【六三《間違いの終止線》】:二

 蹴られ長尺定規で叩かれ、それで突き飛ばされて頭を壁に打ち付けた俺は、全治三日の軽傷だった。

 頭の揺れも軽い脳震盪で、検査をしても特に異常は見られなかったらしい。


「多野、大事にならずに本当に良かった」

「ご迷惑をお掛けしました」


 病院まで連れて来てくれた男の先生に頭を下げると、男の先生は俺の後ろを見て苦笑いを浮かべた。


「本当は家まで送るつもりだったんだが……」


 振り返ると、露木先生、筑摩さん、小鳥、切山さん、希さん、栄次、そして凛恋が立っていた。


「凡人! 大丈夫!? 何ともない!?」

「小鳥、ここは病院だぞ。走るな。それと静かにしろ」

「ご、ごめん」

「俺に謝っても仕方ないんだけどな」


 真っ先に駆け出して来た小鳥を注意すると、男の先生が俺の肩に手を置いて歩いて行く。そして、露木先生と二言三言話して病院を出て行った。


「凡人、なんであんな嘘を……」

「あんな嘘?」

「僕にパンと飲み物を持って来させたなんて」

「なんでだろうな。あんまり深く考えてなかった」


 うるうると涙を目に浮かべる小鳥にそう答えると、今度は筑摩さんが歩いてくる。


「凡人くん、凄く心配した」

「心配させて、すみませんでした」

「生徒会として、ちゃんと学校側に抗議します。私としては、池水先生のことは絶対に許せない」

「まあ、あまり大事にならないようにしてくれると助かります」


 無難に筑摩さんへ受け答えする俺は、何故筑摩さんまで居るのかと考えていると、筑摩さんはニコッと笑った。


「じゃあ、また明日学校で」

「ああ、また明日」


 それだけ言って、筑摩さんは振り返り歩いて行く。

 そして、露木先生に挨拶をした後、一瞬凛恋に視線を向けて帰って行った。


「じゃあ、凡人、僕も帰るね」

「ああ、わざわざ来てくれてありがとう」

「えっ……」


 俺がお礼を言うと、小鳥は目をまん丸にして見開く。そして、満面の笑みを浮かべて深く頷いた。


「うん! どういたしまして! また明日!」

「ああ、また明日」


 手を振って歩いて行く小鳥を見送ると、今度は露木先生が歩いて来て深々と頭を下げた。


「本当にごめんなさい」

「……なんで露木先生が謝ってるんですか」

「私がちゃんとしていなかったから、今回の件を――」

「クラスに何人生徒が居ると思ってるんですか。その全員に気を配るなんて無理ですよ」

「でも……多野くんは怪我をして」

「この怪我は池水の――池水先生の――」

「もうあんな人、池水でいいよ。暴力を振るうなんて本当に最低」


 ムッとした表情で言う露木先生は、手の甲で目元を拭って煌めく瞳を俺に真っ直ぐ向けた。


「あのキモデブ中年。私の可愛い教え子を傷付けて、絶対に許さない」

「いいんですか? 上司をキモデブ中年なんて言って」

「良くないけど、多野くんは大丈夫。私の音楽友達だしね」


 ニコッと笑った露木先生は、後ろを振り返って四人を見詰める。そして、俺の方を振り返ってニヤッと笑った。


「赤城さんの彼氏さん、イケメンね」

「取ろうとしても無駄ですよ。あいつは希さん一筋ですから」

「まさか。私はもう少し身長が高い方がいいかな。あとはもう少し大人っぽい方が良いかも」

「まあ、そもそも一回りくらい年が離れてますからね」


 クスッと笑って話す露木先生は、軽くウインクをした。


「私はそれくらい年下でも大丈夫よ。好きな人ならね。さて、私も帰ろうかな。主に多野くんのためにね」

「ありがとうございます」

「じゃ、気を付けて帰って」

「はい」


 露木先生も帰って行き、俺は残った四人に歩いて近づいて行く。


「栄次、希さん、切山さん、心配を掛けてすまない」


 俺は三人に頭を下げ、下げたままもう一段深く頭を下げた。


「三人に話したいことがある。でも、三人よりも先に話をしたい人が居るんだ」

「…………分かった。栄次、萌夏ちゃん、帰ろう」

「うん」

「分かった」


 三人は何も聞かずにそう言って帰ってくれた。そして、俺は顔を上げて残った一人に視線を向ける。


「凛恋、この後少し時間あるか?」

「うん」


 凛恋は小さく頷いてそう答えてくれた。それを見てひとまずホッとして、俺は歩き出す。


「ついて来てほしい」




 街の大通りのような綺麗なアスファルトではなく、張石舗装の細い路地。

 舗装用の石には隙間が所々あり、そこからは緑色の雑草が執念深く葉を伸ばしている。そのちょっと古臭い路地の奥で俺は足を止める。


 この道は俺の自宅へ続く道、そして俺にとって大切な場所だ。


 後ろを振り返ると、俺について来ていた凛恋が不安そうな表情で俺の顔を見上げる。でも、俺自身も不安だった。

 背中には妙な汗を掻き、足は今にも震え出して崩れそう、喉は渇いて張り付き上手く言葉が出せない。

 今まで感じたことのない緊張で心臓は張り裂けそうだ。でも、俺は勇気を振り絞った。


「ずっと……ずっと好きでした! 俺と付き合って下さいっ!」


 夕暮れの細い路地。人気は無く、カラスや野良猫さえも彷徨いていないその静かな道に、俺の叫びが響く。

 発した瞬間、少しの安堵が出た。でも、これじゃ全然足りない。


「あの日……逸島が机に入れた、偽物の浮気の証拠を栄次の家で見た時、俺はすぐに偽物だって分かった。凛恋はあんな偽物の証拠みたいなことは絶対にしない。そう思ったし、あんな凛恋を貶めるような物はすぐに処分しないといけないって思った。でも、栄次の家から帰る途中、凛恋達に会った」


