【八〇《ありがとう》】:二

「ごめんね、隣を歩いているのが凛恋ではなくて」

「いえ、こちらこそ、お母さんじゃなくて申し訳ありません」


 お互いに冗談を言うと、お父さんがニコッと笑って近くにあったカフェに立ち寄る。カフェの店内には香ばしいコーヒーの香りが漂っていて、お父さんは店員さんに話し掛ける。


「凡人くんもブレンドで良いかい?」

「はい。ありがとうございます」


 お父さんはブレンドコーヒーを店員さんに頼み、すぐにテイクアウト用のカップに入ったコーヒーが運ばれてくる。

 それをそれぞれ受け取るとお父さんは店を出て行く。


 しばらく歩いたお父さんは、テムズ川沿いの遊歩道に入り、テムズ川に面した柵に近付いてコーヒーに口を付ける。

 俺もお父さんの隣に並んでコーヒーを飲みながら、視線の先に見えるウェストミンスター宮殿とビッグベンを眺める。

 ウェストミンスター宮殿とビッグベンは淡い灯りに照らされて、幻想的な雰囲気を発していた。


「五日間、私達に付き合わせて色々気を遣わせてしまってごめんね」

「いや、俺はとても楽しかったです。連れて来て下さって、本当にありがとうございました。お父さんが連れて来てくれなかったら、絶対、ロンドンなんて来る機会はなかったですし」


 テムズ川をボートが走り、川の水を切る音と川の上を風が流れる音が聞こえる。


「この五日間、凛恋はずっと笑顔だった。本当にありがとう」


 そう言ったお父さんはフッと笑ってテムズ川を走るボートを目で追う。


「親離れっていう言葉は昔からよく周りの人に聞いていた。いつかは凛恋も優愛も親から離れていく。それを私は進学や就職で親元を離れることなんだろうと思っていた。でも、本当の意味での親離れというのは、自分一人で自立した生活が出来ることじゃないんだね」

「本当の親離れ、ですか?」


 親離れと言われても、俺には子供が居ないし、親も居ないのと同然だからピンと来ない。

 親が物心付いた頃から居なかったのだから、親から離れようもない。

 でも、俺にははっきりとは分からないことだったが、それが悪いことではないことは、お父さんの表情から何となく分かった。


「凛恋は凡人くんのために頑張って、凡人くんと一緒に居たい一心で前に進んできた。その凛恋は、私の知っている、私と裕子に甘えて引っ付いて来ていた凛恋じゃない。心が自立して、もう私達が教えて導くところの先に行っていた。凛恋は、自分にとって大切な人を見付けて、自分のために自分の進むべき道をちゃんと見て選んで進んでいる。そういうことを、親離れというんだね」


 そう言ったお父さんは、コーヒーを一口飲んだ後に小さく息を吐く。

 その顔は少し寂しそうだった。


「親離れはいつか来るものだし、いつか来なければいけないものだ。でも実際に来ると、寂しいものだね。パパ、パパって私の後ろを追い掛けてた凛恋の姿が懐かしいよ」

「凛恋が小さい頃の話を聞かせてもらっても良いですか?」


 俺はお父さんの隣で、そう尋ねる。お母さんには凛恋が幼い頃の話を教えてもらった。でも、もっと俺が知らない凛恋を知りたかった。


「凛恋は小さい頃は大人しくてね。髪も今みたいに黒くて、小学校からは眼鏡を掛けていた。そんな大人しい凛恋が小学校二年生の頃かな。ある日突然、家に帰ったら私にお父さんって言うんだ。昨日まではパパって呼んでたのに。そしたら、学校でパパをパパって呼んでたら赤ちゃんみたいって言われたって言ってた」

「まあ、小学校低学年は、なんてことないことでも人をからかいますからね」

「それで裕子によくよく聞いたら、好きな男の子に笑われたのがショックだったらしい」


 俺はその話を聞いてドキンっとする。

 それが凛恋の初恋かどうかは分からない。でも、少なくとも当時の凛恋は恋をしていた。


「でも、次の日になったらパパに戻ってたんだ」

「あれ? 何かあったんですか?」

「学校で遠足に行って、その時もパパという呼び方をからかわれたらしい。その時、知らない男の子がからかう男の子に言ってたんだそうだ。他人を笑うお前達の方が見てて恥ずかしいとね」

