【八七《友愛と溺愛の裁定》】:三
次の日の朝、凛恋と希さんと一緒に登校する。隣で話している凛恋と希さんはとても楽しそうで、昨日の悲しさも大分薄れてきているようだ。
夏休み明けからは、体育祭、文化祭と大きな行事が立て続けにある。
もうすぐ体育祭の練習も始まるだろう。だが、運動苦手人間の俺は体育祭は憂鬱だ。そして、文化祭も人が多くなるし、文化祭までの準備が大変だ。でも、今年は凛恋が居る。
どっちの行事も凛恋と一緒に居られて一緒に出来るならきっと乗り越えられそうだ。
「凡人?」
隣で歩く凛恋を眺めていたら、こっちを見ていた凛恋と目が合い凛恋が首を傾げた。
そしてニッコリと笑い握っていた手を強く握ってくれる。
平和で幸せな時間を感じながら、俺は校門が近付いてきたところで凛恋から手を離す。すると、凛恋が寂しそうな顔をして俺の手を見た。
それが堪らなく可愛くて、すぐにでもまた手を握りたかった。
「良いから出しなさい!」
校門の前からその甲高い女性の怒鳴り声が聞こえる。
「困ります」
「学校が困るか困らないかは関係ないでしょ! こっちは光葉(みつは)ちゃんの人生が懸かってるのよ!」
濃い化粧で服装も派手なふくよかな中年女性は、校門に立っている生徒指導部の厳つい男性教師に怒鳴り付けている。
怒り狂ったイノシシのような形相で怒鳴る女性に、流石の厳つい男性教師も身を引いて怯んでいた。
「槌屋(つちや)さん、落ち着いて下さい」
後から出て来た教頭が、両手の平を前に向けて女性へ落ち着くように言う。しかし、全く落ち着く様子のない女性は、アスファルト舗装の地面が揺れるかと思うくらい激しく地面を踏み付けて怒鳴った。
「光葉ちゃんを警察に通報した人を出しなさいって言ってるのよっ!」
俺の手が前に引っ張られた。手を繋いでいた凛恋が先を歩き始めたのだ。後ろからチラリと見える凛恋の顔にさっきまでの笑みはない。
「今すぐここに連れて来なさい」
「槌屋さん、落ち着いて下さい」
「光葉ちゃんが警察に連れて行かれたのよ! 落ち着いていられるわけないでしょ! 光葉ちゃんを通報した人が来るまでここを動かないわ!」
厳つい男性教師と中年女性のやり取りを聞きながら、俺は名乗り出ようとする。しかし、俺が口を開き掛けたと同時に、グッと俺の引っ張られている手が前に引かれる。視線の先では、凛恋が黙って首を横に振っていた。
「あいつです! あいつが勝手に通報したんです! 私は止めろと言ったんですが!」
「教頭ッ! あなたは何を言ってるんですか!」
教頭が俺を指さしながら中年女性へ言った。それに厳つい男性教師はあ然としながらも、教頭へ怒鳴り声を上げる。しかし、教頭は言葉を止めなかった。
「悪いのは全部あいつです! 学校は関係ありません! 本人同士で話し合って下さい!」
「立ち止まっている生徒は全員校舎の中に入りなさい!」
校門前の騒ぎのせいで立ち止まる生徒は多く、男性教師は立ち止まっている生徒達を中に入るように促す。
「凡人ッ!」
「凛恋、希さんと先に入ってろ」
「ダメ! 凡人も行くの!」
「希さん、凛恋を――」
言うことを聞かない凛恋を希さんに任せるため視線を向けると、希さんはキュッと唇を結んで首を横に何度も振る。
「多野ッ! お前がやったんだろ! 責任を持て!」
凛恋と希さんに引き止められていた俺は、教頭に腕を掴まれて思いっ切り引っ張られた。
「あなたが光葉ちゃんを通報した人ね」
「光葉という人が誰かは分かりませんが、俺の親友が嫌がらせを受けて上履きを壊されたことに関して警察に通報したのは私です」
「光葉ちゃんは私の可愛い娘よ! あなたのせいで光葉ちゃんは警察に連れて行かれたの! どう責任取るつもりよ!」
「何故警察に連れて行かれたんですか?」
「はあ?」
「何故、光葉さんという人は警察に連れて行かれたんですか?」
「それはあなたが通報したから――」
「違います。事件に関わっていたからです」
怒りで顔を真っ赤に染めた中年女性に、俺はきっぱりそう言う。
この人は、昨日希さんに嫌がらせをして、その犯人とし警察に連れて行かれた三年生の母親だろう。
それで、娘が警察に連れて行かれる原因になった俺を探し出して、娘が連れて行かれた責任をどう取るのかと怒り狂っている。しかし、責任を取るのは三年生の方だ。
「光葉さんという人は人の物を故意に壊した。立派な器物破損罪です。その責任を取るのは光葉さんだと思いますが?」
「子供の喧嘩で何が器物破損よ!」
