生に、教頭は冷たい目を向けて口を開いた。
「露木先生、犯罪者の息子が居る学校には子供を通わせないと保護者代表の方がおっしゃっています。生徒の保護者の九割が署名した嘆願書も持参されています。とりあえず、多野を謹慎にしないと収まりがつきません」
「教頭先生! とりあえずで生徒を処分するんですか! 凡人くんは何も悪いことをしていないはずです!」
「子供は黙っていなさいッ!」
反発した筑摩さんに、教頭は大きく張り上げた怒鳴り声を発する。
反発していた筑摩さんも、大人の男に怒鳴られて身を震わせて一歩退いた。
「分かりました」
「凡人ッ!」
立ち上がった俺の腕を凛恋が掴む。凛恋は涙目で黙って横に頭を振る。
「このままだと、みんなの邪魔になるだろ」
「凡人くん! 誰も凡人くんのことを邪魔だなんて思ってないよ!」
希さんも俺の腕を掴んで否定してくれる。でも、希さんの手も、凛恋の手も、間に入った教頭に引き剥がされる。
「凡人が謹慎するなら私も謹慎します!」
「私も凡人くんが謹慎なんて納得出来ません! だから、授業をボイコットします!」
声を張り上げる凛恋に同調して、希さんが毅然とした態度で教頭を見据える。
教頭は、その希さんの態度に焦ったように声を上げた。
「赤城ッ! お前は旺峰(おうほう)法学部が懸かってるだろう! こんなつまらないことで問題を起こして人生を棒に振る気か!」
「つまらないこと? 凡人くんが傷付いているのに、なんでそんな言い方が出来るんですかッ!」
希さんが声を張り上げて、教頭を怒鳴り返してくれる。でも……それだけで十分だ。
「凛恋、希さん、大丈夫だって。ほとぼりが冷めるまで家でゴロゴロしてるだけだ」
希さんと凛恋を安心させるためにそう言う。でも、そうはならない可能性の方が高い。
実際、俺は収まらなくて刻季から転学をしている。
俺は荷物を纏めて教室を出ようとする。すると、俺と同じように荷物を纏めた凛恋が俺の後をついてくる。
「凛恋、戻れ」
「嫌」
「凛恋」
「絶対に嫌」
俺の腕を掴んで離さない凛恋は、頭を激しく横に振る。こうなった凛恋は、俺が何を言っても聞こうとはしない。
「八戸ッ! 席に――」
「教頭先生。凛恋が男性を苦手なのは知ってますよね」
凛恋の腕を掴もうとした教頭の手首を掴みそう言うと、教頭は俺の手を払い除けて俺を睨み付ける。
「好きにしろ」
「分かりました。好きにさせてもらいます。凛恋、凡人くん、行こう」
俺に向けられた教頭の言葉を聞いた希さんが、俺と凛恋を通り過ぎて廊下に出てから教頭を振り返って言う。
「私も帰ります」
「筑摩ッ! こら! お前達何をしてる! 教室に戻れッ!」
希さんが教室を出た直後、筑摩さんが教頭に一言言って教室を後にする。すると、それを合図にしたかのように、教室に居た全員が出て行ってしまう。
「露木先生ッ! いったい貴女はどういう指導を――」
「教頭先生。私も教頭先生の発言には同意出来ません。私の大切な教え子が傷付いていることをつまらないことと言うなんて。校長先生に報告させてもらいます。多野くん、絶対に誤解を解いてみせるから。それまで少しだけ堪えて」
「露木先生、俺のことで無理しないで下さい」
「無理なんてしてないわよ。大切な教え子のことだもん。担任として当然よ。八戸さん、多野くんのことをお願い」
「はい。凡人、行こう」
露木先生と言葉を交わした凛恋が俺の腕を引っ張り、教室から廊下へ出た。
凛恋は俺を連れて八戸家に行った。でも、その判断は間違っていなかった。
『凡人、大丈夫か?』
「爺ちゃん達の方は?」
『またマスコミが来てるが追い返した』
