【八〇《ありがとう》】:一
【ありがとう】
ロンドン旅行五日目は、あの有名な大英博物館の見学をした。
大英博物館は俺でも聞いたことがあり、社会科の授業でも習った。
沢山の展示物がある大英博物館だが、入り口近くに展示されているロゼッタストーンは、特に人気が高く沢山の見学者が集まっていた。
ロゼッタストーンは古代エジプト期の石碑。プトレマイオス五世の法令が書かれていて、その法令は、ヒエログリフ、デモティック、ギリシア文字と、三種類の文字で書かれていた。
このロゼッタストーンに書かれていた三種類の文字で書かれた法令はほぼ同じ内容で、このロゼッタストーンを解読したことで、それまでは理解できていなかったヒエログリフを理解できるようになったと言われている。
全部社会科の授業で習ったことだし、写真も教科書に載っていた。しかし、実際に見てみると、思いの外大きかった。
他には、ミイラも展示されていて、優愛ちゃんは「動き出しそう!」なんてことを言いながら目をキラキラさせていたが、凛恋は優愛ちゃんの感想に「動き出しそうとか言わないでよ! 怖いじゃん!」と反論していた。
大英博物館の後は外で昼食を取り、お土産屋さんの建ち並ぶ通りを歩いて散策しながら時間を潰
し、夕食を食べた後にミュージカルを見た。
ミュージカルは当然全編英語だったから何を言っているのか細かくは分からなかった。でも、表情や動きで話の流れは想像出来たし楽しかった。
そして、俺達はホテルに帰ってきたのだが、俺は凛恋のお父さんに呼ばれてロビーに残る。という芝居をした。
ついさっき入ってきたホテルの入り口を凛恋のお父さんと並んで外へ出る。俺は、隣を歩く凛恋のお父さんに頭を下げた。
「すみません、わがままを聞いてもらって」
「良いんだ。凛恋のためと言われたら、断るわけがないさ」
お父さんは優しく笑ってそう言ってくれた。
明日には俺達は日本へ帰る。でもその前に、どうしてもやりたいことがあった。
凛恋へのプレゼントを買うことだ。
俺が凛恋と一緒にロンドンに来られたのは、凛恋が俺と一緒に行きたいと頑張ってくれたからだ。その頑張りの過程には、本当に凛恋にとって辛いことが沢山あった。それでも、凛恋は自分の心が限界ギリギリになるまで頑張ってくれた。それに、俺はどうしても応えたかった。
「でも、店はどうやって調べたんだい?」
「フロントの人が日本語を話せる人だったので」
凛恋はずっと俺と一緒に居ようとしてくれるから、なかなか凛恋に知られずに聞くチャンスは無かったが、凛恋が優愛ちゃんと話している隙を見てフロントのお姉さんから情報を仕入れてきた。
お姉さんの情報では、ホテルの近くにメッセージ入りのペンダントを作ってくれるアクセサリーショップがあるらしい。
俺には読めないが、住所と店の名前と電話番号を書いたメモを貰い、それを頼りにお父さんに連れて行ってもらおうとしている。
「凡人くんからペンダントなんて貰ったら、きっと凛恋は喜ぶだろう。私も裕子にプレゼントを買えるし、凡人くんの提案はありがたかったよ」
「だとしたら優愛ちゃんの分は」
「優愛には私が何か買うよ。凡人くんが買ったら、凛恋が怒るからね」
ニッと笑うお父さんの隣を歩きながら、俺は尋ねた。
「お父さんとお母さんの出会いってどんな感じだったんですか?」
その質問は、俺にしては結構思い切った質問だった。でも、お父さんは笑顔で答えてくれた。
「大学の頃の飲み会だよ」
「そうなんですか」
「案外普通だろう?」
「俺と凛恋も友達同士のカラオケでしたから、同じようなものですね」
男女の出会いの場なんてそんなものだろう。登校途中に食パンを咥えながら走っていて、曲がり角を曲がったところでぶつかったのが出会い。なんてことが日常的に起こるわけがない。
「大学の友達が、お嬢様学校の女の子と飲み会だって騒いでてね。それに俺も混ぜてくれって頼んだんだ」
「お父さんって、結構積極的なんですね」
「あの頃は若かったからね」
照れたように笑うお父さんは思い返すように視線を上へ向けた。
「飲み会の時間になって、仲間と飲み屋に行った瞬間、裕子を見た途端に頭が真っ白になって何も考えられなかったな。それくらい、綺麗だった」
凛恋のお母さんは綺麗な人だ。そして、よく凛恋に似ている。だから、きっと凛恋がもう少し大人っぽくなった姿を想像すれば良い。
…………ヤバイ、とんでもない美人が頭の中で出来上がってしまった。今の凛恋でも十分綺麗で可愛いのに、それに大人っぽさを足すのは反則だ。
