【六八《ずっと側に》】:一
【ずっと側に】
俺は、病院の待合室で両手の拳を握り締め、思い切り自分の腿に打ち下ろした。
「クソッ!」
「カズ、落ち着けないのは分かるけど、落ち着け。病院だぞ」
横で俺の背中を叩く栄次に言われても、俺の心に湧いた怒りは収まらなかった。
凛恋を家に送り届けた時、凛恋のスマートフォンにメールが届いた。
そのメールは差出人不明で、アドレスもフリーメールアドレスが使われていた。
それでそのメールの内容は……。『おかえり。凛恋』だった。
メールが届いたのは、凛恋を俺が送り届けた時、つまり凛恋が自宅に帰り着いた時だった。だから、そのメールは凛恋が帰ったのを確認して送られたことになる。
…………つまり、凛恋は誰かに監視されている。
凛恋はそのメールを見て、思い出してしまった。自分がストーカーに遭っていた時のことを。
それで……またパニックを起こしたのだ。
やっとだった。やっと……やっと凛恋が前みたいに笑えるようになったのに、その矢先だ。
「凛恋……凛恋……」
「希、凛恋さんは眠ってるから大丈夫だって言ってただろ? 希が泣いてたら、凛恋さんが目を覚ましたらビックリするぞ」
「栄次……なんで凛恋なの? 凛恋、何も悪いことしてないのに……なんで凛恋ばっかり……」
「希……」
泣きじゃくる希さんを、栄次は必死に励ます。
「栄次、ちょっと外で頭、冷やしてくる」
「ああ」
俺は立ち上がって、病院から真っ暗な外へ出る。夜風は冷たくて、体を急激に冷やしてくれる。
「くそっ、どうして凛恋が……」
玄関のひさしを支える太い柱に背中を付ける。
凛恋は今、病院で眠っている。凛恋には、凛恋のお父さん、お母さん、そして優愛ちゃんが付いている。
「優愛ちゃん?」
玄関の自動ドアが開く音が聞こえて視線を向けると、優愛ちゃんがよたよたと俺の方に歩いて来る。
その足取りが危なっかしく優愛ちゃんに近寄った瞬間、優愛ちゃんは崩れるように前へ倒れ込んだ。
「危ないッ!」
辛うじて優愛ちゃんの体を支えると、優愛ちゃんが俺の体をギュッと抱き締めて、俺の胸に額を付けた。
「もう……私は高校生だから」
「無理しなくていい」
「一番辛いのはお姉ちゃんだから……我慢し――」
「我慢しなくていい」
優愛ちゃんは、俺の背中に回した手をギュッと握ってシャツを掴み、俺の胸に顔を押さえ付けた。その押さえ付けた場所が、じんわりと熱くなる。
「お姉ちゃん、凡人さんと仲直り出来て喜んでて、一緒に旅行に行けるって舞い上がってて、前みたいに、昔のお姉ちゃんみたいに明るく笑ってくれるようになって、それが凄く嬉しくて……」
すすり泣く優愛ちゃんの頭を何度も何度も撫でながら、俺は唇を噛んだ。
「お姉ちゃんの身代わりになりたいですっ!」
「そんなこと、凛恋は望んでない。優愛ちゃんが身代わりになったら、凛恋はもっと辛くなる」
身代わりになるなら優愛ちゃんじゃない。
凛恋の身代わりには俺が――……いや、それも凛恋が喜ぶわけがない。
「凡人さんっ……凡人さんっ……」
「優愛ちゃん……」
優愛ちゃんを抱き締める右手はそのままで、俺は左腕で両目を強く擦った。
凛恋のスマートフォンに送り付けられたメールは、凛恋がパニックになった後も次から次へと送られて来た。
『今日の下着は白だったな』『凛恋は俺の女だ。他の男と話すな』そんなメールは可愛いもので、もっと薄気味悪いメールが何一〇〇通も送り付けられてきた。そして、それは全て違うメールアドレスからだった。
凛恋にメールを送り付けてきた人物は、何一〇〇種類ものメールアドレスを用意してメールを送って来た。
受信拒否を個別に出来るわけもなく、今は電源を切っている。
病院の駐車場に二台のパトカーが停まり、それぞれから男性と女性の制服警官が出てきた。そして、足早に病院の中に入っていく。
警察に通報したのは凛恋のお父さんだろう。それで、今から事情を聞かれるのだ。
凛恋と一緒に居た俺も話を聞かれるかもしれない。
「優愛ちゃん、中に戻ろう」
「はい…………」
ストーカーが前の男だとしても別の奴だとしても、早く犯人を捕まえるには情報が多い方が良いに決まっている。
今の俺に出来ることは、警察に聞かれたことに正しく答えること。何より、凛恋の側に居ることだ。
警察から、メールが送られて来た時の状況や、不審な人物を見なかったか聞かれた。
しかし、不審な人物を見ていない俺は、犯人に繋がるようなことは何も伝えられなかった。
俺は凛恋の病室に入れてもらい、凛恋の眠るベッドの側に椅子を置いてずっと凛恋の手を握っている。
今、凛恋のお父さんは凛恋のお母さんと優愛ちゃんを家に送っている。
栄次は希さんを送って帰った。凛恋の側に居るのは俺だけだ。
凛恋のお父さんには帰れと言われたが、俺は凛恋のお父さんが戻って来るまでの間、凛恋を一人にさせないためだと言って無理矢理残らせてもらった。
でも、俺は帰る気はなかった。
絶対に凛恋が目を覚ますまで一緒に居る。それに、絶対に凛恋が安心出来るまで凛恋の側を離れない。
もう二度と、凛恋を一人になんてさせない。
「凛恋……大丈夫、ずっと側に居るから」
