【七二《趣味嗜好》】:一

【趣味嗜好】


「おはよう凡人」

「んぁ……おはよう、凛恋……」


 体を揺すられて目を覚ました俺は、上から俺を覗き込んでいる凛恋に朝の挨拶をする。

 あくびを噛み殺しながら体を起こすと、凛恋が俺の両頬を横に引っ張る。


「今日は一段と寝ぼけてるわね」

「いふぁい、りふぉ、いふぁいっふぇ……」


 俺が凛恋に力なく抗議すると、凛恋の両手が俺の頬を解放した。


「ほら、明日から夏休みなんだから今日くらい頑張ろ。午前授業だしさ」


 そう言った凛恋は、屈んで俺と目線を合わせ、チュッと唇をくっ付けた。


「ンンッ!?」


 俺はキスしたまま凛恋の腕を引っ張り、ベッドの中に引き込む。すると、凛恋がニコニコ笑ってベッドの上で俺を見上げた。


「キャー、凡人に襲われるぅ~」


 パタパタと両手足を動かす凛恋に、上から覆い被さるようにキスをすると、すぐに凛恋は大人しくなってキスを受け入れた。


 池水が捕まって、凛恋を苦しめていた小包封筒はピタリと止んだ。

 池水は凛恋に限らず、数年前から放課後の下校指導と称して街を見回り、自分が教える女子生徒達を盗撮していた。だから、最初から凛恋を標的にしていたわけではなかった。


 今回、凛恋が付きまといの標的にされたのは、男に怯える凛恋の姿に興奮したからという胸糞悪い理由だった。

 凛恋の住所は学校が管理している名簿から知り、メールアドレスは没収と称して放課後まで生徒のスマートフォンを預かった際に手に入れたらしい。


 俺がその話を知ったのは、池水の事件が全国ネットのワイドショーで取り上げられ、それがインターネットの、ニュース関連のまとめサイトの記事になった時だった。


 今は池水も解雇され、凛恋も安心して学校に行けている。

 男性恐怖症が無くなったわけではないが、池水の付きまといが始まる前よりも明るくなった。


 それで、付きまといの被害もなくなっているのに、俺が何故まだ八戸家に居るのか。

 それは、凛恋が「夏休みが終わるまで一緒に居たい」と凛恋のお父さんお母さん、そしてうちの爺ちゃん婆ちゃんに懇願したからだ。


 それで晴れて俺は夏休みが終わるまで八戸家でお世話になることになったが、今日は終業式。ビックリするが、まだ夏休みは始まってもいない。


「ぷはっ……ヤバい、チョー幸せ」


 唇を離して俺がベッドから下りると、凛恋はベッドの上に座ってとろんとした目をする。その表情が可愛過ぎて色々な衝動が込み上げてくるが、俺は必死でそれを抑えた。


「凛恋、着替えるから」

「私も手伝う!」

「断る」

「キャッ! 凡――」


 凛恋を部屋から追い出してドアを閉めると、俺はゆっくり息を吐いて両手を腰に置き、今度はため息を吐いた。


「さて……着替えるか」




 終業式だからまだ夏休みではないのだが、高校生にそんなことを言っても何の意味もない。


「今日学校終わったらアイス食べに行こーよ」

「いいねー」


 女子生徒のそんな話が聞こえ、他にも夏休みの予定を立てる人達の声が聞こえてきて、完全に夏休み気分に切り替わっている。

 そう言う俺も明日から夏休みということで、多少なりとも夏休み気分になっている。しかし、それに輪を掛けて夏休み気分なのは、凛恋だ。


「夏休み、みんなでプール行こう!」

「うん! あとは花火大会も一緒に行こう!」

「そうだね! 去年も一緒に行ったし」


 凛恋と希さんが楽しそうに話をしていて、俺は二人の話を聞きながら前を向くと、正面に居る小鳥がうるうるとした視線を俺に向けてくる。


「凡人、ちゃんと明日駅で待ち合わせてから行こうね」

「分かった」

「絶対に先に行かないでね」

「分かってる」

「絶対……だからね」

