【七三《鷹と鳥》】:一

【鷹と鳥】


 夏休み初日にも関わらず、俺はいつも通りの時間に起きて朝ご飯を食べていた。


「凛恋、朝は何か買うって言ったのに……」

「ダメよ。凡人が外で買って食べるのって、どうせ菓子パンでしょ?」


 エプロンを着けて正面に座る凛恋が、ニコニコ笑って朝ご飯を食べる俺の姿を眺めていた。

 凛恋が作った味噌汁をすすっていると、テーブルの上に弁当包みに包まれた弁当箱が置かれる。


「今日から五日、頑張ってね」

「弁当まで……」

「夏期講習のお昼は私が作るって約束したでしょ」

「ありがとう凛恋。凛恋の手作り弁当があればやる気が出る」


 ニコッと笑う凛恋にお礼を言うと、凛恋は正面の席から俺の隣に移ってきて、座った椅子を俺に近付けた。


「……五日も会えないなんてチョー寂しい」

「………………凛恋、夜は帰ってくるぞ?」

「でもお昼はずっと塾じゃん!」

「まあ、そうだけど」


 俺が朝食を食べ終わって食器を片付けようとすると、凛恋は俺の手を掴んでそれを止める。


「片付けは私がするから」

「作ってもらって片付けもさせるわけにはいかないだろ」

「じゃあ、片付けの代わりにチューして」


 凛恋が俺の方を向いて唇を尖らせる。それを見た俺は、凛恋の唇に軽くキスをする。


「えーっ……かずとぉー、いつものチューは?」

「いつも通りのやつなんてやったら、勉強に集中出来なくなるだろ」

「あっ、それは確かにマズいわね。でも私は、どうすればいいのよぉー。一日中悶々と過ごせって言うの?」

「俺のために我慢してくれ」

「そう言われると仕方ないわねー。でも五日の我慢だし! その後は目一杯凡人に遊んでもらおー!」


 今度は凛恋から軽いキスをしてくれて、俺は時計を見て立ち上がる。

 玄関まで歩いて行って靴を履くと、凛恋が鞄を両手で持って渡してくれる。


「ありがとう。じゃあ、行ってきま――」

「凡人、忘れ物!」

「えっ? 何か忘れたっけ」


 俺がポケットを触ってスマートフォンの存在を確認し、次に鞄の中を見ようとした瞬間、凛恋が俺の肩を叩いて、可愛らしくウインクをして言った。


「あなた、行ってきますのチューを忘れてるわよ」




 朝っぱらから容赦ない光を照り付けさせる夏の太陽を見上げ、俺は小さく息を吐く。

 朝だからと言って太陽が手加減してくれるわけもなく、駅前は既に灼熱地獄と化していた。

 心の中で「暑い」という言葉を一〇数回繰り返していた俺の耳に、俺を呼ぶ声が聞こえた。


「凡人ー! おはよー!」

「おはよう小鳥」

「待った?」

「多少は待った」

「そこは今来たところって言ってくれないの?」

「バカなこと言ってないで行くぞ」


 半袖のTシャツにジーンズ姿の小鳥は、隣に並んだ瞬間、大きく深呼吸をした。


「なんか緊張するよね」

「学校と同じだろ。人が集まって授業を受けるだけだ」

「凡人は凄いなー。僕は昨日から緊張してろくに眠れなかったよ」


 恥ずかしそうに笑う小鳥の話を聞いて、遠足の前の日に興奮して眠れない小学生の姿が頭に浮かぶ。


「でも、そんなに多くはないみたいだから良かったぁー」


 俺と小鳥の受ける短期集中型よりも、夏休みを丸々使うようなコースの方が人数が多い。

 夏休みに夏期講習を受けようなんて思う奴は、大抵夏休みを潰してでも志望大学に受かりたいという気概のある奴だからだ。

 だから、俺が夏期講習を受ける塾では、夏休み全日コースの方が人が多い。


 俺の場合は金が無いことと凛恋との時間で短期集中型のコースを選んだが、小鳥の場合は少し成績が落ちたから、親に短期集中型でも受けろと言われたらしい。


 小鳥も決して頭が悪いわけではないが、学年順位が少し落ちたらしい。

 正直、順位は前のテストより良い点を取っても、周りがより良い点を取れば下がる。だから、順位で見るよりも各教科の点数で見た方が良いのだが、どうやら小鳥の両親は順位を気にする人らしい。