「……子供の、喧嘩だと?」
中年女性の言葉に、つい敬語を忘れて聞き返してしまう。
「そうよ。それに光葉ちゃんは何の理由もなく――」
「何か理由があったら人を傷付けて良いのかよ」
「は?」
落ち着いて受け答えしようと心掛けた。相手が感情的になって喚き散らしているのに、俺まで感情的になったら収拾がつかなくなる。だから、冷静にならなければいけない。でも、出来なかった。
「あんたの娘に嫌がらせされた子は泣いてたんだ! 泣いて悲しんで苦しんでた! それを友達に隠して素足のまま校舎に上がろうとしたんだ! それがどんなに辛くて悲しくて恥ずかしいことか分かるか!」
俺は上履きを隠されるなんてしょっちゅうあった。だから、古くなって使わなくなった上履きを鞄の中に入れて予備を常に持っていた。
それは慣れていたからだけじゃない。惨めな思いを最初にして、もう二度とそんな思いをしたくなかったからだ。
靴下は汚れるし足は冷たくなる。周りからは指をさされて笑われて、上履きを隠した人間も何処かで嬉しそうに笑っている。
そういう経験があるから分かる。希さんが、どんな気持ちで素足のまま校舎に上がろうとしたのかが。
「友達だから贔屓してるんでしょうけど――」
「あんたも自分の娘に贔屓してるだろ! だったら俺は友達を贔屓する」
「あなた、目上の人に対する礼儀ってものが――」
「人としての礼儀が出来てない人間が礼儀を説いても説得力がないな」
「このッ!」「凡人ッ!」
目の前の中年女性が持っていたハンドバッグを俺に目掛けて振り抜いてくる。後ろから凛恋の悲鳴を聞きながら、俺は難なくハンドバッグを躱した。
「今の、当たってたら傷害罪だったな」
「光葉ちゃんを傷付けられた正当防衛よ!」
そう言った中年女性は俺に対して憎しみに満ちた視線を向ける。
「よく分かったわ。あなた、このままで済むとは思わないことね」
そう言って、中年女性は背を向けて歩き去っていく。それを見送っていると、俺はまた後ろから腕を掴まれて振り向かされた。
バシンッ!
そう、弾けるように激しい殴打音が響き、頬が痺れるように痛み、頭は脳が揺れるような感覚を覚える。
その俺の目の前には、右手を振り抜いた凛恋が立っていた。
「危ないことしないでって言ったでしょッ!」
「凛恋……ごめん」
「怪我したら、ごめんじゃ済まないでしょッ!」
そう言った凛恋は、俺から教頭へ視線を向けてギッと睨み付ける。その視線は、直接睨み付けられていない俺も末恐ろしかった。
「あんたのことは絶対に許さない」
低く重い声で凛恋がそう言い、俺の腕を引っ張って校舎の中に入って行く。前を歩く凛恋は、制服の袖で目元を拭った。
昼休み、凛恋と希さんと一緒に露木先生に呼ばれて音楽準備室に行くと、机の上に突っ伏した露木先生が居た。
「露木先生……失礼します」
俺が恐る恐る声を掛けると、ムクっと体を起こして顔を上げた露木先生は、俺を見て困った顔を向ける。
「多野くん、怒れないことをするのはやめてくれる?」
「えっ?」
「教頭先生にはきちんと叱ってくれって言われたけど、私は多野くんのこと悪いなんて思えないから。ああ、三人とも適当に座って」
「「失礼します」」
凛恋と希さんが先に入り、俺の方を睨んだ凛恋が自分の隣の椅子を指さす。そこへ座れという命令だ。
凛恋は朝からずっと怒っている。しかし、怒ってはいるが、俺と距離を取るようなことはしない。むしろ、俺と距離を取らないようにしている。
椅子に座った俺の手を、凛恋は机の陰で引ったくるように握る。
「先生、俺は間違っていたと思いますか?」
俺は恐る恐る露木先生に尋ねた。しかし、露木先生は横へ首を振った。
「あの時点では誰があんなことをしたか分からなかった。学校に誰かが侵入してた可能性もあったし、私は通報を止めようとした教頭先生の方が間違っていたと思う。それに、槌屋さんがしたことは悪いことだから」
「先生、昨日お父さんとお母さんには話したんですが、私は告訴しないつもりです」
「そう」
希さんは露木先生にそう言う。
「あんなことをされたのは悲しかったですけど、凡人くんが怒ってくれてスッキリしました。それに、被害があったのは上履きだけですから」
告訴をしないということは、今回のことを事件にしないということだ。
「凡人くん、告訴はしないけど露木先生が言ったみたいに凡人くんは当たり前のことをしてくれたの。私はそれが凄く嬉しいし感謝してる」
「希さん……」