「分かってるって言ってるだろ。しつこいな」


 小鳥はブワッという効果音でも聞こえてきそうな、今にも泣き出しそうな表情をする。

 小鳥は俺と同じ塾で夏期講習を受ける。

 それで、受けるコースもクラスも同じということで、一緒に行こうと言っているのだ。

 どうやら知らない奴等の中に放り込まれるのが不安らしい。


 確かに知らない人達の中に放り込まれる不安は分かる。が、俺と塾が同じじゃなかったら、小鳥は一体どうするつもりだったんだろう。


「みんな、席についてー」


 教室に露木先生が入って来て、教卓の前に立つ。


「明日から夏休みが始まります。長い休みになりますが、刻雨高校の生徒としての自覚を持った行動を心掛けてください」


 露木先生のお決まりのお話をボーッと聞いていると、露木先生と目が合って腕を組んだ露木先生にジトっとした目を向けられた。


「八戸さん、夏休みの間も多野くんのことをちゃんと見張っておいて下さい」

「はい! 任せてください」


 なんか、露木先生と凛恋の話を聞いていると、まるで俺が問題児かのような話だ。

 俺は生徒としてはかなり真面目で模範的な生徒だ。ただ、そうやって文句も言えない。


 俺は臨時休校の次の日、登校した時に露木先生に凛恋と一緒に呼び出された。

 そこで、俺達は露木先生に大泣きされたのだ。


 露木先生は凛恋が池水に乱暴されそうになったことに対して、かなり責任を感じていた。それに、露木先生は俺に対してだけ泣きながら怒った。


 危ないことをしないでほしいと。


 俺の行動が遅かったら、取り返しのつかないことになっていた。

 それはちゃんと認めてくれたが、相手は犯罪者で俺はただの高校生。だから、自分の命も考えてほしいと言われた。


 それは、凛恋にも言われた。

 俺の命も凛恋の命もどっちも大切で、凛恋は自分のために俺が死ぬようなことは絶対に嫌だと言っていた。

 俺だって、凛恋が自分のために池水のところに一人で行ったことは、もうしないでほしいと思った。

 それを、凛恋だって思うということだ。


 そのことを考えると、露木先生に問題児扱いではないが、過剰に心配されるのも仕方ないと思ってしまう。


「じゃあ、堅い話は終わりにして、みんなの夏休みの予定を聞こうかなー」

「露木先生は何か予定あるんですか?」

「彼氏と旅行ですかー?」

「えっ!? 露木先生、彼氏居るの!?」

「残念ながら夏休みも私はお仕事です。強いて言うなら、国際音楽コンクールのガラコンサートに行くくらいかなー」


 露木先生らしく、学校の先生らしくない親しみのある態度でクラスの連中と話をしている。


 そういえば、露木先生の話にも出たが、インターナショナルミュージックコンクールのガラコンサートはどうなったんだろう。

 確か、ステラが出ないと言い出してかなり揉めているという話だけは聞いていた。その後、ステラと何回か会ったが、ガラコンサートに出るとは言っていなかった。


「八戸さんと多野くんは何処か行くの?」


 すっかり、俺と凛恋が付き合ってるのは学校全体の周知の事実になり、露木先生は一切躊躇うことなく俺達の予定を聞く。


「今年はみんなでプールと花火大会に行く予定です」


 俺が凛恋の先手を打って露木先生に答える。みんなで行くことを話せばからかいのネタにされずに済む。しかし、そんな俺の思惑を無視して、凛恋は赤ら顔で口にした。


「家族と凡人も一緒にイギリスに行きます」

「「「何ィイッ!?」」」

「「「キャー!」」」


 男子からは絶叫が上がり、女子からは歓声が上がる。

 俺は視線を横に向けて凛恋を見ると、凛恋は顔を赤くしているものの、満足そうな顔をしていた。


「多野くん」

