【八八《冷たい余燼(よじん)を掻き消すように》】:二
凛恋と一緒に旅館まで歩きながら、凛恋に耳打ちをする。
「凛恋、ありがとう」
「ううん、私もお世話になる側だし、田丸さんの気持ちは分かるから」
前に居た爺ちゃんと婆ちゃんに追い付くと、既に爺ちゃんがチェックインを済ませていて、俺と凛恋を振り返って部屋の鍵を渡す。
旅館のロビーは落ち着いた雰囲気で、ロビーに居るだけでもゆっくりくつろげそうだった。
「これは凛恋さんと栞さんの部屋の鍵だ」
「ありがとうございます。お爺ちゃん」
「ありがとうございます」
凛恋と田丸先輩が爺ちゃんから鍵を受け取ると、俺に爺ちゃんが鍵を差し出す。
「凡人のはこっちだ」
「ありがとう、爺ちゃん」
鍵を受け取ると、若い仲居さんが二人出て来る。
「お二人部屋のお客様は私に付いてきて下さい」
「お一人部屋のお客様は私に付いてきて下さい」
それぞれの仲居さんがそう言うと、それぞれ反対方向に歩き出す。ふと爺ちゃんに視線を向けると、何故か勝ち誇ったように俺を見た。
「凛恋さん、栞さん、二人はこっちだ」
「はい」
「えっ……はい」
田丸先輩が返事をした後に、凛恋が俺を一瞬振り返って爺ちゃんと婆ちゃんの後を追っていく。
爺ちゃんは俺と凛恋を離れた部屋に泊まらせた。それは爺ちゃんが孫娘のように可愛がっている凛恋を独り占めしたいからだろう。
それで、自分の思惑通りにことが運んで、俺が一人部屋に行くのを見てほくそ笑んだのだ。
爺ちゃん、なんという大人げのなさなんだ……。
祖父にとって女孫は格別に可愛いと言うが、実際そうなのかもしれない。
まあ、凛恋は爺ちゃんの孫ではないが。
「お荷物をお持ちします」
「あっ、大丈夫です。ありがとうございます」
宿泊客の荷物を運ぶのは仲居さんの仕事の一つなんだろうが、どうしても女性に物を持たせて俺は手ぶらという状況が気になる。
「あの、この辺でその……デートに合いそうな場所はありませんか?」
「この近くに小川があるのですが、小川沿いに遊歩道がありますよ。今からは暗くて危険ですが、明日の日のあるうちならゆったりとお散歩できると思います」
「そうですか。ありがとうございます」
デートという言葉を赤の他人に発するのは恥ずかしかったが、仕事を取ってしまったのだから、仲居さんに代わりに何か頼まないとバランスが取れない。
「ご家族でご旅行ですか」
「祖父母と、姉と彼女です」
一瞬、田丸先輩との関係をどう話そうか迷った。しかし、居候なんて言うのは田丸先輩に失礼だし、同居人と言うと、後から話す彼女の存在とかち合って不自然になる。
仲居さんに変な気を遣わせるよりは、田丸先輩を姉と言っておいた方が無難だった。
「そうですか。楽しいご旅行になるよう、精一杯おもてなしさせていただきます」
「ありがとうございます。お世話になります」
仲居さんと無難な会話をしながら部屋にたどり着くと、軽く宿泊時の注意点等の説明を受けた。
説明を終えた仲居さんが立ち去ると、俺は荷物を部屋の端に置いて部屋の窓際に立つ。
見渡す限りの山。しかし、山の緑は目に良いらしいし、景色としても綺麗だと言える。
ロンドンの街並みも綺麗だったが、日本らしい山の景色は何だか穏やかで落ち着く。
「鍵開けっ放しだと襲われるわよ」
後ろからギュッと抱きしめられ、凛恋の声が聞こえる。顔を後ろに向けて確認すると、俺を後ろから抱きしめている凛恋と目が合った。
「凛恋に襲われるなら大歓迎だけど」
「私が来る前に仲居さんに誘惑されたらどうするのよ」
「……仲居さんはそんなことしないだろ」
「油断しちゃダメよ。凡人は格好良いんだから」
凛恋が俺を振り向かせ、正面から俺に抱き付く。俺の胸に頬を当てながら、凛恋はだらしなく声を発する。
「あぁ~落ち着く~」
体重を掛けてくる凛恋の体を支えながら、俺は窓際にあった一人掛け用のソファーに凛恋を座らせる。
