【六二《悪い意味で大人》】:二

「自分の力で社会で生きていけないと、誰かに養ってもらわないといけないでしょ? そのための結婚」

「…………何か、女の人って嫌な生き物ですね」

「私もそう思う。自分じゃ生きられないから、他の人に養ってもらうっていうのは好きじゃない。けど、はっきり言うことも出来ないし」


 露木先生はまた深いため息を吐く。どうやら、俺には理解出来ない女社会の諸事情があるらしい。


「多野くんは結婚相手にするならどんな子がいい?」

「け、結婚相手ですか?」

「そう。言い方を変えると、この人なら養っても良いって子の条件」


 質問を被せられ、更に答え辛い質問になった。

 正直、高二の俺に結婚がどうのこうのなんて考えられる訳がない。


「そりゃあ……好きな人っていうのは最低限の条件ですよ」


 俺が渋々答えると、露木先生はニヤーっと笑った。


「多野くんって可愛いところあるんだね」

「失礼ですね」

「ごめんごめん。多野くんって良い意味でも悪い意味でも大人だと思ってたから」


 露木先生はからかうように笑った後、テーブルに肘を突いて俺の顔を見ながら話す。


「結婚ってなるとね、結構みんな現実的なの。どんなに格好良くて大好きな人でも、無職だったら大抵の子は結婚しない。フリーターでもダメだし、非正規雇用の人でもダメ。正社員じゃなきゃって子ばかり」

「まあ……結婚するなら収入は大切ですからね」

「うん。特に養ってもらおうって子は、正社員は絶対条件で、理想では相手の年収は六〇〇万くらい欲しいって子が多いかな」

「年収六〇〇万と言われてもピンと来ませんね」

「そっか、まあ高校生じゃ年収って言われてもピンとこないよね。未婚の男性で年収六〇〇万以上の人は、全体の四パーセントくらいらしいよ」

「四パーセント!? それって、めちゃくちゃ少ないじゃないですか」

「そう。だから、年収六〇〇万以上って全然現実的な額じゃないの。でもねー、養ってもらう上に苦労したくないから、みんなその四パーセントと結婚しようとするの」


 聞けば聞くほど、黒々とした女の裏の顔というものが見えてくる。


「その四パーセントのチャンスを掴むのに若いって武器になるの。だから、みんな早いうちに結婚したがる。社会に出て無価値な自分が、若さも無くなって女としても無価値になったらって考えちゃうみたい」

「……何か、なんとも答え辛い話ですね」


 露木先生の話したような女性の考え方は、かなり不誠実だと思う。でも、社会から無価値だと言われて、後がないと思ってしまうことも分かる気がする。

 それで、気が急いてしまうのかもしれない。


「多野くんもそんな子達と同じだと思うよ」

「えっ?」


 全く予想していなかった言葉に、俺はそう聞き返した。

 てっきり、ただの世間話なのかと思っていた。でもすぐに思い出す。

 露木先生は全然関係ない話をした後に、話をよく戻す人だったことを。


「本当は良い子なの。話した友達も多野くんも。でも、現実的になり過ぎて恋愛に関して大切なことを忘れてる。結婚と恋愛は違うって言う人も居るけど、恋愛の延長線上に結婚があると私は思ってるから、結婚と恋愛は切り離せないと思う」

「あの……俺は結婚はまだしな――」

「多野くんは恋愛にとって大切なことを忘れてる。だから、悩むんだよ。恋愛にとって大切なことを忘れてるから、現実的なことでしか判断出来なくなってるの。多分それは、多野くんが悪い意味で大人なせいだと思う。思ってるんじゃない? 別れた自分が八戸さんの家にお見舞いに行くのは間違ってるんじゃないかって」


