【九五《大切が故に》】:二

 凛恋の隣に歩み出た溝辺さんが、ため息混じりの低い声を発し、日本語の通じない女子高校生に睨みを利かせる。


「ミホ、行こ」

「う、うん」

「あっ! ちょっと! 謝るくらいしなさいよっ! チッ……逃げられたか」


 足早に立ち去っていく女子高校生達を見ながら、溝辺さんが舌打ちをして言う。そして、鬼のような形相で立っていた凛恋は、ギュッと唇を噛んで目をウルウルと潤ませた。


「かぁずとぉー!」

「うおっ!」


 俺に抱きついた凛恋の勢いに負けて座席のソファーの上に倒れ込むと、目の前に目を潤ませた凛恋の顔があった。


「バカッ! だから気を付けてって言ったじゃん!」

「気を付けて?」


 凛恋の体を起こしながら首を傾げると、向かい側に座った溝辺さんが俺を見て、小さく息を吐いた。


「あの他校生に多野くんは逆ナンされてたの」

「逆ナン?」


 逆ナンと言えば、女性の方から面識のない男性を遊びに誘うことだ。

 確かに、そう考えると面識のない女子高校生にカラオケとボーリングに誘われたのだから、逆ナンになるのかもしれない。しかし、逆ナンは栄次のようなイケメンでモテる男がされるものだ。

 イケメン要素もモテる要素もない俺が逆ナンされるわけがない。


「そう。遊びに誘われなかった?」

「カラオケかボーリングに行こうって言われたけど、断ったぞ」

「それで、スマホを出してたのは?」

「じゃあ、連絡先教え――イデデッ! 凛恋っ! 痛い!」

「ご、ごめん……」


 溝辺さんの質問に答えている途中、俺の腕を抱いていた凛恋が、俺の腕に爪を立ててがっしりと握った。その食い込んだ爪の痛みに、俺は悲鳴を上げる。


「左手の薬指の指輪に気付いてなかったみたいだけど、図々しいやつらだったわね」


 いつの間にか希さんと萌夏さんが、元居たテーブルから飲み物のグラスを運んで来て、凛恋と溝辺さんの前に置く。


 もう、この時点で凛恋達に内緒で栄次と会うのは不可能だ。とりあえず、栄次にメールをして置かなければいけない。


『栄次、済まん。凛恋達が一緒に居る』


 そうメールを送ると、凛恋の隣に座った希さんがニコッと笑って俺に声を掛けてきた。


「ところで凡人くん。栄次と二人でコソコソ何やってるの?」


 その笑顔に、俺は背中に冷や汗を掻きながら必死に笑顔を返す。上手く笑えているかどうかは分からないが、なんで俺が希さんからプレッシャーを掛けられなければいけないのだろう。