「なんでしょう」

「帰って来たら、イギリス旅行のお話聞かせてね」


 ニコニコ笑う露木先生に視線を合わせて、何となくその笑顔が希さんが怒った時の笑顔と似ているように見えて、俺は背筋に寒気を感じながら笑顔を作った。


「お土産、買ってきますね」




 俺はベッドの上に凛恋を正座させて、両腕を組んで凛恋をジーッと見詰めた。

 凛恋は顔を俯かせ、不安そうな顔を少し上げて俺を見る。


「凛恋」

「な、何?」

「俺は男共から散々ふざけるなと罵倒されたぞ」

「私は、女の子に彼氏と海外とかチョー羨ましいって言われた」


 何という男女の格差。俺は可愛い彼女と海外旅行なんてふざけるなこの野郎と言われたのに、凛恋の方は羨ましがられた。理不尽だ……。


「せっかく俺が躱したのに何で言うんだよ」

「だって、凡人と私が海外旅行に行くくらいラブラブだって見せ付けとかないと凡人を誰かに取られるかもしれないし!」

「俺を取るような物好きは居ないって」

「でも、田丸さんは凡人のこと好きだったし。筑摩だって凡人のこと好きだったし、多分筑摩は今も凡人のこと好きだし。それにステラだって凡人のこと好きじゃん! それに凡人と付き合ってる私は物好きってわけ?」

「何で怒ってるんだよ……」


「物好きって人が嫌うようなことをするってことでしょ? 私は凡人のこと大好きだし、凡人は人に嫌われるような人じゃない! 私の凡人に謝って!」

「……何で俺が俺に謝るんだよ」

「凡人だからって凡人のことを悪く言うの止めてって前にも言ったじゃん!」

「…………ごめん」

「分かったならいい!」


 最初は俺が凛恋を怒ってたはずなのに、いつの間にか凛恋に怒られて、しかも俺が謝ってる。

 何という巧みな手品だ。


「……凡人」

「ん?」

「怒ってごめんね……」


 凛恋が不安そうに俺の顔を覗き込んで謝る。

 さっきまで怒っていた人物と同一人物とは思えない表情の変わりようだ。


「今度は……急に罪悪感に苛まれたのか」


 今日は随分忙しく心情の変化する凛恋を抱き寄せて、俺は優しく頭を撫でた。


「俺も悪かった。凛恋が俺に俺のことを悪く言ってほしくないって言ったのに、自分のことを悪く言ったし」

「うん。凡人は凄く優しくて格好良くて気が利く最高の彼氏なんだからね。だから、絶対に凡人は悪い人じゃないから」

「ありがとう。凛恋にそう言われると嬉しい」


 凛恋の体から離れようとすると、俺の胸に顔を埋めた凛恋の顔が付いてくる。そして、少し顔を離してクンクンと鼻を動かした。


「凡人からうちの匂いがする」

「そりゃ洗濯してもらってるから、使ってる洗剤の匂いが付いてるかもな」

「夏休みの後もずっと一緒に住んでくれないかな~」


 凛恋の望みを叶えるのはかなり難しい。

 夏休みの間までというのもかなりわがままなのだ。それ以上なんて無理な話だ。


 凛恋を怖がらせていたものは全てなくなった。もう、凛恋は怯えて暮らさなくて良くなった。

 それで、俺が夏休みの間、凛恋と一緒に居られることが幸運なのだ。だから、高望みをするよりも、今の幸せをちゃんと噛み締めた方が良い。


「凡人……お昼寝しない?」

「昼寝?」

「うん、なんか凡人の匂い嗅いでたら眠くなって来ちゃった……」


 凛恋が小さくあくびをする。決して俺から催眠効果のある匂いは発していないが、リラックスしたことで眠気が来たのだろう。

 そう思いながら、俺も凛恋につられてあくびをする。

 凛恋と一緒にベッドに潜り込み、いつも通り手を繋いで目を閉じる。そうすると、すぐに俺の意識は眠気に飲み込まれていった。

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