【七七《霧の都で密やかに》】:二
俺の隣で、凛恋が寝息をスースーと立て、膝に毛布を掛けて眠っている。でも、俺の手はずっと握ったままだ。
最初はハイテンションを維持して起きていたが、次第に眠気が来たのか凛恋は眠ってしまった。
本当は、機内では起きていて、ロンドンが夜になってから寝た方が時差ボケを治しやすいらしい。でも、俺の手を握る凛恋の寝顔はめちゃくちゃ可愛くて、起こす気にはならない。
しばらく凛恋の寝顔を鑑賞していたが、ずっと凛恋の寝顔を見ていたら俺の理性が吹っ飛びそうだったから、俺は座席に付いたモニターでひたすら洋画を見続けた。
多分、二時間半くらいの洋画を四本見終え、今は五本目の途中だ。やはり、長いフライトになる国際線の設備だからか、時間潰しが出来るものが用意されている。
通路を挟んだ隣の座席を見ると、凛恋のお父さんとお母さんは俺と同じように何かモニターで見ているようで、優愛ちゃんは毛布を抱き締めながら眠っていた。
優愛ちゃんの寝顔は幼い凛恋を見ているようで、本当に姉妹揃ってよく似ている。
「……凛恋の寝顔、やっぱりめちゃくちゃ可愛いな」
イヤホンを外して改めて凛恋の寝顔を見る。
周りの人はまだ凛恋の寝顔に気付いておらず、凛恋の寝顔は今のところ俺が独り占め出来ている。
大抵の男が凛恋の寝顔を見れば一発で惚れてしまう。だから、このまま誰も気付かないでほしい。
「無防備だぞ。こんな可愛い顔見せるなんて」
さり気なく、凛恋の膝に乗った毛布を凛恋の肩まで持ち上げながら、背中で凛恋の寝顔を隠す。すると、凛恋が少し顔をしかめた後、ゆっくりと目を開いた。
「かず……と……?」
「ごめん、起こしちゃ――」
凛恋の右手が俺の後頭部に手を回して、すっと顔を近付ける。
優しく被せられた凛恋の唇が、そっと俺の下唇を挟む。少し乾いた凛恋の唇だが、乾いてもふわふわとして柔らかい。
「おはようのチュー」
凛恋がニヘラと笑い、俺の顔にまた顔を近付けようとする。しかし、俺はその前に凛恋の頬に手を添えて顔の動きを止める。
「凛恋、飛行機の中だぞ」
俺が寝惚けている凛恋にそう言うと、凛恋の顔の動きが止まり、見る見るうちに真っ赤に染まる。そして、リクライニングシートに寝かせ、顔の半分まで毛布を被り込む。その反応がめちゃくちゃ可愛い。
「寝惚けて飛行機の中だって忘れてただろ?」
「うん……あっ……」
毛布に隠れる凛恋が、更に顔を真っ赤にしてパッと手を離す。
「どうした?」
「汗……めっちゃ掻いてた」
凛恋が恥ずかしそうに言うのを聞いて、俺は凛恋が離した手を引ったくって握る。
「今更だろ。それよりもごめん、起こしちゃって」
「ううん、大丈夫。今、何時くらい?」
「えっと、ロンドンの現地時間でもうすぐ一二時だな。もう到着予定の時間だ」
「じゃあ、もう起きてないと」
そこで自分が持っている毛布に視線を向ける。そして、俺の顔を見てニコッと明るく笑った。
「凡人、毛布ありがとう」
「どういたしまして」
凛恋が寝てすぐ、キャビンアテンダントさんにお願いして、俺は毛布を持ってきてもらった。
それを凛恋は眠っていて知らないはずだが、俺が持ってきてもらったと分かったらしい。
「凡人は一二時間起きてたの?」
「ああ、最初は凛恋の寝顔見てて、その後はモニターで洋画を見てた」
「えー、ずっと私の顔見ててよー」
「凛恋の寝顔をずっと見てたらドキドキでやばかったんだよ」
シートに背中を付けながら言うと、横で凛恋がクスクス笑っているのが見える。
丁度その時、ヒースロー空港へ着陸するというアナウンスが流れた。
「凡人、見て」
「おお」
窓から眼下に広がる風景に俺は声を漏らした。
米粒のように小さな自動車の群れが広い道路に列を成して走っている。
その光景自体は日本とさほど変わらない。でも、上空から見える建物は赤茶色の壁色をした建物が沢山見える。
それだけで、日本の街並みとは全然違って見える。それだけで、俺が日本以外の国に来たという実感が湧いてくる。
「私達、海外に来たんだね」
「実際に見ると、実感が湧くよな」
