【七〇《殺意》】:二

「凡人っ、凡人ってばっ、起きてよ」


 目を覚ますと、俺が使っている客室じゃなかった。


「ヤバ……あのまま寝ちゃったのか……」

「当たり前でしょ、あんだけ激しくして疲れないわけないじゃん」


 目の前で凛恋が焦った顔をして俺の肩を揺する。

 凛恋の後ろに見える窓からは、カーテン越しに薄明るい外の光が入ってくる。どうやらもう朝らしい。…………朝?


「ヤバい……」

「早く着替えて! まだ時間に間に合うから、もうすぐママが起こしに来ちゃうの!」


 俺は焦って凛恋のベッドから出ながら、近くにあった自分の服を手に取り、とりあえず下だけ穿いて凛恋の部屋から出る。そして、物音を立てないように出来るだけ急いで客室に入った。


「あっ、焦った~」


 朝、自分の娘を起こしに来たら、娘と彼氏が一糸纏わぬ姿で抱き合って寝ている。

 そんな光景を見せられたら、凛恋のお母さんは大激怒するに決まっているし、凛恋のお母さんとお父さんが俺に持ってくれている信頼も地に落ちる。


 俺はそうならなかったことに安堵して、ホッと息を吐きベッドに座りながら手に丸めて握ったシャツを広げて上から被る。


 パサッ。


 その音が聞こえたのは、シャツに頭を突っ込んだ直後だった。

 シャツから首を出した俺は、足元のフローリングにふと目を向けて、俺は体の動きを止めた。


 派手目のレースが印象的なレモンイエローのパンツ。明らかに男物じゃない。

 いや……何処からどう見ても女物のパンツでしかない。しかも、これは凛恋のだ。

 俺は凛恋のパンツを手に取ってどうしたものかと迷う。


「凛恋? 朝よ、起きなさい」

「マ、ママ!? も、もう起きてるよ!」

「あら、今日は少し早いわね。今日も凡人くんの分は凛恋が作るんでしょ? 早く着替えて来なさい」

「は、はーい」


 凛恋と凛恋のお母さんの会話を聞きながら、両腕を組んで視線の先にたたずむ奴を睨み付ける。


「どうするのが正解だ?」


 いや、迷う必要はない。

 俺は凛恋の彼氏なんだから、凛恋のお母さんが下に行ったのを見計らって、凛恋に返しに行けばいいだけの話だ。何を迷うことがあるんだ。


「でも……凛恋のパンツなんて、滅多に……」


 生唾を飲み込み高鳴る胸を手で押さえる。

 いくら彼氏と言えど、彼女のパンツを見放題というわけではない。それに、こんなにマジマジと凛恋のパンツに視線を合わせているのも初めてだ。

 俺はレモンイエローのパンツに手を伸ばそうとして、慌てて手を引っ込める。


「いやいや、それは流石にマズイだろ!」


 いくら凛恋の、彼女のパンツだからと言っても手に取るなんて……いや、手で持たないでどうやって返すんだ。手で持つのは避けられないことだ。


 今更女子のパンツを見てドキドキするなんてと心の中で思うが、それが彼女の、凛恋のパンツというだけで価値は三割いや五割……いやいや、一〇割増しになる。


 恐る恐るレモンイエローのパンツに手を伸ばし手に取ると、ほのかに温かかった。

 そりゃあ、ついさっきまでベッドの中で温められていたのだから、温かくて当然だ。でも、その温かさが妙にドキドキを煽る。


「か、返しに行かないと……」

「臭い、嗅ぐの?」

「いやいや、それは流石に出来ないだろ」

「でも、汗の臭いは嗅ぐじゃん」

「いや、汗とパンツじゃ差があり過ぎる。パンツの匂いなんて嗅いだなんて知られたら、俺は凛恋に振ら……れ、る?」


 俺はそう言い終えながら、顔を横に向ける。

 するとそこには、ジーッと俺を見ている制服姿の凛恋が居た。


「なっ――ンンッ!」

「ちょ、ちょっと! みんなに聞こえるじゃん!」


 思わず悲鳴を上げそうになった俺の口を凛恋が両手で押さえる。

 俺が悲鳴を上げないことを確認して、凛恋はゆっくりと俺の口から両手を離す。


「い、いったい……どの辺りから見てたんだ?」

「凡人が私のパンツを見下ろして腕組んで葛藤してるところから」

「……それってほぼ最初からだよな?」


 凛恋は俺の手からヒョイっとパンツを取ると、俺の隣で手に取ったばかりのパンツを穿く。


「部屋でパンツが無くて焦ってさー。どこ探しても無いからここかなーって思って」

「…………どうしてそれで俺のところだって思うんだよ」

「だって、私の部屋に私以外で居たのは凡人だけだし、私の魅力に負けてパンツ持って行っちゃったのかな~って思って」

「流石に俺はそんなに変態じゃない」

「だよね。パンツを手に取るだけでめちゃくちゃ迷ってたし」


 プッと笑う凛恋は俺の頬に軽くチュッと音を立ててキスをする。


「いつもの時間に起こしに来るから、凡人は寝てて」


 俺は凛恋が笑顔で出て行くのを見送り、ベッドの上に荒々しく体を倒した。




「寝られるわけないだろ……あの状況で」