凛恋の手は温かくて柔らかい。その温度と感触が、ちゃんとそこに凛恋が居るというのが確かめられて、心の底から安心出来た。
自分の側に凛恋が居ることと、自分が凛恋の側に居られることを。
「何やってんだよ……俺は……」
凛恋が悲しい思いを、怖い思いをしている時、俺は何も出来なかった。
ずっと凛恋と一緒に居たのに、凛恋にメールを送りそうな人間を誰一人見ていなかった。
凛恋を見ていて、周りを警戒することなんて考えてもいなかった。
「…………かず、と……?」
「凛恋…………。目が覚めたか?」
薄く目を開いた凛恋が、俺を見ていて柔らかく笑う。
「凄く怖い夢見ちゃった。スマホに変なメールが来る夢」
「凛恋…………落ち着いて聞いてくれ」
「あいつは警察に捕まったし、そもそも私のアドレスなんて知らないのにあり得ないわよね」
「凛恋…………ごめん。俺が付いてたのに……」
「そっか…………夢じゃ、ないんだ……」
「ごめん……」
両手で凛恋の手を握って、ただ謝ることしか出来なかった。
「凡人……泣かないで……」
凛恋が手で俺の目を拭ってくれる。その優しさが嬉しくて、気を遣わせたことが情けなかった。
「凡人……ギュってして」
ベッドに座る凛恋を抱き締めると、凛恋が強く抱き締め返してくれる。
凛恋の体が小刻みに震えているのが分かり、俺は必死に抱き締めて凛恋の震えを押さえようとする。
「凛恋っ……ごめんっ……俺が、俺がちゃんと凛恋を守らないといけな――」
「凡人っ、守って……」
凛恋が震える手で俺の頬に触れる。視線の先に居る凛恋の瞳からポロポロと涙が溢れる。
「かずと……こわいよ……」
「凛恋っ! 俺が側に居るからっ! ずっと側に居るっ! 凛恋がまた明るく笑えるまでずっと側に居る! だから……」
「ぜったい?」
「絶対に居る! 絶対に、ずっと……ずっと凛恋の側に居る!」
「よかった……かずとがいっしょなら……だいじょうぶ……」
睡眠導入剤の点滴がまた効き始めたのか、凛恋はゆっくり瞳を閉じて小さく寝息を立て始めた。
「なんで俺が守るって、安心させるって言ってやれないんだよ……俺は……」
ずっと一緒に居たのに、俺は何も出来なかったんだ。そんな俺が守るとか安心させるとか――。
「出来るか出来ないかじゃないだろ。やれよっ……」
眠っている凛恋の顔を横から見て、握った凛恋の手の甲を頬に当てる。
希さんが言っていた。何故、凛恋なのかと。本当に……本当にその通りだ。
何でこの世に沢山居る女性の中で、凛恋ばかり辛い目に遭わないといけないんだ。だからと言って、凛恋の代わりに他の誰かがストーカーに遭えばいいとは思わない。
でも……目の前の凛恋を見ると、やり切れない。
「凡人くん、ありがとう」
「凛恋の、お父さん……」
病室に入ってきた凛恋のお父さんが、後ろから俺の肩に手を置く。それは、凛恋の側に居られるタイムリミットでもあった。
「後は私が引き受けるから」
「……凛恋がさっき少し起きたんです」
「凛恋はどんな様子だった?」
「怖いって、言ってました……」
俺の言葉を聞いて、凛恋のお父さんが口を固く結んで俺の横に丸椅子を出して座る。
「……その時に言ったんです。絶対に凛恋の側に居るって約束したんです」
「今日は帰りなさい」
凛恋のお父さんの言葉は、俺に帰れと言っている。それは、もう時間が時間だからということだ。でも、俺はまだ帰る気なんてなかった。
「きっと……また凛恋が目を覚ました時、凡人くんが側に居てくれたら凛恋は安心すると思う。私が凛恋の側に居るよりずっと」
凛恋のお父さんは、凛恋の頭を優しく撫でる。
「凛恋が男を怖がるようになってから、こうやって頭を撫でるのも凛恋が寝た後にしか出来なくなった。…………本当に凛恋に傷を負わせたあの男が憎い。今でもあの男には数一〇万の罰金しか負わせてない。凛恋の悲しみが高々数一〇万で解決されたことに、本当にやり切れないよ。凛恋は本当に優しくて明るくて、私の自慢の娘で、本当に大切な娘だ。その凛恋の傷が金で解決されるなんて…………それに、また凛恋は同じ傷を受けた」
凛恋のお父さんは、凛恋の頭から手を離して口を覆い、肩を震わせながら俯いた。
「やっとだった。やっと凛恋が私にも笑って話してくれるようになった。私の目を見てくれるようになった。やっと日常を取り戻せるところだったんだ」
「すみません……俺がちゃんとしていなかったから……」
「凡人くんは謝る必要なんてない。私は、本当に凡人くんに感謝している。私は、凡人くんになら凛恋を任せられる。あの男から命懸けで凛恋を守ってくれた凡人くんになら」
「…………ありがとうございます」
凛恋のお父さんにそこまで信頼してもらっていたのに、俺は何も出来なかった……。
「明日……いや、もう今日か。今日のお昼に凡人くんの家に行って、凡人くんにしばらく家で暮らしてもらえないかお願いしてみる」
「良いんですか?」
「凛恋には凡人くんが必要だ」
「ありがとうございます」
俺は凛恋の側に居られることにホッと安心して、握った凛恋の手をギュッと握り締めた。
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