「希、俺から全部話す」


 栄次不在でどう説明しようと困っていると、希さんの後ろから、いつの間にか来ていた栄次がそう声を掛ける。その栄次の顔には、諦めではなく、決意が見えた。




 栄次は希さんに、希さんに手紙を渡した一年男子について俺に調べてもらっていて、希さん達に秘密にしてほしいと頼んでいたことも話してくれた。

 全てを聞き終えた希さんは、栄次にニッコリと笑い掛ける。


「心配してくれてありがとう。でも、何も心配ないよ。上西くんとはあれ以来話してもないし、それに話しても彼氏が居るからごめんねって断るし」

「そうだよな。俺も変な心配してごめん」

「ううん! その…………凄く、嬉しかったから」


 真っ赤な顔をした希さんが、俯き加減でそう言う。


「凡人……ごめんね」

「凛恋、もういいって。腕がすり減る」


 横では凛恋が何度も謝りながら俺の腕を擦る。


「本当にごめん。無意識に力が入ってて……」

「大丈夫だって」


 まだ目を潤ませた凛恋が、凛恋が爪を立てた俺の腕を擦って謝り続ける。


「凡人は何も悪くないのに……他校生が凡人にちょっかいを出してたって聞いたら……つい……」


 凛恋が心配するようなことはあり得ないのだが、栄次や俺が彼女である希さんや凛恋のことを心配するように、凛恋も俺のことを心配してくれたのだ。

 ちょっと痛みはあったが、それよりも嬉しさの方が大きい。


「二人で何かコソコソしてるから様子を見たいって話だったのに、凛恋が突撃しちゃって困ったわ」

「だって……凡人が他校の女子に言い寄られてるの見たら、カッとなっちゃって……」


 凛恋を見た溝辺さんが、自分のグラスからストローでジュースを飲み、ニコッと笑って言う。そして、それを聞いた凛恋は、ばつが悪そうに俯いて唇を尖らせた。


「でも、二人とも良かったじゃない。喜川くんは希のことを心配してのことだったんだし、多野くんも喜川くんの相談に乗ってただけなんだから」


 そう話を締めくくると、溝辺さんが立ち上がって隣に座っていた萌夏さんに視線を向ける。


「萌夏、帰ろ。カップル二組の邪魔しちゃ悪いし」

「うん」

「あっ、萌夏さん!」


 俺はとっさに、溝辺さんと歩いていく萌夏さんの背中に声を掛ける。


「えっ?」

「凛恋に付き合ってくれてありがとう。今度またみんなで遊ぼう」

「う、うん! うちの喫茶店にも来てよ。ケーキのサービスするから!」

「ありがとう! じゃあ、また明日」

「うん、また明日」


 手を振った後、萌夏さんは溝辺さんと一緒にファミレスを出て行く。

 それを見送って席に座ると、凛恋がそっと俺の手を握った。




「あれ? 凡人さ――お姉ちゃんどうしたの!?」

「こんばんは、優愛ちゃん」


 八戸家のソファーに座る俺は、二階から下りてきた優愛ちゃんに挨拶をする。そして、隣には、涙をいっぱい浮かべた凛恋が座っている。


 優愛ちゃんは、俺の隣で泣いている凛恋に駆け寄り凛恋の様子を見た後、凛恋が視線を向けている俺の腕を見て顔をしかめた。


「うわっ! 凡人さん、それどうしたんですか!?」

「いや、ちょっとね」


 ワイシャツの袖を捲った俺の左腕の二の腕には、くっきりと爪痕が残っている。

 この爪痕はもちろん、凛恋の爪痕だ。


「ごめん……ごめんね……」

「えっ? えっ? どういうこと!?」


 謝りながらポロポロ涙を流す凛恋と、腕に爪痕を付けている俺を交互に見て、優愛ちゃんは状況を飲み込めずに戸惑っている。


「凡人くんが女の子に声を掛けられたことが悔しくて、抱いてた凡人くんの腕に凛恋が爪を立てたそうよ。……凡人くん、ごめんなさいね。うちの凛恋が」

「いや、痕が少し付いただけなので大丈夫です」

「でも……痛がってた」

「こんなに痕が付くまで掴まれたら痛いに決まってるでしょ」


 お母さんにそう言われた凛恋は、一層シュンとする。


「そのうち痕は消えるから気にするなよ」

「ごめん……」


 凛恋を元気付けようとしても、凛恋が気にし続けてちっとも元気になってくれない。


「凛恋、もう泣かないでくれ。俺は、凛恋が笑った顔が好きだ。もちろん泣いてる顔も可愛いけど、やっぱり凛恋は笑ってる顔が一番可愛いから」

「まあ」「わあ」


 俺の言葉の後、お母さんがニッコリ笑い、優愛ちゃんがニヤニヤと笑う。


「凡人……凡人ッ! 大好きっ!」

「ただい――」


 凛恋が俺の首に手を回して抱き付いた直後、ダイニングのドアが開く。そして、帰って来たお父さんが固まった。


 凛恋は俺に抱き付いた勢いのまま、熱いキスを俺にしている。お父さんは、愛する娘が彼氏に熱いキスをしている場面を見せられたのだ。

 恐ろしく気不味く、途方もない切なさを感じているだろう。

 しかも、お母さんと優愛ちゃんも、目の前でキスシーンを見せられた状況だ。しかし、視界の端にいる優愛ちゃんはさり気なく視線を逸しているが、お母さんはニコニコ笑ったままガン見している。