 ドキドキしたあの状況で寝ることなんて出来ず、結局、俺はあれから一睡も出来なかった。

 時間にしては一時間そこそこの話だが、いつもより一時間睡眠時間が短いだけでかなり眠い。

 やっとの思いで学校を終えてここまで帰って来て、俺は体をベッドの上に横たえる。


「あぁ~……」

「もー、だらしない声出して」


 隣で横になる凛恋がクスクスと笑いながら俺の頭を撫でてくれる。

 凛恋の柔らかくて温かくて優しい手に撫でられると安心感があって、緊張するどころかリラックス出来た。でもその弊害で目蓋がどんどん重くなる。


「寝ていいよ」

「でも……一緒に寝たら……凛恋のお母さんに……」

「凡人が寝たら自分の部屋に戻るから大丈夫。だから、安心して寝ていいよ」


 柔らかく微笑む凛恋の手を握り、俺は瞳を閉じた。




 次に目を開けた時、俺は飛び起きた。


「そうだ……自分の部屋で寝てるんだった……」


 凛恋が隣に居ないことに焦って飛び起きたが、冷静に状況を判断して大きく息を吐く。


 自然に目が覚めるくらい寝たおかげか、頭も体もスッキリしている。

 きっと凛恋が添い寝してくれたというのもスッキリ寝られた理由だ。


 ベッドから起きて部屋を出て、一階のダイニングに入る。ダイニングの奥にあるキッチンでは、凛恋のお母さんが夕飯の準備をしていた。


「凡人くん、よく眠れた?」

「は、はい。ありがとうございます」


 俺が緊張してそう言うと、凛恋のお母さんがクスッと笑う。その笑顔は凛恋とそっくりだ。


「凛恋もまだ寝てるんですか?」

「凛恋はさっき学校から電話があって、学校に戻ったわよ?」

「えっ……?」


 凛恋のお母さんの言葉に、背筋にゾッとした寒気が走る。


「それって何時頃ですか?」

「えっと、五分か一〇分くらい前だ――」

「俺、出掛けてきます!」


 すぐにダイニングから出て、靴を急いで履いて外に飛び出した。

 凛恋が俺に黙って側を離れるわけがない。しかも、一人で外に行くなんて絶対にあり得ない。


 走りながら凛恋のスマートフォンに電話しようとポケットに手を突っ込む。しかし、そこにはスマートフォンはない。部屋に置いてきてしまった。


「くそったれがッ!」


 凛恋と連絡を取る手段はない。だから、凛恋が向かった学校へ行くしかない。

 いつも凛恋と歩く道を全力で走って学校まで向かう。

 学校の校門を走り抜けて、校舎の中に飛び込んで凛恋の靴箱を開ける。凛恋の靴箱にはローファーがあって上履きがなかった。


「多野くん?」

「露木先生! 凛恋を見ませんでしたか!?」

「えっ? 八戸さん? そういえばさっき、生徒指導室の前に立ってるのを――」


 俺は露木先生の言葉を聞いて、ローファーのまま校舎の中に入る。

 土足なんて気にしている余裕は無かった。

 一心不乱で凛恋が立っていたという生徒指導室を目指して走り、生徒指導室が目に入ると、一切の躊躇をせずにドアを壊す勢いで開けた。


 薄暗く狭い生徒指導室の奥で、床に仰向けで倒れた刻雨高校の制服を着た女子が居た。

 その女子は膝下までパンツを下ろされ、そのパンツに手を掛けている背広を着た小太りの中年男性はズボンを脱ぎ捨て、下はトランクス一枚になっていた。

 その光景を見て、俺は何も考えられなかった。


「池水ッ! 凛恋から離れろッ!」

「ガッ!」


 思いっきり池水の横腹を踏み付けて蹴り飛ばす。

 池水は床を転がって、壁際にあった事務棚にぶつかって呻き声を上げる。


「凛恋ッ! 凛恋ッ! 大丈――…………」

「いや……止めて……私は凡人の……凡人の……いや……イヤァァアアアッ!」


 凛恋は両手で頭を抱えて、体を尋常じゃないくらい震えさせていた。


「絶対に……許さない……絶対にお前だけは許さないッ!」


 俺は事務机のペン立てに立てられたハサミを掴み、床で呻いている池水に逆手で持って振り下ろした。


「多野止めろッ!」

「離せッ! こいつは絶対に許さないッ! 殺してやるッ!」

「露木先生は八戸をッ! 誰か多野を押さえるのを手伝って下さいッ! 多野ッ! 落ち着けッ!」

「池水ッ! てめぇはぜってー殺すッ! 俺が絶対に殺してやるッ!」


 ハサミを持った右手を必死に振り上げようとする。しかし、後ろから男の先生数人に組み伏せられて身動き一つ取れなかった。

 視界の中では、両腕を別の先生に掴まれて連れて行かれる池水の姿が映っていた。


「池水ッ! 逃がすかッ! 離せッ! 離せって言ってんだろうがッ!」

「多野ッ! 落ち着けって言ってるだろうがッ!」


 俺は連れて行かれる池水の背中に怒鳴り声を上げた。でも、どんなに声を荒らげても、心に湧いた殺意は少しも晴れなかった。

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