「凡人、夕飯はお爺ちゃんとお婆ちゃんの部屋で食べるって」
「分かった」
「その前に温泉入っちゃわない? 学校終わりで疲れたし」
「そうだな。準備するから待ってて――」
「凡人のパンツ、私が選ぶー」
サッとソファーから立ち上がった凛恋が、ニコニコ笑いながら俺の荷物へ駆け寄って行く、その楽しそうな凛恋の後ろ姿を見て、俺は凛恋の近くに歩いて行った。
良い旅館の温泉という先入観があったからか、家でいつも入っている風呂より疲れが取れた気がした。
旅館で用意されていた浴衣に着替え、何だかゆったりし過ぎているようで不安になりながら脱衣所を出た。
凛恋はまだ入浴中なのか出て来ていない。どうせ、爺ちゃん達の部屋に一緒に行くし、凛恋を一人で歩かせるのは不安だから、凛恋が出て来るのを待つことにする。
「あ、凡人くん」
「田丸先輩……」
女湯の方から歩いて来た田丸先輩と出くわす。まあ、同じようなタイミングで入らないと夕飯に間に合わないから、出くわしても不自然ではない。
白地に赤い花柄の浴衣を着た田丸先輩は、セミロングの髪を後ろに束ねている。立ち姿や雰囲気から、年上の女性という感じがした。
「凡人くんは八戸さんを待ってるの?」
「は、はい」
何だか、妙に意識してしまって平常心を保つのに必死になる。髪を束ねていることでうなじが見えているし、温泉で温まりほんのり赤くなった頬には色っぽさを感じる。
「八戸さんは私より後だったから、もう少し掛かるかも」
「分かりました」
クスクスと笑う田丸先輩は、そう言って歩き去ろうとする。しかし、その前に田丸先輩が振り返って俺に微笑んだ。
「私ね、施設に移るの」
「…………え?」
予想していなかった言葉に、俺はただ弱い声で聞き返すことしか出来なかった。
「お爺さんとお婆さんにはずっと前から話してた」
「やっぱり、他人の家だからですか?」
他人の家は落ち着かない。どんなに優しく温かく迎えてもらっても、他人は他人だ。
そこは根本的に変われるものじゃない。
「ううん、お爺さんお婆さんは私にもったいないくらい良い人達で、凄く良くしてくれて、施設に居るよりゆっくり出来たよ」
「じゃあなんでですか?」
「それは、凡人くんが居る家だから」
そう言って笑った田丸先輩の目は、小さく揺らめいた。
「やっぱりダメなんだ。どんなに割り切ろうとしても、私は凡人くんのことをずっと好きなままなの。朝も夜も顔を合わせて、ご飯は一緒に食べるし、お風呂上がりだって会うこともある。最初のうちは、凡人くんには八戸さんが居るから諦めなきゃって思ってたの。でも……」
田丸先輩は浴衣の袖で目元を拭う。
「最近、奪っちゃえって考える自分が居るの。家に居る間は八戸さんは居ないし、お爺さんお婆さんは温泉に行って二人きりになれる時があるから、その時に押し倒してキスしてエッチすれば奪えるって考えちゃうの……」
田丸先輩は涙を流しながら、必死に笑おうとする。
「凡人くんが一年生の頃、凡人くんに彼女が居るって分かった時も同じことを思ったの。彼女が居るからって遠慮する必要ない。好きなら奪っちゃえって。でもね、凡人くんに振られた後、凄く後悔した。嫌な女だって自分が嫌になった。そんな嫌な自分が、また出てこようとしてる」
どう声を掛ければ良いのか分からなかった。でも、爺ちゃんがみんなで温泉に行こうとした理由が、見栄を張って高い旅館に泊まった訳が分かった。
爺ちゃんは、田丸先輩と思い出作りをしようとしてたのだ。
「引っ越す先の施設は、私が受けようって思ってる大学の近くなの。だから、丁度良かった」
「…………なんで、黙ってたんですか?」
「決まる前に言ったら、やっぱり止めたいって思いそうだったから。好きな人と一緒に居られるチャンスにしがみつきそうだと思ったから。だから、話が中止出来なくなるくらい進むまで言わなかったの」
田丸先輩は深々と頭を下げる。
