【六七《予行練習》】:二
「それを聞いた飼育員のおじさんが目をまん丸にして驚いて、仕事があるからって逃げちゃった。私は飼育員のクイズに正解した男の子を凄く物知りだなってビックリしたし、凄く凄く格好いいって思ったの。その時かな、初めて私がその男の子を好きだって気付いたのは」
筑摩さんは俺の方を見てニコッと微笑む。
「その男の子はね、多野凡人くんって言うの。それからずっと学校で会う度にドキドキして、家に帰ったら呼んだことないのに枕に向かって凡人くんって言ってみたり、後は理緒ちゃんって呼ばれること想像して顔真っ赤になるくらいドキドキしたりした。でも結局、好きですって言う勇気が出なくて、刻雨の中等部を受験した私は、凡人くんと中学が別れちゃった。それから、凡人くんと再会した時に好きになってもらうためにイメージを変えて可愛く見えるように頑張って、凡人くんに釣り合うために勉強も頑張った。でも、いつの間にかそういう純粋な気持ちが、すぐ目の前にある爽快感のために隠せるようになってた」
大きく息を吐いた筑摩さんは、何度か声を発しようとして口を開けるが、すぐにキュッと口を閉じて唇を噛むのを繰り返し、また大きく息を吸って吐いた後、やっと声を出した。
「高校一年の秋、もう私が酷く汚い女になって、その汚さにも私が慣れてしまった頃、私は刻雨高校の校門で凡人くんと再会したの。でも、凡人くんには彼女が居た。でもね、汚い私はすぐに思ったの。男子なんて単純なんだから、また奪っちゃえばいいやって」
そう言った後、筑摩さんは両手で顔を覆った。
「でもダメだった。凡人くんは私がどんなに話し掛けても見向きもしなかった。初めはどうしてって思ったの。男の子なら好きって言われたらすぐに私を好きになるでしょって、それがダメなら彼女に知られないようにこっそり家に連れて来て一回エッチすれば……でも、凡人くんは絶対に私の誘いは受けなかった。…………それでやっと気付いたの、私が汚いからだって。凡人くんは全然変わってなくて、もちろん背は高くなったし顔も大人っぽくなってた。でも、あの格好良くて大人な性格は何も変わってなかった。でも、私は純粋な気持ちを隠して汚いことが出来るように変わってた。だからだって思った。だから、私は見向きもされないんだって」
「俺は凛恋が好きだから、凛恋以外の女子とそういう仲になる気にはなりません」
「うん。でも、私には他にやり方が分からなかったから。ちゃんと人に好きになってもらうやり方なんて知らなかったから、女を使って気を引くしかないの」
そう言った筑摩さんは、ゆっくり胸元のリボンに手を伸ばす。
俺はその筑摩さんの手首を掴んで、リボンから遠ざけた後に離した。
「そんなことをしたって俺の気持ちは変わりません。筑摩さんが傷付くだけです」
「……凡人くんは優しい。ずっと……ずっと変わらないんだね」
ポトリポトリと涙を落とす筑摩さんは、スカートを握り締めて体を震わせた。
「悔しい……凡人くんの気を引くために思い付くことが全部汚くて。凡人くんの好きなことしていいよって……体で気を引くことしか思い付かなかった……思い、付けなくなってた。大切なのは気持ちなのに、気持ちを伝えるやり方が分からなくなってた」
「俺の友達に凄いヴァイオリニストが居ます」
「ヴァイオリ……ニスト?」
「はい、その友達に言われました。間違えたならまた弾き直せばいいって。先生がミスをしたならミスをする前以上の演奏をすればいいって。終止線まで諦めずに弾き続けろって。間違えたって気付いたなら、やり直せば良いんです。俺はそれで、また凛恋と付き合えるようになりました」
そして俺は筑摩さんの方に視線を向ける。
「それに、俺は変わってないなんてことはありませんよ。俺は物凄く変えてもらいました。俺の世界一大切な凛恋に」
俺は思い出し笑いをして、筑摩さんに笑顔を向けた。
「他人なんて人間なんてクソだって思ってた俺に、友達の大切さを教えてくれて、人を好きになることの素晴らしさを教えてくれたんです。だから、俺は変わってないなんてことはありません。俺は凛恋に変えてもらいました」
俺は立ち上がり、両手の拳を握って頭を下げた。
「本当にごめんなさい。俺は、筑摩さんが俺のことを好きだなんて嘘だと思ってました。でも、今の話を聞いて自分が間違ってました。筑摩さんは本当に俺のことを好きで居てくれた。それを、嘘だなんて思ってすみませんでした」
「凡人くん……」
「でも、その気持ちには応えません。応えるわけがありません。俺が好きな人は、世界でたった一人、八戸凛恋だけです」
「そっか……今まで、しつこくしてごめんね。でも、普通に友達としては話してくれると嬉しいな」
「友達としてなら大歓迎です。俺、友達が少ないんで」
俺がそう言うと、筑摩さんは涙を流しながらクスッと笑う。
「話、聞いてくれてありがとう」
「いえ、気持ちに応えられなくてごめんなさい」
「ううん、分かってたから。凡人くんはずっと……私が再会した時からずっと……八戸さんしか見てなかったから」
俺は頭を下げて生徒会室のドアを開けて後ろ手で閉じる。すると、ドアの脇に人の気配を感じた。