「ごめん、爺ちゃん」
『凡人が謝ることじゃない。悪いのは、周りで騒いでる馬鹿共だ。凡人はどこに居る?』
「今、凛恋の家に居る」
『戻って来い。凛恋さん達に迷惑を――』
「お爺さん! お父さんにもお母さんにも連絡しました! お父さんもお母さんも凡人を連れて来なさいって言ってたので大丈夫です!」
隣で会話を聞いていた凛恋が、必死な表情で電話の向こうに居る爺ちゃんに訴える。
『…………凛恋さん、ご家族に本当にありがとうございますと伝えてくれるかい?』
「はい。でも、凡人は私達家族にとって大切な人ですから! だから、お礼はいりません」
『それでもありがとう、凛恋さん。凡人は本当に幸せ者だ』
「爺ちゃん、じゃあ」
『ああ』
電話を切ってポケットに仕舞おうとすると、凛恋がその手を掴み俺のスマートフォンを取ってテーブルの上に置く。
「…………」
「…………」
凛恋が黙って俺を正面から抱きしめる。
俺は、凛恋の背中に手を回して抱き寄せると、凛恋が顔を上げて泣きながら笑おうとする。
口角を上げて笑った形を作ろうとする口は小刻みに震え、三日月形に細めて笑おうとする目からは、止めどなく涙が溢れる。
「凡人が、私が笑った顔が好きだって……笑った顔が一番可愛いって言ってくれたから……だから……笑おうって……」
「無理に笑う凛恋の顔は見たくないな」
「ごめんね……凡人っ……ごめん……私……」
凛恋の頭を撫でながら、凛恋の体を抱き寄せる。
凛恋は俺のことを心配してくれている。俺のことを心配してくれて、俺のことを想ってくれて泣いてくれる。
ずっと、ずっと凛恋はそうだった。
付き合う前の、ただの友達だった時でも、凛恋は俺のために涙を流してくれた。
それにびっくりしたこともあった。でも、嬉しくて胸が熱くなって、凄く、凄く凛恋のその心に救われた。
「凛恋……」
「うん。良いよ」
俺は凛恋の唇にキスをする。
柔らかくて甘くて温かくて、触れているだけで心が躍って安らいで癒やしてくれる凛恋の唇。
その唇に触れていることが出来ることが嬉しくて、俺はその凛恋の唇をずっと感じていようと、凛恋の唇を手繰り寄せる。
そして、ただ何も考えずに、凛恋の体を強く抱き寄せた。
ベッドで眠っている凛恋の頭を撫でて、穏やかな凛恋の寝顔を眺める。
可愛い。本当にめちゃくちゃ、世界一可愛い。その世界一可愛い凛恋が俺の彼女で本当に良かった。
凛恋の頭から手を離し、俺は立ち上がって凛恋の部屋を出る。
誰も居ない八戸家の一階を抜け、靴を履いて玄関を出た。
まだ真っ昼間で、制服姿で外を出歩いていることに違和感がある。特別さというよりも、いけないことをやっているような罪悪感がある。
アスファルトの上に立っているのに、まるでふわふわとした綿の上を歩いているように感覚がない。
空は晴天ではないが、青空の中に僅かに雲が流れている。ゆったりとした動きで空を流れる雲を見上げて、心がふっと宙に浮かぶ錯覚を覚える。
どうして今更? そういう疑問が浮かぶ。
どうして半年以上も経った後に騒ぎ立てるのだろう? そう思った。でも、思ったところで、想像したところで、赤の他人のやることなんて分かるわけがない。
凛恋や、凛恋のお父さんお母さんは俺を匿ってくれた。でも、爺ちゃんが懸念したみたいに、あの場所に居るのは不味い。爺ちゃんの話では、何故かマスコミまで動いたらしい。
あの人が、俺の母親が逮捕された当時は、マスコミも盛んに報道していた。
それは警察にあの人が捕まって、その事件が世の中としてはタイムリーな出来事だったからだ。でも、今回のは違う。明らかに事件の旬は過ぎている。
