【六九《何でも分かりたい》】:一

【何でも分かりたい】


「凡人、朝だよ」


 凛恋の明るい声が聞こえた直後、口に柔らかい感触を受け目を開くと、凛恋のニッコリとした笑顔が見えた。


「おはようのチューしちゃった」

「まだ起きてないからもういっ――」


 凛恋がまた唇を重ねてすぐに離す。そして、頬を赤くしてはにかんだ。


「もういっ――アイタッ!」


 はにかんだ凛恋にもう一度キスをねだった俺の額に、凛恋は軽くチョップをして困ったように笑う。


「もー…………凡人は仕方ないんだから」


 凛恋が俺の隣に座り唇を突き出す。その凛恋の柔らかい唇に自分の唇を重ねてから、俺は凛恋の体をギュッと抱き締めた。


 俺が凛恋の家に昨日から泊まるようになったが、正直俺は浮かれてしまっている。

 凛恋の側に居たいという思いだけで許可をもらった。でも、こんなに浮かれてしまっていいとは思えない。


「凛恋、よく起きられたな」

「チョー眠いわよ。日付が変わるまで凡人が寝かせてくれなかったしー」


 ニヤッと笑った凛恋は力いっぱい俺を抱き締める。そして、俺の枕元にある箱を手にとって逆さにして軽く振る。しかし、空いたままの箱の口からは何も出て来ない。


「これはどういうことかな~? 凡人くん?」

「それは凛恋が可愛いのがいけないんだ。凛恋が可愛くなかったら使う必要なんてないんだし」


 からかうように言った凛恋にそう言うと、凛恋はニコニコと嬉しそうに笑いながら、俺の胸を指で突く。


「それズルい! 可愛いって言われたら怒れないじゃん。でも、凡人に可愛いって言われるのチョー嬉しい! ありがとう」


 凛恋が軽く俺の頬にキスをしてサッと立ち上がる。


「ほら、切りがないからもう終わり!」

「分かった」


 凛恋にたしなめられて凛恋が部屋から出て行くのを見送る。凛恋が出て行ってから制服に着替えて一階のダイニングに下りていく。


「おはよう、凡人くん」

「おはようございます」


 既にダイニングで朝食を食べていた凛恋のお父さんに挨拶をして、凛恋が手で示した、凛恋の隣の席へ腰掛ける。


「凛恋、凡人くんの分は私が作るって聞かなかったのよ」


 凛恋のお母さんがクスクス笑いながら凛恋のお父さんの隣に座る。

 俺は視線を誰も座っていないテーブルの席に向け、優愛ちゃんが居ないことを不思議に思って視線を巡らせる。


「優愛ちゃんは?」

「優愛は今は郵便を取りに行ってる。昔から朝の郵便は優愛が取るって決まってるの」

「そういう役割分担?」

「違うのよ。保育園の頃、最初は私が取りに行ってたんだけど途中から優愛が、お姉ちゃんだけズルいって言い始めて。それから優愛が取りに行くことになったの」


 凛恋のエピソードを聞いて、幼い優愛ちゃんが駄々を捏ねる姿が思い浮かんでほっこりする。


「……パパ」


 優愛ちゃんがダイニングに戻ってきた瞬間、か細く元気のない優愛ちゃんの声が聞こえる。

 その声は凛恋のお父さんを呼んでいて、凛恋のお父さんも優愛ちゃんの様子がおかしいことを察してサッと立ち上がる。


「優愛、どうした?」

「これが郵便受けに入ってて」


 優愛ちゃんが両手で凛恋のお父さんに差し出しているのは、A四サイズの茶色い小包封筒。

 その小包封筒はパンパンに膨らんでいて、宛名には『八戸凛恋様』という文字の横に『多野凡人』という文字が書かれていた。

 それを見て、朝の穏やかなダイニングに張り詰めた空気が走る。


 俺が凛恋の家に泊まり始めたのは昨日から、そして今朝この小包を送ってきた人物は俺が八戸家に泊まっていることを知っている。

 いや……俺が八戸家に入ってずっと出て来なかったのを見ていたということだ。


「凛恋のお父さん、上の客間に行きましょう」

「ああ」

「優愛ちゃん、ありがとう。優愛ちゃんはお母さんと凛恋と一緒に朝ご飯を食べてて」


 不安そうな顔をしている優愛ちゃんの頭に手を置いて優しく撫で、俺は優愛ちゃんの手から小包を受け取ってダイニングを出て階段を上る。

 しかし、階段を上っている途中、後ろから走ってくる足音が聞こえた。


「凡人!」

「凛恋は来るな」

「それ……」

「いいから」

「ダメ、凡人だけで抱え込ませない。私は大丈夫だから。私には凡人がずっと側に居てくれるから大丈夫」


 凛恋が後ろから俺の手を握る。その凛恋の目は真っ直ぐ俺の目を見ていて、頑なな意思が伝わってきた。

