【八八《冷たい余燼(よじん)を掻き消すように》】:一
【冷たい余燼(よじん)を掻き消すように】
俺は学校帰りの制服姿のまま八戸家のダイニングに座って、お母さんが淹れてくれたコーヒーを飲む。
「凡人くん、ごめんなさいね。凛恋がわがままを言って」
「いえ、うちよりもお母さん達は良かったんですか?」
「凡人くんをうちの旅行に連れて行って、凛恋がお世話になるのはダメって言うのもおかしいし、まず凛恋が納得しないでしょ?」
「まあ、そうですよね」
「だから、凡人くんのお爺さんお婆さんが良ければお世話になろうと思って」
「うちは爺ちゃん婆ちゃんが良いって言ってますし、何より俺がお世話になりっぱなしなのが気になっていたみたいで」
凛恋は今、二階の自分の部屋で荷物の最終チェックをしている。
今日は金曜で、今はその放課後。明日から二日間休みになる。今週末はその休みを利用して、凛恋がうちに泊まりに来るはずだった。
そう……”はずだった”のだ。
俺は爺ちゃんに「凛恋がうちに泊まりたいらしい」と言った。そしたら、爺ちゃんは「凛恋さんを温泉旅行に招待しよう」と言い出したのだ。
爺ちゃんと婆ちゃんはちょくちょく泊まり掛けで温泉に行く。しかし、日帰り出来る温泉にわざわざ泊まるという楽しみ方をする。
泊まるから一応旅行ではあるのかもしれないその温泉旅行に、凛恋を交えて、俺、爺ちゃん、婆ちゃん、田丸先輩の五人で行くことになった。しかし、その温泉旅行には大きな問題がある。
部屋割りは、爺ちゃんと婆ちゃん、田丸先輩と凛恋、そして俺と三つに分けられている。しかも、俺の部屋は凛恋の泊まる部屋とは離れた場所にある。
疑うまでもなく、爺ちゃんの陰謀だ。だが、凛恋も俺と同じ部屋が良いらしく、夜はこっそり俺の部屋に来るらしい。
「凡人! 準備出来た!」
「凛恋、急がなくても大丈夫だって言っただろ?」
ダイニングに入って来た凛恋は、床にバッグを置くと俺の横に座ってニコニコと明るく笑う。
「早く行ってお爺ちゃんとお婆ちゃんにお礼を言わないと!」
「お礼を言うのはこっちの方だ。爺ちゃんの突然の思い付きに付き合ってくれてありがとう」
「ううん! 凡人と温泉チョー楽しみっ!」
まあ、俺と温泉と言っても混浴のある温泉ではないから、文字通り俺と一緒にというわけにはいかない。
「凛恋、ご迷惑をお掛けしないようにね」
「うん! 大丈夫! 絶対に迷惑なんて掛けないから!」
凛恋がガッツポーズをしてお母さんにそう宣言する。爺ちゃんは凛恋が来てくれれば機嫌が良くなるから、迷惑なんてあり得ない。
凛恋は基本的に外出が好きな性格だ。
男性が苦手になってから人が多いところは苦手になったが、それでも外に出るのが嫌いになったわけじゃない。
今回のように、静かな雰囲気の温泉旅館ならゆっくりと出来るし、凛恋にとって外出先としては最適ではあると思う。
「凡人、そろそろ行くよ!」
「はいはい」
凛恋に急かされてソファーから立ち上がり、凛恋のバッグを手に持つ。凛恋のバッグは、ロンドン旅行の時に使っていたキャリーバッグだが、家の中は当然ゴロゴロ転がすわけにもいかない。
「ありがとう、凡人」
荷物を持って玄関まで行くと、凛恋が廊下の端まで歩いて来たお母さんを振り返る。
「ママ、行ってきます」
「気を付けてね。凡人くん、凛恋をよろしくお願いします」
「はい、任せてください」
お母さんに凛恋のことを任されて、俺は凛恋と一緒に八戸家を出る。
「かーずとと温泉っ! かーずとと温泉っ!」
随分ご機嫌な凛恋は、謎のリズムをとってそう明るい声で言う。
俺はぴょんとスキップするように飛び跳ねた凛恋の下を見て思わず息を飲む。
太腿が半分くらいさらけ出されたミニ丈のフレアスカート。そのスカートの裾が飛び跳ねた時にフワリと舞い上がり、ギリギリ見えない位置まで持ち上がる。
「凛恋、スカートの丈……短くないか?」
「うん、久しぶりにミニにしたけど?」
「あまりミニは穿かない方が良いんじゃないか? 見えそうだし」
「凡人以外に見せる気ないし、外も中も!」
ニヤッと笑った凛恋が下から俺をからかうように見上げる。
俺だって他の奴に見せたくはないが、中は絶対に死守するにしても外はどうしようもない。
「それに、田丸さんに負けられないし」
「へ? 田丸先輩?」
「そう。田丸先輩は沢山居るライバルの一人なんだから」
「ライバル?」
「そーよ。凡人の彼女の座を脅かすライバル」
凛恋の発言としっかり据わった目を見て、俺は若干身震いした。