 返答は出来なかった。ほぼバッチリと言い当てられたからだ。

 でもそれが、露木先生の言葉へ無言の肯定になる。


「俺が忘れてることって――」

「それは教えられないかな」


 ニコリと笑った露木先生が立ち上がり、俺も後に続いて立つ。

 先生と門の近くまで歩いて行くと、振り返った先生はまたニコリと笑った。


「じゃあ――」

「露木先生、送ります」

「大丈夫だよ。私も良い大人だし」

「女性を一人で歩かせると不安なんです」


 すぐに凛恋のことが頭に浮かぶ。俺が何もしなかったから、凛恋は辛い目に遭った。それと同じことがまた起こることを考えると、何もしないことは出来なかった。


「でも、二人だとまた変に思われるといけないし」

「三人なら……いい、ですよね?」


 その声に驚いて、露木先生と同時に声のした方を振り向く。すると、そこには、長袖シャツにタイトなロングパンツを穿いた凛恋が立っていた。

 視線を泳がせて周囲をキョロキョロと見る凛恋は不安そうだった。


「凛恋! なんでこんなところに居るんだよ! しかも一人でこんな時間に!」


 もうすっかり日が落ちて辺りは真っ暗になっている。

 そんな時間に女の子が一人で出歩くなんてあり得ない。


「だって……」


 シュンとして俯く凛恋は、視線を上げて露木先生の方を見る。視線を向けられた露木先生はニコッと笑みを返して俺に視線を向けた。


「多野くんは八戸さんをお家まで送ってあげて。じゃあね」

「露木先せ――……」


 露木先生は足早に歩き去ってしまい、俺は露木先生が歩いて行った道から、凛恋に視線を向ける。


「どうしてこんな時間に――」

「どうやったら、露木先生に勝てる?」

「は?」

「露木先生のことを好きになったから、毎日来るのを止めるんでしょ? だから……毎日、エッチするのも止めるんでしょ?」

「いや……露木先生はさっきたまたま会っただけだから、それに露木先生のことは好きじゃないって。嫌いってわけでもないけど」


 凛恋の言う好きは恋愛感情としての好きだ。

 そういう意味では、俺は露木先生のことを好きじゃない。でも、他の先生と比べると、露木先生は話しやすいし人としては嫌いじゃない。


「送っていく」

「凡人の部屋、行ってもいい?」

「ダメだ。もう真っ暗だろ、すぐに帰るんだ」


 いつ凛恋が俺の家まで来たかは分からない。でも、どれくらいかの間、凛恋はこの真っ暗な中ずっと外に居たということになる。

 そんなの危な過ぎる。


「凡人、手……繋いで良い?」

「ダメだ」


 もう無責任な行動は止めると決めたんだ。だから、無責任に凛恋を安心させるようなことは出来ない。

 どんなに、胸が締め付けられる思いがしても、俺が安心させるようなことをしてはいけない。


「ごめん……でも、手だけは繋いで…………」


 俺の答えに反して繋いだ凛恋の手は、意識を背けたくなるほど震えていた。

 ストーカー事件で怖い思いをした凛恋が、真っ暗な中一人で外に居たんだ、怖くないわけがない。


「凡人の手、あったかい」

「行こう」


 凛恋の言葉と手の感触から意識を背けて、俺は歩き出す。でも、繋いだ手を振り解く強さは出なかった。




 次の日、学校に行くと池水に呼び出された。理由は、深夜徘徊だ。


 昨日、凛恋を家まで送った後、家に帰り着くまでに二三時を過ぎてしまった。それで二三時を過ぎて外に居る俺を池水が目撃したらしい。


「深夜徘徊とは、成績が良いからと調子に乗ってるんじゃないか? ああっ!?」


 今日は生徒指導室ではなく職員室に呼び出された。だから長尺定規で叩かれることはない。

 その代わり、いつもより時間が長い気がする。


 昼休みの頭に呼び出された俺は、四五分間ある昼休みが三〇分経過してもまだ開放されない。

 つまり、俺は約三〇分ずっと説教されていることになる。


 目の前では椅子にふんぞり返りながら、コンビニ弁当の空容器を持った池水が、割り箸で俺を指しながらまだ怒鳴っている。

 ビックリするのは話の長さよりも弁当の数だ。


 池水は手に持っている空容器で弁当が二つ目だし、机にはまだデザートのプリンが載っている。