「何か、その男の子、ませてますね」


 お父さんのエピソードに出てくる小二男子の言葉に苦笑いを浮かべる。しかし、凛恋を助けたそいつにでかしたと思った。


「その男の子はカズマくんとお友達に呼ばれていたらしくてね、しばらくずっとそのカズマくんのことが好きだったみたいだ」


 さっき褒めてやったが、今度はカズマに妬みが浮かぶ。凛恋に好かれるなんて羨ましい思いをしやがって。とんでもない幸せ者だ。


「でも、そのカズマくんはたまたま遠足先で居合わせた違う学校の子らしくてね。七夕の短冊に、カズマくんに会えますようにって書いてるのを見た時は寂しかったなー」

「結局、そのカズマって男の子には会えたんですか?」

「いや、私の知る限りでは会えなかったみたいだ。でも、その頃から少しずつ凛恋は自分に自信を持つようになったよ。大人しいだけじゃなくて、はっきり自分の意見を言えるようになった。そこはカズマくんに感謝したいね」

「今の凛恋があるのは、そのカズマって奴のおかげなんですね」


 それを聞いて、更にカズマに対する嫉妬が強くなる。

 入江は凛恋が外見を変えるほど、凛恋を好きにさせた男だが、それよりも前に凛恋の性格を決定付けるほどの影響を与えた男が居る。

 正直、小二男子に嫉妬するのはどうかとは思うが、当時は俺も小二だったのだから問題ないだろう。


「正直、クリスマスに、カズマくんに会わせて下さいってサンタクロースに頼まれたらどうしようかと思ったよ」


 お父さんは破顔して笑い、コーヒーを飲み干す。当時のサンタクロースさんは相当ビクビクしていたようだ。

 そりゃあ、おもちゃじゃなくて人探しを頼まれたら、サンタクロースもお手上げだろう。


「そういえばその頃からだな。凛恋が裕子の手伝いをするようになったのは」

「手伝いって言うと、家事の手伝いですか?」

「そうそう。お風呂を入れるのとか、洗濯機のスイッチを押す洗濯物を畳む程度のことはしてたけど、包丁を持ち始めたのはその頃だね」

「小二で料理はどうなんですかね?」

「私は包丁は危ないと言ったんだけど、裕子が子供用の包丁とまな板を凛恋に買って熱心に教えてたよ。裕子は凛恋と料理が出来るのが嬉しかったみたいだ」


 俺はお父さんの話を聞いて、幼い凛恋が子供用の包丁を持って慎重に野菜を切る姿を想像する。


「めちゃくちゃ可愛かったでしょうね」

「家に戻ったらアルバムの写真を見せてあげるよ」

「本当ですか!? あっ、でも凛恋に見せてもらえないかもしれませんね。アルバムは恥ずかしいからダメだって言ってましたし」

「凛恋に内緒で見せてあげるよ」

「ありがとうございます。楽しみにしてます」


 ニヤッと悪い笑みを浮かべた後、俺とお父さんはクスクスと楽しく笑う。


「さて、そろそろ戻ろうか」

「はい、あんまり遅くなると心配させちゃいますしね」


 そう答えると、俺は残ったコーヒーを一気に飲み干した。




 ホテルに戻って来て、エレベーターの途中でお父さんと別れる。俺は静かなホテルの廊下を歩いて泊まっている部屋まで行き、ドアのロックをキーで解除して中に入った。


「ただいま――ッ!?」


 ドアを開けて中に入った瞬間、部屋の奥から凛恋が走って来て俺に飛び付いた。


「り、凛恋!?」

「凡人っ……凡人っ……良かった、無事で良かった……」


 突然俺に抱き付いて来た凛恋が、俺の胸に顔を埋めてすがり付きながら言う。その凛恋の様子と言葉に戸惑い、俺は凛恋を抱き返しながらも状況が掴めない。


「凛恋!? どうして――」

「凡人とパパが全然帰って来なくて…………悪い人に連れ去られて、拳銃で――イヤァッ!」

「凛恋!」


 凛恋は両手で顔を覆って、部屋の床にペタンとへたり込む。その凛恋を俺はすぐに強く抱きしめた。

 凛恋の体は酷く震えている。表情は見えないが、声はとても怖がっていた。


「凛恋、心配掛けてごめん。でも、大丈夫だ。お父さんと少し出てただけだから」

「危ないから止めてよっ! パパも大切だけど一番凡人が大切なのっ! 凡人に何かあったら……私……わたしっ……」

「ごめん……」


 部屋にお母さんと優愛ちゃんの姿はない。

 二人共、そんなに遅くなるとは思っていなかったのだ。だから、それぞれの部屋に戻ったのだろう。

 それで、凛恋を一人で待たせる時間を作ってしまい、俺は凛恋を心配させてしまった。


「凛恋、風呂には?」

「凡人と一緒に入るから入ってない……」

「じゃあ、風呂に入ろう」


 風呂に入って暖まれば心も落ち着く。だから、凛恋もきっと落ち着けて涙も引くはずだ。

「手、離しちゃダメだから」

「分かってる」

「絶対、絶対……離しちゃダメだからね」

「ああ」




 風呂から上がってベッドに座ると、俺は凛恋に引き寄せられて唇を重ねた。

 凛恋の唇は震えていて、まだ凛恋の抱いた恐怖を拭い去れていないのが分かってしまった。


「凡人……どうして夜に外へ行ったの?」


 唇を離した凛恋は、唇がギリギリ離れるだけの距離を保って、すぐ目の前からか細い声で尋ねる。俺はその言葉に応えるため、テーブルの上に置いた紙袋の取っ手に手を伸ばして指先を引っ掛ける。


