【七七《霧の都で密やかに》】:一
【霧の都で密やかに】
俺はダイニングにボストンバッグを置き二階に上がる。そして、そっと凛恋の部屋のドアを開けた。
真っ暗な部屋を、物音を立てないように歩き、凛恋の眠るベッドの側に膝立ちになる。
「可愛いなー」
スヤスヤと眠る凛恋の寝顔を見て、俺はしみじみ呟く。
もう既に、凛恋のお父さんとお母さんは起きていて、起きていないのは凛恋と優愛ちゃんだけ。
二人は昨日遅くまで二人で起きていたし、このままだと寝坊してしまう。しかし、普通に起こしてしまうのは勿体ない。
とりあえずスマートフォンで凛恋の寝顔を撮影し、凛恋の頬を突いてみる。
「うぅ~ん……」
凛恋は小さく呻いて顔をしかめる。もう少し凛恋の寝顔を楽しんでいたいが、そろそろ起こさないと大変だ。
そっと凛恋の唇にキスをすると、キスの感触で目が覚めた凛恋がゆっくりと目を開く。
「おはよう凛恋。もう五時過ぎるぞ」
「うそ……もうそんな時間?」
「起きないとお母さんに怒られるぞ」
のそっと起き上がった凛恋はあくびを手で隠しながら、ゆっくり顔を近付けて俺の唇にキスをする。
「おはようと起こしてくれてありがとうのチュー」
ニコーっと笑う凛恋は背伸びをしてベッドから這い出る。
「下で待ってる」
「えー、着替えるまで待ってよー」
「はいはい。下行ってるからなー」
凛恋のワガママをスルーしてダイニングに戻ると、食後のコーヒーを飲んでいる凛恋のお父さんと目が合った。
「ありがとう凡人くん」
「いえ、いただきます」
俺は凛恋のお父さんの正面に座り、凛恋のお母さんが用意してくれたトーストとハムエッグに両手を合わせる。
本当は凛恋を待っておこうかと思ったが、先に食べてしまった方が時間に余裕が出来る。
「凡人くんは昨日は早く寝たんだね」
「夜更かしして寝坊するわけにはいかないので」
凛恋のお父さんにそう答えながら、俺はトーストにかじり付いた。
俺は八戸家の家族旅行に同行させてもらっている身だ。
それに旅行に掛かる費用の全てを負担させてしまっている。そうなのだから、俺が寝坊して迷惑を掛ける何て失態をやらかすわけにはいかない。
「凡人くん」
「はい」
「向こうで何かお金を使う必要があった時は、カードで払うから私に言いなさい」
「いや、祖父から小遣いを貰っているのでそれを遣います」
俺は爺ちゃんからお土産代を含めた小遣いを貰っている。だから、そういう俺個人の物の費用まで払わせるわけにはいかない。
「本当は私が全部出したいんだが、凡人くんは納得しないだろうね。でも、カードで私が払うのには理由があるんだ」
「理由ですか?」
「イギリスで使われているイギリスポンド、正式にはスターリングポンドと呼ばれる通貨なんだけど、現金に両替すると一〇パーセントほど手数料を取られてしまうんだ」
「一〇パーセントですか……」
確かに、お金を使っていないのに一〇パーセントもお金が減るのは勿体ない。
「だから、何にいくら使ったかをメモしておいて、その合計を日本円で貰うということでどうかな? レートは帰って来た時のもので計算することにしよう」
「すみません。お言葉に甘えさせていただきます」
後払いにはなってしまうが、凛恋のお父さんの厚意に甘えることにする。
「パパ、おはよう」
「おはよう、凛恋」
着替えを済ませた凛恋が俺の隣に座り、凛恋のお母さんが用意したトーストとハムエッグに凛恋は両手を合わせる。
「いただきます」
凛恋がトーストを食べ始めた時、丁度、優愛ちゃんがダイニングに入って来た。
「おはよ~……」
大分眠たそうな優愛ちゃんはお父さんの横に座ると、目の前の朝食に両手を合わせる。
「いただきます……」
目が覚めきっていない優愛ちゃんは、それでも器用にトーストとハムエッグを交互に口へ運ぶ。
「凡人くんもコーヒー飲む?」
「ありがとうございます。いただきます」