「まあ、他の友達も裕子に一目惚れしてね、みんなで裕子の取り合いさ」
明るく笑いながら言うお父さんは、少し苦い顔をする。しかし、話を続けた。
「凛恋と優愛には言わないでほしいんだけど、あの頃は私も若かったから、その後のことを考えてね……裕子に結構お酒を勧めたんだ。凡人くんなら分かってくれると信じてる」
「まあ、男だったら美人の人が居たら、想像はしちゃいますよね」
話には乗ってはみたものの、内心では「酔わせてお持ち帰りか~……」と思う。
お父さんには申し訳ないが、そういうリア充のイケイケ男子の思考は俺には分からない。しかし、好きになった女の子とそうなりたいという気持ちは分からなくもない。
「でもね、一つ誤算があったんだ」
「誤算ですか?」
「ああ……裕子、とてつもなくお酒が強かったんだ」
苦虫を噛み潰した顔で苦々しく口にするお父さんを見て、悪いとは思ったものの小さく吹き出してしまった。
「ビックリしたよ。どんなに強いお酒を飲ませても全く酔わないんだ。逆に、こっちの方が酔っちゃってね……」
「それで?」
「気が付いたら、男全員酔い潰れてた」
お父さんには悪いが、なんとも間抜けというかなんというか……。
まあ、いわゆる策士、策に溺れる。という状態だ。
「でもね、ここからが驚きなんだけど、飲み会の後に裕子から電話があったんだ。二人で飲みに行こうって」
「えっ!?」
お父さんは心底不思議そうな顔をする。そのお父さんの話を聞く俺も心底不思議だった。
お父さんの話を聞いて、お母さんがお父さんを飲みに誘う要素が思い付かない。
「それ、誘われた理由は聞いたんですか?」
「聞いたよ。でも裕子は、飲んでて楽しかったからって言うだけだった。特に面白いことをした記憶もないんだけどね」
両腕を組んで首を傾げながら困った笑顔を浮かべる。
その困り笑顔は、どことなく凛恋の困り笑顔と似ていた。
「それで、付き合うようになって結婚までですか?」
俺がそう尋ねた時、お父さんは一瞬暗い顔をして、それから力なく笑った。
「凛恋と優愛は知っているんだけど、私と裕子はいわゆる駆け落ちみたいなものなんだ」
「駆け落ち、ですか?」
お父さんの言葉に戸惑う。
駆け落ちは、両親の反対を押し切って同棲したり結婚したりすることだ。ということは、二人は両親に認められた結婚ではないということだ。しかし、俺はそこで疑問に思う。
「でも、親戚の集まりに行ってましたよね?」
去年、凛恋と俺が付き合い始めの頃に、凛恋は家族で親戚の集まりに行っていた。
それに年始だって三が日は親戚の集まりだったはずだ。それなのに、両親に認められていないというのはおかしい。
「ああ、集まるのは私の方の親戚でね。認めてくれていないのは裕子の両親なんだ」
「お母さんの両親ですか……」
「裕子はかなり良い家の娘でね。家柄なんて何も無いただの大学生とは交際させないって言われたんだ」
「それで……駆け落ち、ですか」
「ああ、裕子が言ってくれたんだ。私の人生は私が決めます。私は私の好きな人と一緒になりますって。裕子の言葉と気持ちはとても嬉しかった。でも、あの時、憎しみの込められた顔で私を見た、裕子の父親の顔は忘れられないよ」
「すみません……余計なことを聞いてしまって」
聞くべきじゃなかったと後悔した。
立ち入るべきことじゃなかった。でも、今更悔やんでも過去には戻れない。
「良いんだ。でもだからと言って、凛恋が連れてくる男を誰でも認めてるわけじゃないよ。私は凡人くんだから凛恋を任せたんだ」
「ありがとうございます」
頭を下げると、お父さんは遠くを見ながら悲しそうな表情をする。
もし俺が、凛恋の両親に付き合っていることを認めてもらえず、それで凛恋に肉親と縁を切らせるような選択をさせてしまったら……どうして、凛恋にそんなことをさせてしまったんだと、自分のことを責める。
そして、そんなことをさせてしまったことを凛恋に対して、本当に申し訳なく思う。
……きっと、お父さんも同じなんだ。
「でも、凛恋も優愛ちゃんも幸せそうです。もちろん、お母さんだって。それは、お父さんが幸せな家庭を作ろうって頑張ったからですよね」
「ありがとう、凡人くん。裕子には辛い思いをさせたからね。それに、凛恋と優愛にも。おっ、目的の店はあそこだね」
お父さんが指さした先には、フロントのお姉さんに教えてもらった店名と同じ店名の看板が見える。