「楽しい旅行の時にこんな話をしてごめんなさい。八戸さんには、温泉の中で話したから。八戸さんにも迷惑を掛けてしまったことを謝った。八戸さん、困った顔をしてた。当然だよね。自分の彼氏を奪おうとしてたなんて聞かされたんだから」
「いつ、引っ越しを」
「来週」
「友達の……岡部先輩は?」
「蘭? 蘭は……凄く泣いて悲しんでくれて。絶対に会いに来てくれるって言ってたよ」
そう言った田丸先輩は、俺に背中を向けて歩き出す。
「先に行ってるね」
その田丸先輩の言葉は、全てを話し切ったようで明るかった。でも、俺の心にはチリチリと冷たく心をむしばむものが湧いた。
後味の悪い苦味にも似たそれは、俺の背筋にすっと細く鋭い寒気を走らせる。
その寒気は、いつまでもいつまでも、心に冷たい火傷をくっきりと残した。
”みずから苦しむか、もしくは他人を苦しませるか、そのいずれかなしには恋愛というものは存在しない。”
随分前に、世界の格言という本に書いてあった、アンリ・ド・レニエというフランス人作家の格言だ。
俺はその格言を見た時、凛恋と出会う前だった。つまり、俺は恋をする前だった。だから、その格言の意味は分からなかった。
でも、凛恋を好きになって、凛恋と恋人同士になれている今は、その格言がよく分かる。
人一人を好きになるという行為で、自分と他人、全部ひっくるめて、沢山の人が苦しい思いをするし傷付く。
世の中で両想いになれる相手は一人しか居ない。
俺が凛恋を好きで、凛恋が俺を好きで両想いになれているのなら、俺や凛恋のことを好きな人は、俺と凛恋とは両想いになれない。
「凡人も、田丸さんから聞いたでしょ?」
「ああ……」
一人掛けのソファーに座った俺の足の間へ凛恋が腰を下ろす。俺はその凛恋を後ろから抱きしめた。
「叶わない恋って凄く辛い」
「凛恋は、分かるんだよな」
「…………うん」
俺の問い掛けに、凛恋は躊躇いながらもそう頷く。
凛恋は、俺と出会う前に幾つも恋を経験している。その叶わなかった恋を経験している凛恋は、田丸先輩の気持ちが分かるのだろう。
「好きな人に、自分以外の好きな人が居るって知ると、頭が真っ白になる。ご飯を食べる元気もなくなって、辛い悲しいって思う。こんなに辛いなら恋をしなければ良かったなんてことも考える」
凛恋は、俺が回した手に自分の手を重ねて、優しく撫でた。
「凡人は優しいから、人を苦しめてたなんて知ったら辛いよね。凡人は田丸さんのことを考えて、私や希達にも話して、ちゃんと考えて田丸さんが一緒に住むことを認めた。でも、ちゃんと真剣に一生懸命考えても、全部が全部上手く行くわけじゃない」
「分かってる」
「私は知ってるよ。凡人がすっごく優しいってこと」
「ありがとう」
凛恋が励ましてくれる。その励ましに応えるために、俺は声を出して笑顔を向けた。
「でも、田丸さんには悪いけど、凡人を奪おうとしたのは許せなかったから、ビンタした」
「えっ!?」
俺は凛恋の言葉を聞いて、風呂上がりの田丸先輩を思い出す。そう言えば、赤くなっていた田丸先輩の頬は片側だけだった。
「だって、押し倒してキスしてエッチすれば奪えるなんて、凡人をそんな軽い人間だと思ってたことが許せなかったのよ。凡人はそんなことにはならないようにするし、仮にキスとかエッチとかしても、絶対にそれだけで人を好きになるような人じゃない。あっ、だからって他の女の子とキスとかエッチしても平気なわけじゃないから」
「分かってるよ。凛恋以外にはやらない」
「よろしい」
小さく得意げに鼻を鳴らした凛恋は、背中を俺にもたれ掛からせる。
「そういえばさ」
「ん?」
「まだこの前のペケ残ってるから」
振り向いた凛恋が目を閉じて唇を尖らせる。その凛恋の唇に、俺は優しくキスをした。
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