だとしたらやっぱり、学校に来た生徒の保護者がマスコミに何かしら話したんだろう。
何をどう話したかは分からないが。でも、それにマスコミは食い付いた。
凛恋と凛恋のお父さんお母さん、優愛ちゃんが嫌な思いをする可能性が高い。それは、絶対に避けないといけない。
こうなることは予想していた。予想していたけど、現実にならないことに甘えて頭の中から予想を消し去った。
今まで刻雨高校に通っている生徒の保護者から、何も問題が持ち上がらなかったのはよく保った方なのかもしれない。
ガヤガヤと騒がしい街の喧騒(けんそう)に紛れて、ひたすら歩き続ける。
これからどうなるのだろう。
露木先生は誤解を解いてくれると言ってくれた。でも、露木先生一人では無理がある。
刻雨高校に通う生徒達の保護者のうち、九割の保護者が俺に学校を辞めろと言っているのだ。
それを学校側が無視出来るとは思えない。
それに、マスコミも騒いでいるとしたら、刻雨高校側は俺を辞めさせるしかないだろう。でも、退学処分に相当する校則違反はしてない。
いや……正確に言えば、退学処分に相当する校則違反は知られていない。
不純異性交遊の禁止。それはどこの高校でもある校則だ。つまり、エッチをするな、そういう校則だ。
俺は不純な気持ちなんてない。ただの遊びなんて気持ちなんて持ったことがない。でも、学校からすれば、俺と凛恋のことを知らない人達からすれば、ただの好奇心での行動にしか映らない。
俺と凛恋がエッチをする関係だと証明するのは不可能だ。
よっぽど決定的な証拠がない限り、俺と凛恋以外の誰にも証明することは出来ない。でも……もし……。
俺と凛恋がエッチをしているという前提で、話が大きくなれば、凛恋が傷付く。
凛恋にとって、そんな話が広まるのは最悪な話だ。たとえ、付き合っている高校生ならそういうこともする。
そう周りが思っていたとしても、年頃の女の子としてそういうデリケートな話題が広まるのは耐えられるわけがない。
凛恋は強い。でも、凛恋は女の子だ。それに、凛恋は男が苦手だ。
もし周りの男からそんな目で見られれば耐えられるわけがない。
凛恋がそんな辛い目に遭う前に、早くことを収めなくちゃいけない。でも、それは俺が学校を辞めただけで収まるだろうか?
俺を辞めさせようとしている保護者達は、俺が自主退学すれば清々するだろう。でも、その保護者達によって加熱させられたマスコミは?
世論はどうなる?
俺が自主退学したから「はい終わり」そう話が済むだろうか?
俺という人物をマスコミがまた調べ上げて広く報道し、世論はオブラートに包まれない本音の悪意を吐かないだろうか?
刻季の時には槍玉に挙げられなかった、凛恋や栄次や希さんは?
他の俺の友達はどうなる?
今回も何も影響が無いと言い切れるか?
沢山の疑問を並べて答えが出る。何も無いとは言い切れないと。俺が退学してことが収まる保証は何もないと。
気が付けば俺は、一級河川の上に架かる橋の上に立っていた。手すりを左手に見ながら歩く俺は、ふと立ち止まって手すりの上から下を流れる川を見下ろす。
ゆったりと流れる濁った川を見下ろして、手すりを握る手に力が籠もる。
もし、俺が死んだら、マスコミや世論は騒がなくなるだろうか?
そういう保証はない、むしろ、俺が死んだ方が加熱する。でも、話題は俺に集中して、周りにはマスコミも世論も目を向けない。
俺が誰と仲が良かったかよりも、何故俺が死んだかを盛んに議論するはずだ。それなら、みんなを守れる。
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