 俺は視線を凛恋のお父さんに向けると、凛恋のお父さんは何も言わずに頷く。

 凛恋のお父さんも、凛恋に何を言っても考えを曲げさせられないと思ったんだろう。


 三人で一緒に俺が使っている客間に行き、俺は部屋の中央に座り込んで小包封筒の封を開けた。

 開いた小包封筒の口を手で開いて中を覗くと、そこには大量の写真が入っていた。


「これ…………」

「凛恋が金髪の頃の写真だ」


 大量に出て来る写真は、今現在の黒髪にした凛恋の写真もあるが、それと同じくらい凛恋が金髪の頃の写真がある。


 凛恋が希さん達と楽しそうに遊んでいる姿や登下校時の姿。そして、俺と凛恋が写っている写真を手に取った時、俺の手を握る凛恋の手に力が籠もった。

 俺と凛恋が写っている写真の俺の顔部分には、千枚通しのような細く鋭利な何かで滅多刺しにされた跡があった。


 写真には凛恋の下着を下方向から盗撮された写真もあり、破り捨てたくなった。でも、俺はその手を止めて、封筒の中に放り投げた。

 その俺に、凛恋のお父さんが背中を叩いて励ましてくれる。


 この写真は凛恋がストーカーの被害に遭っている証拠であり、凛恋にこんな写真を送り付けてきた奴を突き止める手掛かりになる。


「これは警察に通報して調べてもらわないといけない」


 凛恋のお父さんの言葉に悔しさがこみ上げる。凛恋の写真を警察に調べてもらうということは、凛恋の下着が写っている写真を警察が見るということになる。

 警察が凛恋を苦しめている犯人を捕まえるために必要だということは分かっている。

 でも……凛恋の下着姿を晒してしまうことが嫌だった。


 凛恋のお父さんが部屋を出て行って、俺は凛恋の体を抱き寄せて力いっぱい抱き締めた。


「凛恋……ごめんっ……」


 俺が警察に頼らず凛恋を守れたら、凛恋の写真を警察に見せる必要なんてなかった。でも、俺にはそんな力はない。

 だから、凛恋の安全のためには、どうしても警察に頼る必要がある。


「凡人が居るから大丈夫」

「凛恋……」

「それに、凡人にはこんな写真なんかよりもっとヤバい姿見せ――」

「我慢しなくて良いから」


 凛恋の背中を撫でながら、俺はそう声を掛ける。

 凛恋の体は震えていて、怖がっていることも、その怖さを必死に俺に隠そうとしているのも分かった。


「凛恋は俺の彼女で俺は凛恋の彼氏だろ。無理しないで弱音を吐いてくれよ」

「……ごめん凡人……やっぱり、怖い」

「ごめん、凛恋」

「凡人は謝らないで。でもその代わりに…………」


 凛恋は薄く涙を流しながら、震える唇を俺に押し当てた。




 学校に着いてから、凛恋の側には常に俺が居て、希さんも居てくれることで凛恋の顔に笑顔が戻って来た。


「凛恋、良かったね。凡人くんが一緒に居てくれて」

「うん。凡人とずっと一緒だと安心出来る」


 ニコッと笑って凛恋がチラリと俺を見る。

 それに視線を合わせて微笑むと、凛恋も嬉しそうに笑ってくれた。


「凡人」

「どうした小鳥」


 前から小鳥に話し掛けられて視線を向けると、小鳥が廊下の方に視線を向けているのが見えた。

 そして、その方向に視線を向けると、サッと人影が引っ込むのだけが見えた。


「さっき石川くんがこっち見てた」

「石川が?」


 石川という名を聞いて眉をひそめる。

 石川は凛恋にしつこく言い寄っている男子だが、凛恋を怖がらせた時にぶん殴ってから目立った行動はない。


「八戸さんのこと、まだ好きなのかな?」

「たとえそうだとしても凛恋は俺の彼女だ。石川に渡すつもりはない」

「私も、凡人以外に渡る気ないよ」


 横から凛恋が顔を近付けてニコッと笑う。

 その笑顔を見て安心するが、俺はまたさり気なく廊下に視線を向ける。


 多分、クラスの前を通って凛恋の顔を見た。というだけだと思う。たとえ嫌われたとしても、好きな人は目で追ってしまうものだ。

 それも俺は許せないが、何か目立ったことをしてこない限り俺も何も出来ない。


 あの写真を送り付けてきた奴も、凛恋を何処からか見ている。

 写真を送り付けてきた奴は、実際にストーカー規制法に引っ掛かる付きまとい行為をしている。でも、俺は何も出来ない。


 凛恋が見られている。

 それだけで怒りが込み上げる。でもそれは俺の傲慢なんじゃないか、ただ凛恋を俺が独占したいだけなんじゃないか、そんな考えが浮かぶ。


 凛恋の下着を写した奴の存在を思い出して拳を握り締める。

