【六三《間違いの終止線》】:一
【間違いの終止線】
生徒指導室の床に座り込む俺は、薄暗い部屋の中、天井を見上げて壁に背中を付ける。
「これ……訴えたら、俺……勝てるだろ」
顔は流石に殴られていないものの、制服の上から見ただけでは分からないような場所を踏み付けられたし、蹴り付けられた。それで、お得意の長尺定規でも殴られた。
さっきの説教で言うことがなくなったのか、ここに連れて来られてからは「この不良がッ!」だけしか怒鳴り文句はなかった。
昼休みはとうの昔に過ぎ、今は五時間目の終わりくらい。
いつもパン一つだとしても、流石に何も食べないと腹が減ってきた。
石川を殴り飛ばした俺は、ここに連れて来られて教育的指導を受け、それで教育的指導をしていた池水は緊急の職員会議に行った。
その職員会議は、きっと俺の件なのかもしれない。
「凡人?」
「…………なんで小鳥がここに居るんだよ。今、授業中だろうが」
外の様子を気にしながら生徒指導室に入ってきた小鳥に、俺は呆れた声を返す。
「これは八戸さんから、こっちは赤城さんから」
小鳥はドアをゆっくり閉めると、俺にソーセージパンと紙パックのミルクコーヒーを差し出した。
「八戸さんは凄く落ち込んでて、赤城さんは八戸さんから離れられないから」
「そうか」
「受け取ってよ。せっかく二人がくれたんだから」
小鳥は、俺の顔の前にソーセージパンとミルクコーヒーを差し出す。
顔の前でチラ付く二つが目障りになって、乱暴に受け取った。
「……サンキュ」
「それは僕じゃなくて八戸さんと赤城さんに言ってよ」
小鳥は俺の横に体育座りをして俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「いや、結構ボコボコにされたな」
「それ、他の先生に言ったら問題に出来るんじゃ――」
「黙っててくれ」
「なんで?」
「…………関係ない人が気に病むからだ」
俺は言葉を濁しながらソーセージパンの封を開けて噛み付く。
時間が経って汗を掻き、水分で柔らかくなっているがそれでも美味しかった。
ミルクコーヒーの方も時間が経ってぬるくなっているが美味しかった。
「凡人は優しいから女子にモテるんだね」
「何の話だ」
小鳥に視線は向けず言葉を返す。ニコニコ笑っている小鳥の顔が簡単に想像出来た。
「八戸さんと筑摩さんにモテモテじゃん」
「説教された後の俺をからかいに来たのか?」
「そんなことないよ。男としては、可愛い女の子からモテる凡人は羨ましいし」
ニコニコ笑う小鳥は、笑った顔から急に視線を落とした。
「石川くん、急に凡人に殴られたって言ってるみたい」
「間違ってないだろ。俺は石川を急に殴った」
「でも、八戸さんは石川くんにしつこくされて怖かったって言ってた。それに廊下に居た沢山の人が八戸さんの悲鳴を聞いてるし、石川くんが八戸さんの腕を掴んでたのも見てる。凡人はそれを見て、止めさせるために殴ったんだよね?」
「…………理由がなんであれ悪いことは悪い」
「確かに暴力は良くないことだよ。でも、大切な人を守ろうとして必死な時、良いことか悪いことかなんて判断出来ないよ。多分、大切な人を守ることで精一杯だから」
「俺は誰も守ってなんかいない」
「さっきだって守ったじゃん。凡人が池水先生に体罰を受けたって聞いたら、八戸さんが傷付くから言わないんでしょ? 八戸さんは、自分を守ろうとしてやってくれたことの結果で、大切な人が傷付いて平気な顔出来るような冷たい人じゃないし」
俺は食べ終わったソーセージパンの袋と飲み終わったミルクコーヒーの紙パックを握り潰す。
「凡人はさ、なんでそんなに素直じゃないの?」
「からかった後は馬鹿にするのか。小鳥って結構残酷なやつだな」
「はぐらかさないで」
キッと横から睨み付けられても、全く怖くはなかった。でも、表情に迫力は無くても、雰囲気に迫力があった。
日頃怒ることのない小鳥が、俺に対して怒っているのが分かった。
「好きなのになんで好きって言わないの!? 八戸さんのことが好きなのに、なんで遠回しに守ろうとするの!? 絶対、直接好きって言ってもらえたら八戸さんは嬉――」
「俺はもう、そんなこと言える立場じゃないんだよッ!」
両手を握り締めながら叫ぶ。
「俺は凛恋を傷付けたんだ! 取り返しが付かないくらいに傷付けた! そんな俺が言えるわけ無いだろッ!」
「立場なんて好きな気持ちに関係ないじゃんッ! 凡人は八戸さんが好きなんでしょ! それ以外に何が必要なの!? 誰かに、あなたは好きになって良いって言われないと人を好きになっちゃダメなの!? 好きな気持ちに権利も資格も何もいらないんだよ!」
「……好きな、気持ち」