「――ッ!? …………お、おかえり、パパ」


 お父さんの帰宅に気が付いた凛恋が、焦って俺から体を離し、お父さんに挨拶をする。しかし、もう既に色々と、というかなんと言うか、手遅れだ。


「…………ただいま、凛恋」


 お父さんは平静を保とうと、笑顔を浮かべて凛恋に返事を返す。しかし、お父さんの足元には、手から滑り落ちたビジネスバッグが落ちていた。




 アヒル座りをする凛恋が目の前で真っ青な顔をしている。


「…………どうしよう」

「どうしようって、大体は凛恋のせいだろ」

「だって、凡人が言ってくれた言葉が嬉しくて……」

「お母さんも優愛ちゃんも居ただろ?」

「…………ごめん」

「まあいいだろ。お母さんはキス以上のことをしてるって知ってるし、お父さんも大人の男だから理解してる。優愛ちゃんだってもう高校生なんだし」


 凛恋の頭を撫でながら慰めると、凛恋は俺の背中に手を回して抱きしめる。


「今日の私……本当に最悪……凡人に怪我させて、しかも凡人に嫌な思いさせて……」

「怪我はしてないし嫌な思いもしてない。腕は俺のことを心配してくれて、その結果で力が入っちゃっただけだろ? それに、さっきのキスだって嬉しかった。彼女にキスされて嫌な思いするわけないだろ? 凛恋は、もし俺が凛恋のことを心配したり、凛恋にキスしたりしたら嫌?」

「嫌じゃない! チョー嬉しい!」


 凛恋が首を激しく横に振って否定し、必死な顔で俺に訴える。

 必死な凛恋には悪いが、今の凛恋はかなり新鮮で可愛い。

 必死に俺のことを大切にしてくれていることを、好きで居てくれていることを必死に俺に伝えようとしてくれている。


「俺もめちゃくちゃ嬉しかった。だから、もう謝らなくていい」

「うん」

「代わりに好きって言ってくれると嬉しいな」

「大好き。チョー好き。世界で一番、誰よりも凡人が好き。凄く好きで好きで堪らなくて……それで……」

「好きが溢れて不安になった。前に凛恋が言ってたな」

「うん。また、同じことを――」

「でも、好きが溢れて不安になっても。好きは嫌いじゃない。元になったものが好きなら、それは悪いことじゃないだろ?」

「凡人……うん」


 凛恋は手の甲で目を拭って頷く。そして、ギュッと俺を抱きしめる。

 そのハグが、凛恋が感じた心細さを埋めるため、凛恋の凍えた心を温めるため、俺に凛恋の好きを伝えるためだと分かる。だから、俺は凛恋より強く抱きしめ返した。


 凛恋の心細さは俺が全部埋めて塗り潰して消してやる。凛恋の凍えた心は俺が熱く温める。凛恋の好きを必ず全力で受け止める。だから、安心しろ。そう、俺は抱きしめ返す。


「凡人は本当に格好良い。栄次くんのために頑張って、それは希のためにも頑張ってることで、気不味くなってる萌夏にも思い遣りが持てて…………それに、不安になった私もちゃんと包んで安心させてくれた」


 目を閉じてジッと俺を抱き続ける凛恋に、そっと優しく、ギュッと力強く、俺は応え続けた。




 栄次の悩みも解決した次の日の昼休み。俺と凛恋と希さんは露木先生と音楽準備室で昼飯を食べた後、三人で教室に向かって歩いていた。


「凡人くん、栄次が迷惑掛けてごめんね」

「いや、慣れないことをしたけど、栄次の頼みだったし。それに、希さんのことが心配だって話だったから」

「うん。ありがとう」


 俺の話を聞いた希さんは、照れ笑いを浮かべて頬を赤くする。

 希さんにとっては、栄次に大切にされているという実感があって嬉しかったのだろう。


 俺も、栄次の相談には直接関係ないところだったが、凛恋が俺のことを大切にしてくれていることを改めて感じることが出来た。

 だから、今回の件は、結局的に良いことばかりだった。


「二人で丸く収まってるみたいだけど、私は大切な彼氏を逆ナンされたんだか――ッ!」


 ぷくぅっと頬を膨らませた凛恋が俺の頬を突こうとした瞬間、サッと俺の後ろに隠れる。その反応に俺はすぐに視線を前に向けた。

 俺が視線を向けた先、俺達の進行方向に三人の男子が立っていた。


「…………君達は」

「多野先輩にお話があるんですけど、ちょっといいっすか?」


 三人のうちの真ん中の男子が、いかにも軽薄そうな口調でそう言う。

 その三人は、希さんに手紙を渡した、上西の友人達だった。

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