「凛恋に渡したいものがあったんだ」

「えっ?」


 俺が持っている紙袋を片手で受け取って凛恋が口をポカーンと開ける。

 その顔を横から見ながら、俺は凛恋の様子を窺う。

 紙袋を膝の上に置いて、凛恋は中に入っているラッピングされた箱を取り出す。


「凡人……これ……」

「凛恋をビックリさせたかったんだ」

「凡人……」

「り、凛恋!?」


 片手で箱を持ち片手で俺の手を握る凛恋は、顔を歪ませてポロポロと目から涙を溢す。

 俺は親指で凛恋の目から溢れた涙を拭いながら、凛恋の涙の理由を知りたくて声を掛けた。


「凛恋、何か――」

「危ないから止めてって言っちゃった。……凡人が私のためにしてくれたことなのに……。ごめん、凡人……ごめん」

「凛恋、謝らなくていい。心配掛けた俺が悪い」


 凛恋も一緒に連れて行けばよかった。でも、サプライズプレゼントをしたかったという俺の個人的な意見を優先した結果、凛恋を不安にさせて悲しませ泣かせてしまった。

 凛恋を泣かせてしまったのだから、サプライズプレゼントは失敗だ。


「凡人、一緒に開けて」

「えっ?」

「凡人の手、離したくないから」


 凛恋が箱を差し出す。俺は凛恋から箱を受け取って、凛恋がラッピングを剥がしやすいように箱の向きを変えた。


 凛恋はゆっくりとラッピングを剥がし、お洒落な英字のロゴが入った長細い箱を見る。

 それは革張りの作りの良いジュエリーケースで、アクセサリーに疎い俺が見ても一発でその手の物が入っていることが分かる。


「凡人……」

「凛恋が開けて」


 ジュエリーケースの下を持ち、凛恋が蓋を開けやすいように持ち上げる。凛恋は恐る恐るジュエリーケースを開ける。


「……可愛い」


 凛恋が蓋を開けたジュエリーケースには、ローズピンク色のハート型ロケットが付いたペンダントが入っている。


「これ……ロケットになってる」


 ペンダントを手に取った凛恋は、すぐにペンダントのチャーム部分がロケットになっていることに気付いた。そして、チャームを開いて固まった。


 チャームの中に彫ってもらったのは『凛恋、ありがとう』というシンプルなメッセージ。

 俺が今一番伝えたかったのは凛恋への感謝だった。だから、それを刻んでもらった。


「俺と出会ってくれてありがとう。俺を好きになってくれてありがとう。俺と付き合ってくれてありがとう。俺の側に居てくれてありがとう。他にも沢山、ありがとう。凛恋にありがとうを伝えたかった。だから、ロケットにそれを彫ってもらったんだ。ロンドンに来られたのも凛恋のお陰だけど、凛恋は俺のために色々頑張ってくれた。それに対してのありがとうを伝えたかったんだ。本当に、ありがとう。凛恋が頑張ってくれたから、俺は凛恋の側に居られる」

「……私だって、凡人に凄く感謝してる」


 凛恋はチャームを握り締めて胸に当て、コツンと額を俺の胸に置いた。


「私は凡人にいつも助けてもらって守ってもらって、凡人が居なかったら絶対に家族みんなでロンドンに来られなかった。絶対に、家族で笑って過ごせなかった。本当に感謝してもし切れないって思ってる。私は、凡人が居なかったら、絶対に今の私は居ない。……ありがとう、凡人」


 凛恋は泣きながら微笑んで俺の顔を見上げる。

 ありがとうと伝えることは、少しずつ恥ずかしくなっていく。二人の仲が深まれば深まるほど恥ずかしさが増していって、いつしか何かの切っ掛けがないと口に出来なくなる。


「凡人に付けてほしい」

「分かった」


 ネックレスの留め金を一旦外し、凛恋の首の後ろに回して留め金を留める。そして、俺は離れてペンダントを付けた凛恋の姿を見ようとする。だが、体を離そうとする前に、凛恋が俺の首に手を回してキスをした。


「凡人、ありがとう。ありがとう……ありがとう」


 息継ぎで唇を離す度に、凛恋はありがとうを積み重ねていく。でも、その言葉は軽々しくなるどころか、積み重ねれば積み重なるほど重みを増してくる。


 その重みの増した凛恋の言葉を噛み締めながら、俺は囁きながら凛恋を強く抱き締める。


「ありがとう」

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