「でも、朝のことは私は間違ってたと思う。あんなに興奮している相手の前に本人が出て行って冷静な話が出来るわけない。それに、凡人くんは今回のことには関係ないでしょ。これは私と槌屋先輩の問題」
そう言い切った希さんは、膝の上で両手を組んで視線を落とす。
「槌屋先輩、私が志望してる旺峰(おうほう)大学法学部を目指してたんだって。でも、進路指導の先生から、今の成績だと受からないから志望校のランクを落とそうって提案されたらしいの」
「でも、何でそれで希さんが」
「誰かが、私が旺峰の法学部を志望してて、私なら確実に受かるって言ってるのを聞いて、それでだって」
「それって、ただの嫉妬で逆恨みじゃないか」
希さんが旺峰大学の法学部を目指しているのも、それに受かるくらいの学力があるのも、希さんが努力した結果だ。
それを、自分は受からないと言われたからと言って、希さんに嫌がらせをするのは間違っている。そんなことしたって希さんが受からなくなるわけないし、そもそも槌屋先輩が受かるわけでもない。
「槌屋先輩、警察で少し事情を聞かれた後に私の家まで来てくれたの。一人で来て、私にも私のお母さんにも真摯に謝ってくれた。だから、告訴しないことにしたの。元々、する気もなかったんだけど」
希さんがそう言い終えると、露木先生はニッコリ笑って立ち上がり、希さんの背中を撫でる。
「赤城さん、頑張ったね」
「いえ、私は」
「ううん、赤城さんは頑張った。もう問題も解決したし、ゆっくりお昼を食べようか」
「はい」
露木先生の言葉を聞いて、希さんが弁当を広げるが、凛恋が弁当を出そうとせずに睨み付ける。
「あの、露木先生」
「八戸さん、どうしたの?」
「凡人と話があるので、音楽室で食べても良いですか?」
「うん、大丈夫だよ」
露木先生はいつも通りの笑顔を浮かべて頷く。しかし、俺は困った。凛恋は今怒っている。
その凛恋に話があると言われるのだから、その話は俺を怒る話だろう。
凛恋を怒らせたのは俺のせいだ。一〇〇パーセント俺に落ち度がある。でも、それでも凛恋に怒られるのは嫌だ。
それは、凛恋に怒られるのが怖いというより、凛恋に嫌な思いをさせてしまうからだ。
人を怒る時、怒っている側の人間も傷付き嫌な気持ちになる。そんなことを、凛恋にさせてしまうのが嫌だった。
「凡人、来て」
「あ、ああ」
凛恋が立ち上がり俺の手を引っ張ったまま、準備室と音楽室を隔てるドアを開く。
音楽室は照明は消されてカーテンが閉められているが、カーテンを通り抜けた日光が音楽室内を照らしている。その光で十分な明るさだった。
「凡人、座って」
黒板前の一段高くなったステージの縁へ腰を下ろすと、隣に座った凛恋が横から俺の体を抱きしめる。
「凡人があのおばさんにバッグで叩かれそうになった時、本当に怖かったんだからね」
「ごめん、凛恋」
凛恋の顔を覗き込みながら謝ると、凛恋は口をへの字に曲げて、少し離れていた座り位置を俺の方にずらす。
「昨日も今日も凡人は格好良かった。でも、凡人が危ない目に遭うのは絶対に嫌」
「ごめん」
「ペケ、一万」
「凛恋、ペケ多――ッ!?」
横に座っていた凛恋が、横から俺の両肩に手を置いてキスをする。そして、腿の上に乗ってくると向かい合うように、俺を真正面から抱き締めた。
「ほんと複雑な気分。凡人は格好良かったし、凄く凡人が希のために頑張ってくれたのは嬉しい。でも、遭わなくていい危ない目に自分で向かっていくのは凄く嫌。でも、凡人が怪我しなかったのは良かったことで。……それに、凡人とチューしたら幸せでどうでも良くなっちゃいそう……」
「凛恋……ごめん」
「まだ九九九九ペケ残ってるから」
「…………キス一回でチャラには?」
「せっかくのペケなのに、チャラにしたらもったいないじゃん!」
すっかり怒った表情がなくなった凛恋は、目を丸くして言う。
凛恋が機嫌を取り戻してくれたのは嬉しいが、発言には色々と不安が残る。
「凡人、お弁当食べよう。はい、凡人の分」
「ありがとう、凛恋」
丁寧に弁当包みに包まれた弁当を凛恋から受け取り、俺は弁当を眺めて固まる。
『覚悟してね?』
海苔でご飯の上に作られたメッセージの後ろには、卵で作られたニコニコマークがある。
そのニコニコマークと、俺の真横にある可愛いニコニコマークを見比べた後、俺は覚悟を持って両手を合わせる。
「い、いただきます」
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