俺はまだ刻季高校に通っていた去年の夏、田丸先輩から告白を受けて断った。その後、田丸先輩から告白されたことはない。
それで解決したと思ったが、やっぱり凛恋としては完全解決にはなっていないらしい。
まあ、俺だって過去に凛恋に対して告白したり好意を向けていたりした人達のことが気にならないわけじゃない。
正直、また凛恋に近付いてくるのではないかと思ってしまう。それは凛恋が他の男になびいてしまうという不安ではなく、二人の平穏を乱されるのではないかという恐怖だ。
「ほんと、凡人はモテ過ぎよ。年上のお姉さんの田丸さんに、学校一男受けの良い筑摩、それに世界的なヴァイオリニストのステラ。凡人は格好良いからモテるのは仕方ないけど、ライバルを撃退する私は大変よ」
「みんな断っただろ?」
「断られたから、はい次って軽い気持ちで凡人のことを好きな人だったら良かったのよ。でも、そんな軽い気持ちじゃないから困ってるの。…………みんな、真剣に凡人のこと好きなんだもん」
「俺が好きなのは凛恋だけだ」
声のトーンが落ちてきた凛恋に声を掛けながら、繋いだ手を引っ張って凛恋を引き寄せる。
凛恋に不安を抱かせたくはない。
俺は自分がモテるなんてことは思わない。モテるというのは、栄次のように広く色んな人から好かれる人間に適した言葉だ。
俺は凛恋が言ったように、何人かの人に好きになってもらった。でも、自分がモテるなんておこがましいことは思わない。
それに、俺が人から好かれるようになったのは、凛恋が俺を変えてくれたからだ。
「凡人の気持ちはちゃんと分かってるし、凡人のことを信頼してるけど、やっぱり凡人のことを好きな人がいっぱい居るのは事実だからさ。私はそういう人達から、自分じゃ勝てない、凡人の隣に居る女の子は私が一番相応しい、そう思われなきゃいけないの。ちょっとでも、自分でも勝てるとか、自分の方が凡人に相応しいなんて思われたくない。だから、特にライバルの田丸先輩が居る時は油断出来ない」
凛恋はグッと拳を握って、気合いを入れるように一度頷く。そして、俺の方にニッコリとした笑顔を向けて、凛恋はそっと自分のスカートの裾を摘まんで俺に見せる。
「それに、男の子は無意識に女の子見ちゃう生き物だって言うしね~」
「…………」
全面的に凛恋の言葉を否定する言葉が見付からない。
男がつい女性を目で追ってしまうのは、男全員が女性に対して常に下心を持っているというわけではなく、条件反射というか生物的な本能なのだ。そこに意識があるわけじゃない。
「でも、私が短いスカートを穿いてたら、凡人はついつい私を見ちゃうでしょ? 私がミニスカートを穿いてるのにはそういう理由もあるのよ?」
「いや、俺は見ているつもりなんて――」
「はい嘘。学校でも時々見てる。私も見てるけど、他の女の子も」
プクゥっと両頬を膨らませた凛恋が怒った振りをする。しかし、すぐにクスッと笑って俺の頬を突いた。
「別に怒ってるわけじゃないの。そういうの仕方ないって思うし。でも、出来れば私のことをずっと見ててほしいから、凡人の気を引いてるの」
「俺は引かれなくても凛恋以外に気は向けてないぞ」
「もちろんよ。私の彼氏の凡人は私以外を見てない。でも、男の子の凡人は私以外も見てるの」
俺の手を引っ張って腕を絡めた凛恋は、クシャッと笑って俺の腕に頬を付ける。
「でも、それでも凡人が私のこと大好きって言ってくれるじゃん? それがチョー嬉しいの。それに、凡人が他の子と私を見る目は違うから」
「違うのか?」
「うん、私を見る時は凄く優しくて格好良くて頼りがいがあって、それでチョーエロい」
「…………最後のは褒めてるのか?」
「褒めてる褒めてる!」
凛恋は褒めてると言っているが、エロい目で見てるということが褒められていると思えない。
「ほんと、凡人のエロい目、チョー可愛いんだよねー。胸とスカートの裾はよく見てるし、あとは唇もよく見てるよねー」
「そんなに見てるのか?」
「見てる見てる、チョー見てる。そういう目を私だけに向けてくれるから、すっごく嬉しいし凄く安心出来る。女の子として興味を持たれてるって分かるのは嬉しいし安心出来ることなの!」
「そっか、じゃあこれからも凛恋をエロい目で見ることにする」
「ドンと来なさい!」
会話の内容はなんだかおかしいが、凛恋と会話を楽しみながら、俺は自宅までの道を歩いた。
家からはタクシーに乗って目的地の温泉旅行に向かった。道中は凛恋とタクシーに乗り、隣でウキウキと窓の外を眺めたり俺に話しかけたりする凛恋の姿を楽しんだ。
温泉旅館は古い民宿みたいな場所を想像していたが、着いた旅館は古い民宿ではなかった。