 俺はまだ何も食べてないのに、コンビニ弁当二つを食った挙げ句、池水はまだプリンを食うつもりらしい。


 この時間では、購買にはろくなパンは残っていない。

 いや……何かしらのパンが残っていれば良い方だ。だから、ほぼ昼飯は抜きと考えた方がいい。


「池水先生ッ! 生徒を呼び出すなら担任の私に言って下さい!」


 そう叫びながら、露木先生が職員室に駆け込んで来て俺の隣に並ぶ。

 誰かから俺が呼び出されたのを聞き付けたらしい。


「露木先生、こいつは深夜徘徊をしとったんですよ。深夜徘徊は不良行為。補導対象です」

「多野くんはうちのクラスの女子生徒を自宅まで送った帰りだったんです! その後に少し時間が過ぎてしまっただけでしょう! 正当な理由があれば――」

「その女子生徒の保護者に連絡して迎えに来てもらえれば良かったんですよ。何も知らん子供が格好なんて付けるからこうなるんです」


 確かに、池水の言う通りだ。あの時、凛恋の家に連絡して迎えに来てもらえばよかった。

 それをせずに深夜徘徊になるような時間に出歩いた俺が悪い。それと、それを池水に見られた俺の運も悪い。


「すみませんでした。以後気を付けます」

「悪いなんて思ってないだろっ! お前は態度で分かるんだよっ!」


 そりゃあ、昼飯抜きで立たされながら三〇分も説教され、それに加えて説教してる相手が椅子に座って弁当を食べながら話しているのだ。

 そんな状況で素直に聞けという方が無理な話だ。


「露木先生は多野に贔屓がちですからねー。席を外してもらえますか? コンサートのチケットを融通されて買収されてるようですし」

「あれは私が多野くんに、多野くんの友人にお願いしてもらっただけです!」

「他の先生と話していたでしょう。高いチケットなのに無償だったと。コンサートチケットは金券ですよ? それも問題だと思いますがねー」

「それは……」


 助けに来てくれた露木先生は、俺の隣で顔を俯かせて小さくなっている。でも、それを見ても頼りないとは思わなかった。庇おうとしてくれた気持ちが嬉しかった。


「とにかく、もう十分でしょう!」

「いいや、こいつには反省の色が全く見え――」

「止めてッ!」


 その叫び声が聞こえた瞬間、俺は池水の机を踏み付けて飛び越え、職員室の出入り口を乱暴に開けた。

 飛び出した廊下の景色が、スローモーションのように遅く見える。

 その見えている景色の中央に凛恋が居た。


 凛恋は、何度も凛恋のことで俺に突っ掛かって来た石川に腕を掴まれている。

 必死に振り解こうとしているが、石川は手を放そうとしない。


「イ――ッ!?」


 気が付いた時には、石川はそう途切れた悲鳴を上げて床に転がり、俺は右手の拳を握り締めて立ち尽くしていた。

 右手にはジンジンとした痛みがあり、自分が石川を殴ったというのが分かった。


 石川に腕を掴まれて悲鳴を上げる凛恋の姿に、ストーカー男に怯えてコンビニのバックヤードに座り込んでいた凛恋の姿が重なった。

 そして凛恋の腕を掴む石川が、ナイフを持って凛恋に近付くストーカー男に見えた。その瞬間、俺の意識は途切れて気が付いたら石川を殴った後だった。


「凡人……」

「り、こ……」


 凛恋は床に座り込み、震えた両手を持ち上げる。その凛恋の震える両手には、ソーセージパンが握られていた。


「凡人がいつも食べてるから……無くなる前に買っておかないといけないって思って……」


 俺は床に膝を突いて、ゆっくりと凛恋の手に右手を伸ばす。しかし、その手は凛恋に届かなかった。


「暴力行為の現行犯だッ! 生徒指導室まで来いッ!」


 襟を掴んで俺の体を引っ張る池水が、嬉しそうに笑いながらそう言う。そして、池水に引っ張られて俺の体は一気に凛恋から離れた。


「凡人ッ!」


 後ろから凛恋の叫び声が聞こえた。でも、俺は自分の甘さが出た右手の甲を左手でつねる。

 そのつねった痛みで右手に出た自分の弱さを隠した。

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