「凡人は転校してきてからずっと学年二位だもんね。凄いなー」

「不動の一位の方が俺は凄いと思うけどな」


 ちなみに、不動の一位である希さんは夏期講習を受けないらしい。

 一体、どんな勉強をしたら全教科満点を取り続けられるのだろう。

 ノートの纏め方も綺麗だし、一度ちゃんと勉強法について教えてもらった方がいいかもしれない。


 駅前から小鳥と一緒に夏期講習を受ける塾に入る。塾の看板にはどこの大学に何人受かったみたいな広告が沢山貼られていて、何だか勉強する前からげんなりしてきた。

 短期集中型の教室へ行くと、入ってすぐに女子と目が合った。


「鷹島さん?」

「多野くん? 多野くんもここで短期集中コースを受けるの?」

「ああ」


 俺と目があったのは、刻季時代のクラスメイトで友達の鷹島さんだった。

 カジュアルな服装だったが、トレードマークの赤渕眼鏡ですぐに分かった。


「多野くん、浮気はダメよ」

「…………いきなり酷いな」

「そちらの可愛らしい女の子はどちら様?」

「可愛らしい女の子?」


 あらぬ嫌疑をかけられジトっとした目を向けられた俺は、鷹島さんの言葉に首を傾げて振り返る。そこには、ガチガチに固まった小鳥が居た。

 俺は再び鷹島さんに視線を戻して、鷹島さんの視線をたどる。そしてたどった先は小鳥に向いていた。

 なるほど、そういうことか。


「鷹島さん、小鳥は男だ」

「多野くん、私のことを馬鹿にしているの? そんな嘘で――」

「小鳥、学生証」

「は、はい!」


 ガチガチに固まっている上に緊張で声を裏返す小鳥が慌てて学生証を俺に差し出す。

 俺はその学生証を鷹島さんに見せた。


「小鳥瀬名……くん」


 学生証に性別は書かれていないが、着ている制服が男子の物だから性別を明らかにするのに使える。

 鷹島さんは立ち上がり、小鳥に向かって頭を下げた。


「ごめんなさい。あまりに綺麗な顔をしていたから、女の子と思ってしまって」

「い、いえ! よく間違えられるので大丈夫ですっ!」


 鷹島さんが差し出した学生証を受け取る小鳥を見て、俺は心の中で呟く。分かりやすいな、と。

 時間になり、夏期講習が始まると、当然教室の中は勉強モードに切り替わる。


 塾講師がホワイトボードの前で一学期に済んだ授業内容の復習をする。しかし、ただ復習するだけではなく、復習内容と関連した有名大学入試の過去問題を交えたり、学校では教わらない暗記のやり方も交えたりする。


 教える人が変われば教え方が変わるのは当然。ただ、やっぱり学校の授業よりも質が良い気がする。

 質が良い気がすると言っても、学校の先生全ての授業内容が劣っているというわけではない。

 ただ、塾講師の方が教科毎のバラつきがないのだ。

 学校だと、この教科の先生は良いけど、別の教科の先生は全くダメ、なんてことがある。でも、塾にはそれがない。


 刻雨高校は私立だ。ただよっぽどとんでもない不祥事を起こさない限りクビにはならないし、給料が減らされることもない。でも塾は塾生が集まらなければ廃業。

 その塾生の集まりに影響するのは、やっぱり大学の合格率に始まる実績だ。その実績を上げなければ、塾講師は職を失う。だから、それぞれの授業の本気度が違う。

 やっと午前の授業が終了し、俺は小鳥と休憩スペースに行って昼食を食べようとした。


「多野くん、隣、いいかしら?」

「ああ、どうぞ」


 俺の隣の席に鷹島さんが座り、自分の弁当を広げて食べ始める。


「多野くんは何処の大学を目指しているの?」

「俺は塔成の文学部」

「うそ……私も塔成大学の文学部志望なの」

「えっ? そうなのか」

「ええ、でも多野くんならもっと上の大学を目指すべきだと思うけど?」

「俺だと塔成でギリギリだよ」


 鷹島さんと話しながらチラリと視線を正面の小鳥に向けると、小鳥は箸で卵焼きを挟んだまま固まっている。


「多野くんは何か将来の目標があるの?」

「恥ずかしいけど、将来のことは全く何だ。鷹島さんは?」

「私は報道記者を目指しているの」

「報道記者って言うと、アナウンサーじゃなくてレポーターってこと?」

「そうね。あまり人前に出るよりも裏方の方が良いのだけれど、そういう仕事も時にはあるわね」

「報道記者か、凄いな」


 鷹島さんの雰囲気で質問をぶつけられたら、どんな相手でも質問に答えさせられてしまいそうだ。


「八戸さんは何処の大学に行くの?」

「今のところは成華(せいか)女子って言ってたな」

「成華女子大学って言えば、塔成大学の目と鼻の先ね」


 鷹島さんがニッコリとした笑顔を俺に向ける。俺はその鷹島さんの笑顔に苦笑いを返した。

 凛恋と俺がまた付き合い出した時、凛恋に志望大学を聞かれ、俺が塔成大学だと答えたら、凛恋は進路希望調査票に塔成大学と書いて提出した。

 しかし露木先生から「彼氏と同じ大学に行きたい気持ちは分かるけど、もう一度ちゃんと考えて。それに八戸さんの成績では塔成は無理よ」と言われてしまったらしい。


 それで、俺と栄次、それから希さんと一緒に、凛恋は志望大学について話し合った。そして、凛恋が俺の側に居たいと譲らず、希さんが提案した成華女子になった。

 まあ、今の鷹島さんと同じように、露木先生から「塔成の目と鼻の先だね」と言われたらしいが。


「小鳥くんは何処を目指しているの?」

「えっ!? えっと、僕はその……刻灯(ときとう)大学の文学部を」

「そう。お互いに頑張りましょう」

「は、はい!」


 鷹島さんはニコリと笑って昼飯を再開する。俺も凛恋の手作り弁当をまた食べ始めるが、視線は目の前の小鳥に向けていた。

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