凛恋の座席の方に身を乗り出し、凛恋と顔を並べて窓にかじり付く。すると、横からふわりと凛恋の甘い香りを漂わせるそよ風が吹いた。
チュッ。
その小さな音が鳴って柔らかい感触を頬に受けてすぐに凛恋の方に顔を向ける。凛恋は真っ直ぐ窓の外に顔を向けている。でも、頬はほんのり赤くなっていた。
飛行機が着陸してから、沢山の旅客機が離着陸をしているせいか、着陸してすぐに飛行機から下りることは出来なかった。
しかし、やっと俺達は飛行機とターミナルビルを繋ぐ搭乗橋の中を通り、いよいよヒースロー空港のターミナルビルに入った。
「ふわ~疲れた~」
そう声を出しながら、優愛ちゃんがうーんと背伸びをする。
その後ろから人の波が押し寄せ、凛恋が優愛ちゃんの腕を引っ張って引き寄せた。
「ほら、しっかり立ってないと迷子になるわよ」
「そこまで子供じゃないし!」
「ほら、二人とも行くわよ」
凛恋のお母さんが二人を促し、俺は苦笑いを浮かべながら先頭を歩く凛恋のお父さんの一歩後ろをついて行く。
「凡人くんはずっと起きてたみたいだね」
「はい。寝ると時差ボケが抜けにくいって話だったので」
「凛恋も優愛もぐっすり眠ってたみたいだが。二人は遅くまで寝ていたんだがな」
「そうですね」
「凡人?」
凛恋のお父さんと笑いながら話していると、後ろから凛恋が怖い声を出して俺の肩を叩く。そして、ニッコリ笑った。
「何の話?」
「い、いや……何でもありません」
後ろからは凛恋のお母さんと優愛ちゃんがクスクス笑う声が聞こえ、隣では凛恋のお父さんがニコニコ笑っている。
どうやら、八戸家での俺のポジションは、凛恋の尻に敷かれるというポジションで確定したらしい。
入国審査を受け預けた荷物を受け取ってゲートを抜けた俺は息を飲んだ。
広い空間に、見渡す限りの人。せわしなく動く人の波は、右へ左へ入り乱れ目で追うことは出来ない。
「凡人……」
「凛恋?」
凛恋が俺の腕にしがみ付いて小さな声を出す。
その直後、凛恋の方からがたいの良い黒人男性が通り過ぎた。
「凛恋、大丈夫」
「うん……」
凛恋が抱いた腕を引き寄せて凛恋の体を自分に寄り添わせる。それで、凛恋の様子を窺う。
少し緊張しているようだが、酷く怯えている様子は見えない。きっと、急に体の大きな人が視界に入ってきてビックリしたんだろう。
「うわー、外国人がいっぱい!」
「優愛ちゃん、ここじゃ俺達が外国人だよ」
優愛ちゃんの素直な感想に俺がそう言うと、俺の腕を抱いていた凛恋がクスッと笑って体の強張りがスッと解けた。
「凄い人だね」
「そうだな。日本も人が多かったけど、こっちは昼だから人が動く時間だし」
視界に入る文字は全て英語で、学校で英語の授業を受けていてもとっさに読むことは出来ない。
「さあ行こう。出口はこっちだ」
凛恋のお父さんがそう言って、人の波に向かって歩いて行く。
凛恋のお父さんは出張でアメリカに行くことがあるし、仕事上でも海外の人と接する機会も多いらしい。だからか、異国の地でも怯んだ様子はない。
頼りになる凛恋のお父さんの後について行くと、ターミナルビルの出入り口から外に出る。
「ここからタクシーを拾って行こう」
そう言って凛恋のお父さんが拾ったタクシーは、変わった形の真っ黒い車だった。
凛恋のお父さんが運転手の男性に何か話をした後、運転手の男性は運転席と後部座席の間に、折り畳まれた座席を展開して俺達に笑顔を向ける。
「一度に五人乗れるタクシーがあるんですね」
「ブラックキャブと呼ばれるロンドン名物のタクシーだそうだよ」
俺は正面に座る凛恋のお父さんと話していると、お父さんの隣に座る優愛ちゃんが首を傾げる。
「あれ? 外国って車は右側を走るんじゃないの?」
「イギリスはヨーロッパの国でも左側通行だね。左側通行の理由は色々説があるけど、昔フランスがヨーロッパの大半を支配下に置いた時期があったんだ」
「ナポレオン戦争のことですか?」
「そうそう。そのナポレオン戦争でフランス帝国の支配下にあった地域に、フランス帝国が導入してた右側通行が広まった」
「ああ、フランス帝国と敵対してた対仏大同盟だったから、それに対抗して左側通行なんですね」