綺麗に整えられた植木があり、行の延段が続く先には高級そうな純和風の建物が佇んでいる。
どこからどう見ても、古い民宿ではなく高級旅館だ。
「爺ちゃん……爺ちゃん達はいつもこんなところに泊まってたのか?」
俺は、建物の全隊を視界に入れながら斜め前に居る爺ちゃんの背中に尋ねる。
爺ちゃんが元警官でかなりの階級で退職し、お金にも余裕があるのは知っていた。でも、度々こんな高級旅館に泊まっているなんて知らなかった。
「そんなわけあるか。いつもはもう少し安い旅館だ」
「じゃあ、なんで今日はこんなところに?」
「何を言っているんだ。栞さんと凛恋さんを安い旅館に泊まらせるわけにはいかんだろう」
「まあ、確かに」
俺はさておき、凛恋も田丸先輩も客人だ。
客人を招待する旅行で下手な旅館に泊まらせるわけにはいかないという爺ちゃんの考えも分かった。
「付いてきなさい」
爺ちゃんはそう言って先頭を歩き出し、その一歩後ろを婆ちゃんが付いて行く。
「ちょ、ちょっと、凡人。ここ、めちゃくちゃ高いんじゃない?」
凛恋が俺の腕にしがみついて延段の上に立ちながら、落ち着かない様子で周囲を見ている。
凛恋は俺の家に初めて来た時、飛び石を見てビクビクしていた。凛恋は和風の庭や建物を見ると高級さを感じて尻込みしてしまうらしい。
「私、もっと素朴なところだと思ってたんだけど」
「俺だってこんな旅館だと思ってなかったんだよ。どうやら、凛恋と田丸先輩が一緒だからって爺ちゃんが張り切ったらしい」
「お爺ちゃんの気持ちは嬉しいけど、これはちょっとやり過ぎじゃない?」
「まあ、爺ちゃんが良いって言うんだから良いだろ」
爺ちゃんが泊まる場所に気を遣うのは礼儀でもあるが、凛恋と田丸先輩をそれだけ大切に思っている証拠だ。
絶対に付いてくるのが俺だけだったら、凛恋の言葉を借りれば、もっと素朴な旅館に泊まっていたに決まっている。
俺は凛恋と歩き出す前に後ろを振り返る。
視線の先では、数歩後ろで立ち止まって俯いている田丸先輩の姿が見えた。
「田丸先輩? どうしたんですか?」
「……私、こんな凄い所に泊まれない」
俺はその田丸先輩の反応を見て、小さく息を吐く。田丸先輩がこういう反応をするのは当然だ。
田丸先輩は、最初に温泉旅行の話が持ち上がった時に固い意志で拒否した。
自分はそんな迷惑を掛けられないと。去年、修学旅行に行く時もかなり遠慮していたし、それに加えて温泉旅行にまでというのに気が引けたようだ。
俺だって田丸先輩の立場だったら遠慮するに決まっている。でも、爺ちゃんは田丸先輩なら遠慮すると分かっていたから、旅館の部屋も全て押さえてから温泉旅行の話を田丸先輩にした。
「今から帰るわけにもいかないでしょ」
「でも……私は多野さんのお家にお世話になっている立場で」
「いいんですよ。爺ちゃんは凛恋も田丸先輩のことも物凄く可愛いみたいですから。孫は俺だけで、しかも男でしょ? だから、女の子の孫が二人も出来たみたいで舞い上がってるんです。それで、良いところ見せようと張り切ってるんですよ。きっと遠慮されるより素直に甘えた方が爺ちゃんも喜ぶと思います」
「田丸さん」
俺が田丸先輩に言った後、凛恋が一歩踏み出して田丸先輩に近付く。
「卓球台あると思います?」
「えっ?」「はっ?」
田丸先輩が気の抜けたような声を出して首を傾げる。そして、俺も凛恋の予想打にしない言葉に思わず戸惑う。
俺達が泊まる旅館は見るからに老舗旅館という雰囲気が漂っている。
この雰囲気で温泉卓球はちょっと不似合いな気がする。
「卓球台はどうかな?」
「ですよね。凄く良い旅館だし、卓球台はなさそうですよねー」
凛恋は振り返って旅館の建物を眺めると、再び田丸先輩を振り返ってニッコリ笑う。
「私、お父さんに言われたんです。子供は親に気を遣うな、お金のことは考えるなって。凡人のお爺ちゃんも私のお父さんと同じだと思います。田丸さんにお金の心配とかしてほしくないんじゃないですか? あと、他人だからとかは一番嫌だと思います」
「八戸さん……」
「まあ、私も全く遠慮しないって言うのは無理ですけど、お言葉に甘えるくらいは出来るので。だから、田丸先輩もお爺ちゃんとお婆ちゃんに甘えませんか?」
「…………うん、そうだね。私も少し遠慮し過ぎてたかもしれない。せっかく温泉に連れて来てもらったんだから、楽しまないとだよね」
やっと田丸先輩の表情に柔らかさが戻ってきた。
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