お父さんと一緒に入ると、お父さんはショーケースに並べられたアクセサリーを見て驚いた声を上げる。
「高いのもあるが、お手頃な値段の物も多いね」
お父さんと一緒にショーケースのアクセサリーを眺めていると、綺麗な女性の店員さんが近付いて来た。
ブロンドの長い髪とモデルのようなスタイルで、絵に描いたような美人の外国人だった。
美人店員さんは、流暢な英語でお父さんと話をする。話の内容はよく分からないが、店員さんは驚いた顔をして嬉しそうに微笑んでいた。
「凡人くん、彼女は日本に留学していたそうだ。だから、日本語で話しても大丈夫だそうだよ」
「本当ですか? 良かった」
日本語が分かる人なら相談もし易いし、何より俺の思っていることを伝えやすい。
「すみません、これで買える範囲でメッセージを入れられるペンダントってどれですか?」
俺は自分の持っているキャッシュを見せながらそう尋ねた。すると、美人店員さんはニコニコと明るく笑って両手を合わせた。
「オー! 日本語デース! 久し振りに聞いたので、懐かしいデス!」
「…………」
見た目は大人っぽい美人の店員さん。しかし、その店員さんの声を聞いた瞬間、エレガントさは吹き飛んだ。
ものすごく明るくフレンドリーな人だった。
「すみまセン! つい、取り乱してしまいまシタ! メッセージを入れるなら、こっちのロケットがオススメデス!」
「これ、内側にメッセージを彫るんですか?」
「そーデス! きっとガールフレンドもビックリ! デスヨ!」
パチッとウインクをする店員さんは、ショーケースに並んだロケットの一列をなぞるように指で示す。
「この辺りなら、高校生でもお手頃デス!」
「ありがとうございます」
俺は勧められたペンダントを流し見て、ペンダントの一つに目を留める。
「オー! それはキュートでとても女の子に人気なデザインデス!」
「これにします」
即決だった。一目惚れというよりも、これしかないと思った。
「分かりまシタ! メッセージは何と入れマスカ?」
「えっと……日本語って入れられますか?」
「ダイジョーブデス! この紙に、入れたい文字を書いてくだサイ」
店員さんが店のロゴが入ったメモ紙を一枚持って来てくれて、真横から店員さんに見られるという緊張する状況で、少し手を震わせながら入れたいメッセージを書く。
すると、俺が文字を書いた紙を手に取った店員さんはパアっと明るく笑った。
「とても良い言葉デス! すぐにメッセージを入れてもらいマス! 少し待っていてくだサイ!」
小走りで店員さんが店の奥に入っていく。
俺は視線を動かしてお父さんの方を見ると、お父さんは真剣な顔でお母さんと優愛ちゃんにプレゼントするアクセサリーを見ている。
お父さんには別の店員さんが付いていて、英語でショーケースを指さしながら話している。
外はすっかり暗くなっていて、もう今日が終わりに近付いていることが分かる。
最初は五日は長いなんて思っていたが、実際に過ぎたらあっという間だった。
本当に楽しかった。本当に幸せなひと時だった。でも、その時間が終わってしまう。でもきっと、これから先にはもっと楽しいことがあるに決まっている。俺には、凛恋が居るから。
凛恋が居れば、何だって楽しい。少し悲しいことや辛いことがあっても、凛恋が居ればすぐに楽しくなって幸せな気持ちになれる。
「お待たせしまシタ!」
さっきのフレンドリーな店員さんが戻って来て、おしゃれな紙袋を持って戻って来る。そして、明るい笑顔と一緒に俺に紙袋を差し出した。
「きっと、喜んでくれるデス!」
「ありがとうございます」
紙袋を受け取ると、お父さんも店員さんから丁度紙袋を受け取っていた。
お父さんは紙袋を持って近付いてきて、ニコッと笑って紙袋を持ち上げる。
「お父さんはメッセージは入れたんですか?」
「ああ、英語で入れてもらったよ」
メッセージを入れてもらったにしては、俺のペンダントと出来上がりの時間が変わらなかった。もしかすると、メッセージが英語だと早く出来上がるのかもしれない。
「ありがとうございまシタ!」
フレンドリーな店員さんに見送られて店の外に出ると、先を歩くお父さんが振り返る。
「凡人くん、少し寄り道して帰ろう」
「え? は、はい」
突然の誘いに、俺は歩き出すお父さんの隣を歩く。ロンドンの街は日が落ちても建物の灯りがロマンチックな雰囲気を醸し出している。
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