「凛恋!? 希さんも!?」
驚いて二人の名前を呼ぶと、凛恋と希さんは真っ赤な顔をして一緒に微笑んだ。
「凡人、ごめんってばー」
ベッドの上にうつ伏せで寝転び、俺は現実逃避をした。まさか、あの筑摩さんとの会話を聞かれていたとは思わなかった。
二人は、生徒会室に呼び出された俺のことが心配で来てくれたようだが、そのおかげかせいか、俺と筑摩さんの会話を全部聞いたらしい。
盗み聞きは良くないと怒る前に、羞恥心でそれどころの話じゃない。
「凡人ぉ~」
俺の背中を揺する凛恋に顔を向けると、凛恋がボッと顔を赤くする。その反応を見て、俺はまた枕に顔を埋めた。
「…………時間、巻き戻らないかな」
「巻き戻しちゃダメッ!」
ベッドにうつ伏せで寝る俺を、無理矢理ひっくり返した凛恋は、上から覆い被さって抱き締めてくれる。
「ダメだからね! ぜーったいに巻き戻したり忘れたりしちゃダメだからっ!」
「めちゃくちゃ恥ずかしいんだよ……」
「私はめちゃくちゃ嬉しいし!」
ギュッと締め付けて頬をピッタリ俺の頬に付ける凛恋は、更にギュッと抱き締める。
「私も世界でたった一人、凡人だけが好きだから」
「ああ」
「はぁ~……チョー悔しい」
「は?」
いきなり凛恋が落ち込んで、俺は間抜けな声を上げる。
「だって……筑摩の好き、本気だった。本気で、私が凡人と出会う前からずっと凡人のことを好きだった。筑摩に負けてる。凡人を好きな時間が、筑摩に何年も負けてる……」
「凛恋と俺にはこれから先があるだろ?」
「凡人……」
「これから先、俺は凛恋を好きになった誰よりも長く凛恋を好きで居続ける。出来れば一生、凛恋を好きで居続けたい」
「ちょっ、それってプロポーズ!?」
「あっ、そうなっちゃうのか。でも、俺は一生好きで居たいんだよな、凛恋のこと」
「…………私も、筑摩よりも他の凡人を好きになった誰よりも、凡人を好きで居る。私も、出来れば一生、凡人を好きで居続けたい」
「それって、逆プロポーズ?」
「じゃあ、プロポーズの予行練習ってことにしよ!」
「よく分からん」
俺がそう言うと、凛恋はプッと笑って、それから優しくキスをした。
「凄く凄く嬉しかった。私のこと好きって言ってくれて」
俺は凛恋の背中を自分に引っ張って唇を重ねる。そして、凛恋がジーっと俺の顔を見る。
「新婚初夜の予行練習もする?」
凛恋が真っ赤な顔をして言うのが面白くて、俺は凛恋の頭を撫でながらニッと笑う。
「大事だよな、予行練習は」
凛恋は歩きながら俺の腕を抱き、ニコニコ笑いながら俺の顔を横から覗き込む。
「あ・な・たっ!」
甘い声でそう言われてドキッとするが、ドキッとしたことを悟られないように平静を装う。
「なんだ?」
「あなた、手に汗を掻いてるから、ドキドキしてるのバレてますよ」
「くっ……」
「それに体も熱くなって心臓もドキドキしてますよ。あなた」
「ぐぅっ……」
凛恋に良いようにからかわれて悔しさが溢れる。しかし、俺はやり返すのを諦め、さり気なく腕を引いて凛恋の体を引き寄せる。
「早く夏休みにならないかな~」
「俺は夏期講習があるからな~。面倒だけど、他の人と差が開くことを考えると仕方が無い」
「私は夏期講習は行かないけど、その代わりに花嫁修業をしないと! 凡人のお昼のお弁当は毎日私が作るから!」
「そりゃあ嬉しいけど、大変だろ?」
「大丈夫! それに今から慣れておかないと……その! 将来、大変でしょ!?」
「恥ずかしいなら無理にやるなよ。顔真っ赤だぞ」
俺が笑いながら言うと、凛恋は自分の手で顔を仰ぎながらフゥーと長く息を吐く。
「凡人」
「どうした?」
「ずっと、ずっと一緒に居てね」
「もちろん、凛恋が嫌って言うまで一緒に居る」
「じゃあ、私と凡人は一生一緒ね! 私が嫌って言うわけないし!」
嬉しそうに笑った瞬間、シュンと俯く。
「家に着くの早い……」
「家に居る間はノーカンだろ」
「そうだ! 凡人が家の子になれば良いんだ!」
「随分ぶっ飛んだ解決方法だな」
玄関の前まで歩いて行き、凛恋が俺の顔を見上げ唇を尖らせて目を閉じる。
俺はその凛恋の可愛い唇に自分の唇を近付けようとした。
ブブッブブッ。
その何かが震える音が聞こえて、俺はさっと顔を引く。すると、目の前に物凄く可愛いふくれっ面の凛恋が居た。
「もー! どこのどいつよ! 最悪のタイミングでメールなんか送ってくるのは!」
荒々しい動きでポケットからスマートフォンを取り出し、激しく画面をタッチする凛恋の姿を微笑ましく見ていた。でも、その凛恋の指がピタリと止まる。
「凛恋?」
凛恋の様子を不審に思って声を掛けると、凛恋の手からスルッと滑り、スマートフォンが堅いタイルの上に落ちる。
「凛恋!? どうし――」
落ちたスマートフォンから凛恋に視線を戻すと、凛恋は自分の体を強く抱き締め体を激しく震わせていた。
そして、硬く冷たいタイルの上に崩れ落ちて叫んだ。
「い、ゃ……いや、いやいやっ、イヤァァァアアッ!」
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