お母さんがそう尋ねてくれて、俺はお言葉に甘えてコーヒーをもらうことにした。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
お母さんの淹れてくれたコーヒーを飲んでいると、隣に居る凛恋が俺を見てニコニコと笑い、勢い良くトーストに噛み付く。それを見たお母さんがクスッと笑った。
「よっぽど凡人くんと一緒に行くのが嬉しいのね」
「うん! だってずっと楽しみにしてたし! ご馳走様でした! ほら、優愛も早く食べて!」
「えー……まだ起きたばっかりなのに……」
「凛恋、まだ時間はあるんだしそんなに急かさなくてもいいだろ」
優愛ちゃんを急かす凛恋をたしなめると、凛恋がぷくぅっと頬を膨らませて俺を睨む。
「凡人は優愛に甘いのよ」
「お兄ちゃんは妹に甘くていいんだよ。ねー、お兄ちゃん?」
大分目が覚めてきたのか、優愛ちゃんはいつもの調子を取り戻して言う。
それに鋭い視線を返した凛恋だったが、すぐにニコッと笑って穏やかな表情になる。
「今日の私は機嫌が良いから大目に見てあげるわよ」
凛恋が余裕を見せ付けるように言う。それを見て、お母さんとお父さんがクスクス笑っていた。
凛恋が浮かれているのは誰の目から見ても明らかだ。でも、俺はそれを当然だと思う。それは、俺だって浮かれているからだ。
彼女との海外旅行。
到着日にホテルに泊まるから六泊だが、一日目の今日は観光は出来ない。
そうなると実質的に五日の旅行になる。でも、五日なんて俺にとっては十分過ぎる日数だ。
五日間、異国の地を凛恋と一緒に見て回れることを考えただけで、心が躍りだしそうになる。浮かれるなと言うのが無理な話だ。
「ご馳走様でした」
優愛ちゃんが朝食を食べ終えると、出発の準備を始める。
八戸家は自家用車を持っているが、今回はタクシーを二台手配している。どうやら、タクシー代を支払う方が、空港の駐車料金を六日間分払うより安いらしい。
俺は二階に行って、凛恋と優愛ちゃんの大きな荷物を持って一階に下りる。
「やっぱり男の子は頼りになるわね」
玄関を出てタクシーの荷台に荷物を積むとお母さんが微笑む。
「凡人、ありがとう」
「凡人さん、ありがとう」
「どういたしまして」
「凡人くんと凛恋は後ろのタクシーに。優愛と裕子は私と前に」
お父さんの指示に従って凛恋と一緒にタクシーの後部座席に座ると、凛恋が指を組んで手を握る。チラッとタクシー運転手を見るが、後ろは一切見ていなかった。
三人が乗り込んだ前のタクシーが走り出すと、俺と凛恋が乗ったタクシーも前のタクシーを追うように走り出す。
「あー、チョーヤバイ! めちゃくちゃ嬉しい!」
「テンション上がるよな」
「凡人は行きたいところとかある?」
「ロンドンだからなー、ビッグベンとかは見たいな」
ロンドンはテレビでもよく取り上げられる都市だし、観光ガイドブックも本屋に行けば沢山置いてある。でも、実際に現地に行くのは当たり前だが今回が初めてだ。
「楽しみだね」
「ああ、めちゃくちゃ楽しみだ」
手を握りながら笑い合い、俺と凛恋はロンドンについての話で盛り上がった。
俺は凛恋のお父さんの誘導に従い、搭乗手続き、荷物の預け入れ、保安検査、そして出国審査を終え、やっと一息吐いた。
かなり厳重な検査ばかりで、終始ドキドキしっぱなしだったのだ。
出国審査を終えてから搭乗ゲートまでの間には、飲食店が沢山あって、ここで朝食を食べている人もちらほら見える。
俺達が今回乗る飛行機は、日本を八時に出発し、ロンドンのヒースロー空港に到着するのは一二時になる予定の便。
日本からロンドンまでのフライト時間は約一二時間。だから、普通に考えれば八時の一二時間後は二〇時だ。しかし、そこで時差の話が出てくる。
時差というのは、経度が一五度ズレるごとに一時間時差が生じると言われている。