「そうだよ! 立場とかじゃなくて、大事なのは凡人の気持ちだよ!」
肩を掴まれて揺すられる。
好きな気持ち。
俺はそれから目を背けていた。考えないようにしていた。口にしないようにしていた。でも、小鳥の言う通り、俺は凛恋が好きだ。
あの時、切山さんの家で凛恋に信じてもらえなかった時、本当にショックだった。でも、嫌いになれなかった。
ずっと好きなままだった。
辛くて悲しくて苦しくても、凛恋を嫌いだなんて思えなかった。
「そうか……露木先生が言ってたのは、これか……」
露木先生の言っていた、恋愛にとって大切なこと。それは好きな気持ちだったんだ。
年収で結婚相手を選んだり立場で距離を推し測ったりするんじゃなくて、相手が好きかどうかで全て決めるべきなのだ。
全ての、恋愛に関する行動の根拠は好きだけでいい。他に何か理由があっちゃいけない。
結局それは、気持ちの目を逸らすための囮でしかない。自分に嘘を吐く材料でしかない。
俺はワイシャツの胸元を握り締める。尋常じゃないくらいに胸が痛んだ。
自分で気付けなかった。自分で気付かなきゃいけないことを他人に気付かされた。
俺が凛恋を好きな気持ちなんて、誰かに指摘させて良いことじゃなかった。
でも……俺はそうしないと気付けなかった。
「やっぱり……俺は凛恋には相応しくない」
「どうしてッ!」
「他人から言われないと向き合えない気持ちなんて、伝えられない……」
「……凡人、ごめん」
小鳥が顔を俯かせて、本当に申し訳なさそうに謝る。でも悪いのは小鳥じゃない。
やっぱり、悪いのは全部俺なんだ。
「小鳥ッ! お前何してるッ!」
生徒指導室のドアが開き、中へ池水が入って来た瞬間に怒鳴り声を上げる。
「い、池水先生っ! こ、これは多野くんがお昼ご飯も食べてなくて――」
「俺が持って来させたんですよ」
「ああッ!? お前、問題起こしといて何言ってんだ! ゴラッ!」
胸ぐらを掴まれて放り投げられた俺は、出入り口の縁に肩をぶつけながら廊下に出る。そして、廊下の固い壁に後頭部を打ち付けた。
「イッツ……」
後頭部の痛みに耐えながらノロノロと起き上がろうとすると、腹に鈍い痛みを受けた。
「――カハッ!」
腹の痛みで短い息しか漏れなかった。
打ち付けた衝撃で揺れる頭に、五時間目終了のチャイムが聞こえる。でも、頭が揺れているせいか、そのチャイムの音も遠いし鈍い。
耳から池水が何か怒鳴っている音が聞こえてくる。でも、それが声として言葉として認識出来ない。でも、薄ぼやけた視界の中央で、今まさに足を上げて踏み付けようとしている池水のシルエットが見えた。
「凡人を傷付けないでッ!」
ふわりと温かい感触に包まれて、鼻先を甘い香りがくすぐる。
その香りは側に居ると安心する……俺の好きな人の香りだった。
「や、八戸!? そいつから離れろッ! そいつはクラスメイトを脅すような――」
「凡人はそんな人じゃないッ!」
凛恋が俺の体をギュッと抱き締め、キュッと目を閉じながら叫ぶ。そして、体を震わせながら何度も言い聞かせるように言葉を発していた。
「今度は凡人を私が守るから! 大丈夫だから、絶対に守るからっ! 大丈夫、絶対に私が凡人を守るっ!」
強面の中年小太り男が長尺定規を持って、怒鳴りながら男子を蹴っている。
そんな状況、普通の女子でも、いや普通の男子でも足がすくむ状況だ。でも、そんな状況で、男性恐怖症の凛恋が体を震わせながら、必死に俺を守ろうとしてくれている。
「池水先生ッ! 何してるんですかッ!」
悲鳴のような甲高い声を上げて、露木先生が俺、凛恋と池水の間に立つ。
「池水先生、来て下さい」
そして、その更に後ろから別の先生達も駆け付けてきて、男の先生が池水の腕を掴んで連れて行く。
「多野くんっ! 大丈夫!?」
「いや……まあ……頭が揺れるくらいで……」
「頭!? すぐに病院に行かないと駄目! すぐに誰かに車を出してもらうから待ってて」
「大丈――……」
俺が大丈夫と言う前に露木先生は走り出してしまい、俺は仕方なくその場で起き上がって待とうとする。
しかし、俺の体には凛恋が抱き付いていて上手く起き上がれない。
「凛恋、少し離れてく――」
凛恋に離れるように言おうとして、俺は言葉を止める。
「凡人を傷付けないで……」
五時間目と六時間目の間にある休み時間。
それにさっきの騒ぎが加わり、いつもより廊下に出ている生徒の数が多い。そして、その大半の生徒は俺と凛恋を見ている。
恥ずかしい気持ちが全くなかったわけじゃない。でも、必死に俺を守ってくれている凛恋を引き剥がすことは出来なかった。
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