 視線を逸したくなる自分の弱さに対抗するように、俺は真っ直ぐ凛恋へ視線を固定する。

 凛恋は揺れる瞳を俺の瞳に真っ直ぐ向けてくれていた。


「溝辺さんに責められて、それを希さんと切山さんが庇ってくれて、でも二人には悪いけど、俺は二人に庇ってもらえなくても良かった。俺は、俺が好きな凛恋だけが庇ってくれればそれだけで良かった。でも凛恋は何も言わなかった。その時もショックだったし、後から俺を試したっていうのも聞いて、やっぱりショックだった」

「凡人……ごめ――」

「でも俺はそれでも好きだったんだ! 凛恋のことが好きだった……」


 凛恋の言葉を遮って俺は自分の言葉を続ける。


「もう誰も信じない。もう友達なんていらない。そう思い込んで、自分に言い聞かせても、ずっと俺の心には凛恋のことを好きな気持ちがあった。でも、凛恋のことを信じ切れなかった俺は、凛恋が俺を疑ったと信じた俺は、何もかもから全部顔を背けて逃げたんだ。そのせいで…………凛恋を傷付けてしまった」


 目が熱く熱を持ち、頬に熱い雫が幾つも伝い、雫は止めどない流れになった。


「凛恋から電話があった日、俺は友達に言われた。間違えたならやり直せって。間違えに気付いても最後まで諦めずに頑張れって。伝え方は遠回しだったけど、絶対にそう言ってくれた。それで、俺はやり直そうって決めた。でも、決めた直後に、凛恋から電話があった」


 俺の頭の中には、あの日の『凡人……助けて……』という言葉が再生される。そして、目の前に居る凛恋を抱き締めたい衝動に駆られて、俺はそれをグッと堪えた。


「俺の知らない間に……俺が周りから逃げてた間に……凛恋が傷付けられてた。全部俺のせいだって責めるしかなかった。そんなことしても何も解決しないのに、自分を責めて罪を償った気になる弱さしか俺にはなかった。本当に、ごめん」

「違う! 凡人は……私を助けてくれた。何度も、私を守ってくれた!」


 凛恋は激しく首を横に振って否定する。その凛恋の瞳からは雫が弾け散る。


「俺は、今でも全部俺が悪いと思ってる。絶対に、俺がずっと凛恋の側に居たら、凛恋に怖い思いも悲しい思いもさせなかった。俺はあの日から、凛恋に会うのが怖くなった。傷付けた張本人の俺が、どんな顔をして会えば良いのか分からなかった。凛恋を安心させたい気持ちはあった。でも、それを俺がしていいのか分からなかった。間違いをやり直すつもりだった。でも、やり直せないところまで俺と凛恋の溝が深まっているように思えて、やり直すなんて身の程知らずなことが言えるような状況じゃないって思ってた。全部……全部気にしてたのは俺のことばかりだ。俺の立場じゃ出来ない。そういう言い訳を作って、結局また逃げてるだけだった。そのくせ、コンビニの時も入江の時も、石川の時も、俺は全部無意識に行動してた。大した決心もせず……凛恋にやっちゃいけないこともした……」

「それは私が凡人に――」

「でも、俺は立場じゃないとか決心してないとか、言い訳ばかりでちゃんと見てなかった。凛恋を好きな自分のことを……」


 何を今更。そう言われても仕方ない。

 散々傷付けておいて虫が良すぎるとも思う。でも、もうそれから逸らすことも背けることもしない。


「俺は凛恋のことが好きだ。ずっと、ずっと好きなんだ。身の程知らずで今更で虫が良すぎて自分勝手で不誠実で、最低最悪のクズ人間だって分かっ――」


 凛恋の唇が、俺の言葉を遮った。


 甘い香りが漂い、強張った体の緊張を解く。そして、熱く絡み流れ込んでくる凛恋の優しさに、俺の心も解かれた。


「凡人のことを、身の程知らずとか虫が良すぎるとか自分勝手とか不誠実とか、最低最悪のクズ人間なんて言うのは許さない。たとえそれが凡人自身でも、絶対に許さない」


 凛恋は涙を流したまま俺の顔を見上げる。


「凡人、私も好き。ずっと……ずっと凡人だけが好き」

「凛恋…………俺と、付き合って下さい」

「うん……うんっ……嬉しい……凡人、凡人っ!」


 正面から抱き付く凛恋を、俺はグッと堪えていた衝動を解き放って抱き締めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る