日本の標準時は『東経一三五度の子午線』ということになっている。
まあ東経やら子午線やらとややこしい単語が書かれているが、つまりは『日本とロンドンの時差は一三五度分ある』ということだ。
ここでやっと東経の一三五を一時間分のズレである一五で割れば、日本とロンドンの時差が九時間であることが分かる。しかし、これで終わらないのが時差のややこしいところだ。
世界の色々な国々で導入されているサマータイムというシステムがある。
このサマータイムは、ある一定の期間に限り時間の有効活用とかなんとかで、サマータイムが適応されている期間は標準時を一時間進めることになっている。
日本とロンドンの時差は九時間だが、東から西へ向かうと、時間を戻さなくてはいけない。だから、通常の九時間の時差だと、日本からロンドンへ行くと過去へ九時間遡ることになる。しかし、今はサマータイムが適応されている時期だから、ロンドンの標準時は一時間進んでいる。
つまり、九時間遡った後に一時間進めるから、今の時差は八時間になるのだ。
それで、八時に日本を出発し飛行機で一二時間飛んだ後、八時間分の時間を過去に戻すから、到着時間が昼の一二時になるのだ。
…………全く、面倒くさい。
「あ! あれ美味しそう!」
俺が中学の社会科で習ったことを思い出していると、優愛ちゃんがおしゃれなお菓子屋を見付けて、お父さんの腕を引っ張る。
「よし、時間もあるし買って食べるか」
娘に弱いお父さんは、優愛ちゃんに引っ張られるままに歩いて行く。
「私も食べる! ほら! 凡人も行こ!」
朝食を食べたばかりなのだが、甘い物は別腹ということなのだろう。
凛恋に付いて行くと、辿り着いた場所には何やら円形のパン、のような物が並べられている。その種類も様々で、商品名にスコーンと書かれていた。
「私、バナナスコーンがいい!」
「私はチョコチップスコーンにする。凡人は?」
「えっ? 俺?」
凛恋に尋ねられて戸惑って居ると、お父さんが笑顔で振り返る。
「子供が遠慮するものじゃないよ」
「じゃあ……ハニーマフィンをお願いします」
俺が「ハニーマフィン」と言った瞬間、凛恋がピクッと体を動かして俺の顔を見る。
「凡人……もしかして……」
「チョコチップスコーンって言いながらハニーマフィン見てただろ?」
凛恋がハニーマフィンも食べたがっているのは、目の動きですぐに分かった。
「ありがとうパパ!」
「ありがとうパパ」
「ありがとうございます」
それぞれ紙に包まれたスコーンとマフィンを受け取ると、三人で並んで座る。
「うーん! 美味しい!」
「優愛ちゃん、少し食べる?」
「良いんですか?」
「凛恋も食べるし、優愛ちゃんも良かったらどうぞ」
「いただきまーす! んんーっ! 甘くて美味しい!」
優愛ちゃんが美味しそうに顔を綻ばせる。その反応は可愛くて、思わず頭をワシャワシャと撫でたくなる。
「はむっ!」
横から凛恋がハニーマフィンにかじり付く。そして、自分が食べ掛けていたチョコチップスコーンを差し出す。
「はい、あーん」
「フゴッ!」
口に押し付けられたスコーンを食べると、凛恋が顔を近付けて俺を睨む。
「彼女の妹と間接チューしようとするなんて」
「そういうつもりは全くなかったんだけどな」
俺は、優愛ちゃんと凛恋が食べて、三分の一以下の大きさになったハニーマフィンを口に放り込む。
夏休み真っ最中だからか、人も多いし俺よりも年下の小学校低学年くらいの子供達もちらほら見える。夏休みに海外旅行に行く人は意外と多いらしい。
俺が小学校低学年の頃は、相変わらずゲームで夏休みを潰す子供だった。ロールプレイングゲームのレベル上げに明け暮れる毎日だった……はず。
ぶっちゃけ、もう小学校低学年の記憶なんて薄れている。
多分、そういう記憶が薄れた頃の話は、俺が自分の時間をただボーッと過ごしていたからだ。