 凛恋を怖がらせたこともそうだが、俺の凛恋を下卑た目で見て楽しんでいると思うとはらわたが煮えくり返った。




 結局、放課後まで石川が何かすることはなく、俺は凛恋と家まで帰って着替えてから外に出た。

 凛恋が「凡人と買い物デートしてくる!」と言うと、凛恋のお母さんは嬉しそうな顔で「遅くならないようにね」と言っていた。

 しかし、買い物デートは買い物デートだが、買う物を何かとは言い辛かった。


「なんか、凛恋のお母さんとお父さんの信頼を裏切ってるみたいで胃が痛い……」


 俺がそう言うと、膝下丈のレギンスとTシャツというカジュアルな服装の凛恋が、ギュッと腕を抱いてニヤける。


「今度は多めに買っとかないとねー。すーぐ、凡人が使い切っちゃうし」


 挑発的な凛恋の言葉を受け流すために黙っていると、凛恋が指を組んで俺の手を握りニコッと笑う。


「凡人、顔真っ赤。チョー可愛い」

「仕方ないだろ。思い出しちゃったんだから」

「凡人のエッチ~」


 凛恋にからかわれながらドラッグストアに入ると、凛恋が俺の手をギュッと握って後ろに隠れる。

 入れ違いにドラッグストアから出てきた男性から隠れたのだ。


「大丈夫だ」

「うん……」


 凛恋に声を掛けてからドラッグストアの中に入ると、凛恋は迷うことなく生理用品のコーナーに歩いて行く。

 凛恋は女の子だから行き慣れているのだろうが、俺は全く慣れない。このコーナーは男が立ち入ってはいけない雰囲気が漂ってる。


 ずんずん進んでいる凛恋に引っ張られながら、何処を向いても気まずい陳列棚の間で奥に視線を向ける。

 すると、そこには見慣れた顔の人影が、右手に持った商品をとっさに自分の後ろに隠した。


「凛恋に多野くん!?」

「萌夏、こんなところで奇遇だね!」


 凛恋は何の遠慮も無く歩いて切山さんに笑顔を向ける。しかし、俺はそんなフランクに話せる状況じゃない。

 切山さんが持っていた商品は間違いなく女性が扱う生理用品で、男子に買っているところを見られて嬉しいものではない。


「凛恋、俺は別の場所に居るから」

「いやっ! 一緒に居る!」


 凛恋が不安そうな表情をして、すぐに凛恋の手を引っ張って自分に引き寄せる。

 それを見て、切山さんがニコッと笑った。


「相変わらず仲良いね、二人は」

「えへへ、羨ましいでしょ?」

「そーね、私も多野くんみたいな彼氏ほしいなー」

「残念! もう凡人は私のだから誰にも渡さないし!」

「凛恋がガードしてたら、誰も多野くんに近付けないから安心ね。そうだこの後、久しぶりにうち来ない? ケーキも出すしゆっくり話そーよ」

「いいねー! 凡人もいいでしょ?」

「ああ、その前にお互い買い物を済ませてからな」

「じゃあ私は先に買い物を済ませて外で待ってるね。二人はゆっくり買い物して来ていいから」


 そう言って切山さんが足早にレジカウンターの方に歩いて行く。

 その背中を見送り、俺はホッと一息吐いた。


「凡人? どうしたの?」

「どうしたもこうしたもないだろ。この場所で知り合いの女子に会ったんだから気まずかったんだよ」

「あっ……萌夏に悪いことしちゃった……」


 凛恋がシュンとした表情をするが、俺は凛恋の頭を撫でて慰める。


「切山さんに後でごめんって言えば大丈夫だって」

「うん。ちゃんと後で謝る」


 凛恋が気を取り直してくれて、すぐに陳列棚を見渡して目的の物を手に取る。

 そして、凛恋がそれを三つ手に取ったのを見て、俺は眉をひそめて凛恋が持っている物にジッと視線を向ける。


「凛恋、一個にしなさい」


 お菓子を沢山手に持ってきた子供に言い聞かせるように言うと、凛恋は首を傾げてキョトンとした表情をする。


「え? 一個じゃ足りないでしょ?」

「…………三つ買おうか」


 凛恋の言葉にしばらく黙り込んで、俺は凛恋の言葉を認めた。すると、凛恋のキョトンとした表情がニヤーっとした表情になり、俺の顔に自分の顔を近付けてクスッと笑った。


「やーい、凡人のエッチ~」

「……すみませんでしたね~、エッチで」


 俺が凛恋の手から箱を取ろうとすると、サッと凛恋の手が俺の手を躱す。そして、腕を組んだ凛恋は俺の腕を引く。


「二人で使うんだし一緒に行こう。早くしないと萌夏も待ってるし!」


 ほのかに頬を赤く染める凛恋を横から見て笑いながら、凛恋に引かれるままレジカウンターまで歩いて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る