優愛ちゃんは頭が良いからか、すんなりと納得してくれる。しかし、隣に居る凛恋は俺の腕を引っ張って唇を尖らせる。
「優愛だけ分かってズルい」
「優愛ちゃんが言ってた、対仏大同盟はフランスと敵対している国々が組んだ同盟なんだ。その同盟はイギリスが主導してたから、フランスのやり方に反発しての左側通行っていう一説」
「そっか。でも一説ってことは、他にもあるの?」
「ああ、もう一つあるんだけど、それは日本も同じ理由だって言われてる。日本は昔刀を武器として使ってただろ?」
「江戸時代の侍とかね!」
「じゃあ凛恋、刀を抜く真似をしてみて」
「刀を抜く?」
そう首を傾げた後に、凛恋は左腰から刀を抜く動きをする。
「人は右利きの人が多いから、凛恋がやったみたいに大抵の人は左腰に帯刀して刀を抜く。それで右側を仮に歩くと、細い道やすれ違おうとする時に鞘がぶつかることがある。それで、ちょくちょく揉め事が起こってたらしい。それで、左側通行にすれば鞘が当たらないからって理由で日本は左側通行になったらしい。イギリスも同じ理由だって言われてる」
「凡人くんは物知りね」
凛恋のお母さんがニッコリ笑って褒めてくれる。それに照れながら頭を下げると、隣で凛恋が嬉しそうに笑う。
「凡人はチョー頭良い!」
「昔、俺も調べたからな。なんで日本は左側通行なんだろって」
凛恋にも褒められてつい顔がニヤけそうになる。
ヒースロー空港を出たタクシーは広い道路をゆっくりと走り出す。
飛行機から見下ろしたように、ロンドンの街にある建物は煉瓦タイルを壁に貼り付けた建物が目立つ。
レトロな雰囲気というか、洋風の街並みが海外の街並みらしい。
「今は一三時前か。ホテルの手前で下りて、街を歩きながら何処かに入って昼食にしよう」
「フィッシュアンドチップスがいい!」
優愛ちゃんがニコニコ笑いながら、手を挙げてそう提案する。
「優愛、フィッシュアンドチップスってどんな料理か知ってるの?」
「ううん、でも有名だって聞いたし!」
「フィッシュアンドチップスって、酢と塩で食べる白身魚のフライとポテトフライよ」
「そうなんだ! でも、有名ってことは美味しいんじゃない?」
「まあ、イギリスは料理が不味い国なんて言われてた時期もあったらしいけど、ちゃんとした店に入れば美味しいとはガイドブックに書いてたわね」
「ちょっと、タクシーの運転手さんに聞いてみよう」
凛恋のお父さんが英語で運転手へ話し掛ける。
確かに、沢山の観光客を乗せて移動するタクシーの運転手さんなら、観光客からその手の質問は腐るほど受けるはずだ。それなら、おすすめの店を知っているかもしれない。
「ホテルに行く途中に有名なフィッシュアンドチップスの店があるらしい。軽く食べられるし、みんなが良ければそこにするけど?」
「私はそこでいいわ」
「俺も大丈夫です」
「私も」
「じゃあ、お昼はフィッシュアンドチップスで決まりだな」
「やった!」
優愛ちゃんが嬉しそうにニコニコ笑う。
窓の外を流れる風景は、空港周辺の郊外という街並みから都心部の街並みに様変わりしていた。
「チョーおしゃれー」
建物のデザインもヨーロッパの雰囲気を感じさせるもので統一され、目に見える景色全てが有名な絵画だと言われても不思議じゃない。
凛恋が言うように街はおしゃれで、それで綺麗な街並みだ。
タクシーが停車し、お父さんがカードで料金を支払うと、俺は三六〇度をグルリと見渡した。
建物のデザインもそうだが、街灯の形もおしゃれで、マンホール一つとっても日本とは全く違う。
「うわー、外国に来たって感じするね」
「ああ……空港の雰囲気とは比べ物にならないな」
初めて見る景色に初めて吸う空気、そして初めて聞く音。全部初めて尽くしで、その初めてを凛恋と一緒に経験出来ているのが幸せだ。
「お姉ちゃん! 凡人さん! 行くよー!」
数歩先で優愛ちゃんが手を振って俺と凛恋を呼ぶ。俺と凛恋は手を繋いで、優愛ちゃん達を追い掛けた。
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