自分の時間に、自分自身に興味関心を向けなかったから記憶に残らなかった。
俺は隣でウエットティッシュで手を拭く凛恋に視線を向けて、凛恋は小学校の頃、どんな子だったんだろうと思う。
凛恋は高校に上がる時に髪を金色に染めたから、それ以前は今と同じ黒髪だったに違いない。
それに中学時代は黒縁眼鏡を掛けていた。
「そういえば、凛恋は眼鏡を掛けなくても見えるのか?」
「え? うん、遠くの文字とか人の顔はボヤけるけど、そっちの方が良いから」
凛恋がそっと手を繋いで微笑む。凛恋は男性が苦手だから、周囲の男性の顔がはっきり見えない方が良いのかもしれない。
手を繋いだ凛恋は俺の顔を見て、座っている位置を俺に近付ける。
「私は凡人の顔だけ見えれば良いから」
「隣のカップルが惚気る~」
「優愛は耳塞いでなさい」
「ぷぎゃ! ふぁふぇふぇふぉ~」
凛恋が手で優愛ちゃんの頬を挟むと、優愛ちゃんは言葉になっていない音を発する。
「三人共、もうすぐ搭乗開始時間だ。搭乗口に行こう」
凛恋のお父さんに声を掛けられ、俺達はいよいよイギリス行きの飛行機に乗り込む。
「御搭乗ありがとうございます」
キャビンアテンダントの女性が頭を下げて飛行機に乗り込む搭乗客に丁寧な挨拶をする。
今回、俺達が乗る飛行機の座席は、プレミアムエコノミークラスというクラスのものになる。
飛行機の座席クラスと言ったら、ランクが高い順にファーストクラス、ビジネスクラス、そしてエコノミークラスと、大きく三つのクラスがある。
しかし、航空会社によって種類は細かく分類されるらしく、俺達が今日乗るプレミアムエコノミーはエコノミークラスとビジネスクラスの間くらいのクラスらしい。
日本からロンドンのヒースロー空港までは一二時間。その間、俺達は飛行機の座席に座りっぱなしになる。
長時間座った姿勢のままだと、エコノミークラス症候群と呼ばれる病気になるらしい。
エコノミークラス症候群は正式名称ではなく、正式には静脈血栓塞栓症(じょうみゃくけっせんそくせんしょう)と呼ばれるらしく、ようは血液が固まって血管を詰まらせる病気になる。
静脈血栓塞栓症の予防にはこまめな水分補給や、そもそも座った姿勢のまま居ないということも効果があるらしい。
エコノミークラスの座席は料金が安い分、ただ座るためだけの機能しか無い。
それに対して、ビジネスクラスは一人の座席で独立していて、座席全体が横になりやすいようにリクライニングシートになっている。
しかし、ファーストクラスまではいかなくてもビジネスクラスの料金は高い。
でも、エコノミークラスだと長時間のフライトは辛い。
そこで、ビジネスクラスほど高くないが、エコノミークラスよりも楽に座れるプレミアムエコノミークラスだ。
「凡人と隣同士~」
凛恋が自分のチケット番号と同じ窓際の席に座る。
俺は凛恋の隣の席に座り、飛行機の窓から明るくなった外の景色を眺める。綺麗に整備された滑走路から、今まさに飛行機が空へ飛び上がって行くのが見えた。
「えへへ~」
俺に顔を向けた凛恋が可愛く笑うのが見える。その笑顔は子供のように無邪気な笑顔だった。
「どーしよ、チョー顔がニヤける」
自分の頬に両手を当ててニヤニヤ笑う凛恋。その反応に首を傾げると、凛恋が俺の手を握ってまたニヤニヤ笑う。
「今から凡人と海外旅行なんて、本当チョー嬉し過ぎてさー」
「あまりはしゃぎ過ぎると、行く前に疲れるぞ」
「はーい!」
テンションが上がりまくっている凛恋は、窓の外に視線を向けて鼻歌を歌い始める。
機内にはキャビンアテンダントさんが、荷物の置き方や電子機器の電源について説明をしているアナウンスが流れる。
そのアナウンスを聞きながら、凛恋の手から感じるワクワクと一緒に、俺もワクワクを感じた。
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