【五四《悪魔の天才》】:三

「露木先生……ニコロ・パガニーニって」

「うん。さっきのヴァイオリニストの前に弾いた高校生が弾いたラ・カンパネッラの基になった曲を作曲した作曲家」


 露木先生は誰も居ないステージを見詰めたまま話す。


「パガニーニもリストと同じように、ただの作曲家ではないの。リストは天才ピアニストだったけど、パガニーニは天才ヴァイオリニスト。でもただの天才じゃなかったの。その技術はその時代でも飛び抜けていて、あまりの技術の高さに、悪魔に魂を売った代償にヴァイオリンの演奏技術を得たとも噂されていたの。パガニーニの演奏の前に十字を切って演奏を聴く人が居るほど、パガニーニの演奏は常軌を逸していた。さっきの彼女が弾いたクワジ・プレストも、パガニーニの技術の高さがあってこその曲だった。でも、彼女はただ弾いているだけではなかった。私が聴いただけでは欠点が見付からない」


 露木先生がそう言って首を横に振る。つまり、さっきの男子高校生のレベルの高い演奏でも、曲が“弾けている”という感想だったが、ステラの演奏は“弾けている”だけじゃないということだ。


 音大に行って、沢山の天才に自信を砕かれた露木先生が欠点を探すことも出来ないほどの演奏。

 簡単に言えば、完璧な演奏だったのだ。


「さっきの彼女はただの天才じゃない。それこそパガニーニのように、悪魔的な技術の天才」


 そう言い終えた露木先生は、小さく息を吐きながら椅子の背もたれにもたれ掛かる。やっと周囲へ視線を向けられた俺は気付く。観客席に座る全ての人が、露木先生のように背もたれにもたれ掛かり、放心していた。




 会場を出ても、ついさっきまで聴いていた、ステラの演奏の余韻が抜けない。いや、余韻なんて淡いものじゃない。

 まるで、悪魔の呪いのように頭の中を何度もループする。印象に残るなんて軽いものじゃない。

 記憶に強く焼き付けられた。

 きっと、これから何年経っても今日の演奏を忘れるなんてことは出来ない。


「ラ・カンパネッラを聴いて完全に油断してた。流石、トリを務める子だった」


 トリは最も上手い人が務める。だから、演奏のプログラムを組む、クラシック音楽の演奏に十分な知識がある人が認識しているのだ。

 ステラが“弾けるだけでも凄い曲を弾けるピアニストよりも凄いヴァイオリニスト”だと。


「パガニーニの演奏は沢山の音楽家に影響を与えているの。歌曲の王と呼ばれているフランツ・ペーター・シューベルトは、パガニーニの演奏を聴くために家財道具を全部売り払って高いチケットを買ったと言われている。そして、リストはパガニーニの超絶技巧の演奏を聴いて、自分はピアニストのパガニーニに成ると決意してピアノの技術を磨いたそうなの。……今日の演奏は、自分がそのシューベルトやリストの立場に居るみたいだった。あんな衝撃、音大に居る時に感じなかった。でも良かった、私は彼女に学生時代に会わなくて」

「どうして、ですか?」


 その言葉が露木先生から出てきたことに不信感を抱く。でも、露木先生の表情を見てホッとした。

 露木先生は笑っていた。だから、その言葉がステラを否定するような言葉ではないと分かった。


「あんな演奏を見せられたら、私はピアノを辞めていたわ。あの演奏は天才にはとてつもない刺激になる。でも、ただの人間には自信を喪失させる演奏だった。まさに悪魔の演奏だった」


 露木先生は大きく息を吐いて空を見上げる。


「でも、楽しむ側としてはあれ以上の演奏なんてなかなか聴けないから、凄く得した気分。それにしても、あの子、多野くんしか見てなかったね」

「え?」


 俺が感じていたことと同じことを露木先生も感じていたようだった。でも、あれだけ俺の方だけを向いて弾いていれば、誰だって感じることだと思う。


「あの演奏を独り占めしてるなんて、多分あの会場に居る人達はみんな、多野くんに嫉妬したんじゃない?」


 会場を出てしばらく経っても、体に残った緊張感はまだ抜ける気配がない。

 今も、やっと足を動かして歩けている状況だ。少しでも気を抜けば、体に残った緊張感に負けて膝が崩れ落ちそう。


「あの、多野くん」

「はい?」


 俺は後ろから露木先生に声を掛けられて振り返る。振り返った先では、露木先生が笑顔で立っていた。でも、その笑顔は少し引き攣っていた。


「ちょっと、何処かで休憩しない? その……さっきの演奏で足が震えちゃって」


 恥ずかしそうに頬を赤くしてそう言う。それを見て、俺も引き攣った笑みを返して頷く。


「そうですね。少し休憩しないと、俺もまともに歩けそうにないんで」




 休み明け、もう通い慣れた通学路を通って刻雨の校門に近付くと、周囲に居る刻雨生の視線がやけに気になった。


 刻雨に転学した当初は転学生ということもあって、奇異の目に晒されていた。でも、日が経つに連れて、その視線も弱くなっていた。しかし、今日はその視線がまた強くなっている。


「多野」


 校門前に到達すると、校門の中央に立っている池水が両腕を組んで俺を睨む。身長は俺より低いが、小太りのおっさんである池水は十分な威圧感がある。

 その池水は、俺の顔を見て俺の名前を口にした。そしてその表情はどう見ても楽しそうな表情ではない。

 明らかに憤っている。


「ちょっと来い」


 その言葉は、俺が凛恋のバイト先に居る男とその友人達からボコボコにされた時と同じ言葉だった。

 でも、今回はこの前のような怒号ではない。静かに怒りの感情を抑えているような冷たい声だ。


 俺は歩き出した池水の後ろを付いていく。しかし、俺には池水に呼び出される覚えはなかった。

 この前のように喧嘩をした末の怪我をしているわけでもないし、何か校則違反になるようなことをしてもいない。


 前と同じように生徒指導室の前まで歩いてくる。

 先頭を歩いていた池水が無言でドアを開けて道を空ける。その行動が先に入れということだと判断して、俺も無言で中に入った。


「――ガッ!?」


 生徒指導室に足を踏み入れた瞬間だった。後ろから衝撃を受け俺は前に倒れ込む。

 堅い床に両手を突いて後ろを振り返ると、俺を踏み蹴りした体勢の池水が足を下ろし、生徒指導室に入り後ろ手でドアの内鍵を閉めた。


「……ってぇな。なにす――ッ!」


 呻き声さえ出せなかった。池水が履いているスリッパのつま先が鳩尾にめり込み、吐き気と痛みが同時に襲う。


「――ガハッ!」


 池水は、両手で鳩尾を押さえ痛みを和らげようとした俺の背中を蹴る。そして、事務机に置いてあった長尺定規を手にして振り下ろす。


「イギッ!」


 倒れ込んだ俺の左腕に鋭い激痛が走る。長尺定規の面が俺の二の腕を打ったのだ。

 ヒリヒリと痺れるような痛みに耐えるため、右手で打たれた左腕の二の腕を押さえ、指の爪を立ててその痛みで中和するようにする。

 しかし、その中和もすぐに無駄になる。


「アガッ! ギィッ! ガアッ!」


 生徒指導室に、弾くような高い殴打音が何度も響く。


「この犯罪者がッ! 人間のクズがッ! 死ねッ!」


 何度も振り下ろされる長尺定規を受けながら、俺は必死に痛みに耐える。痛みに耐えるのが精一杯で、声を上げることすら出来なくなった。


「池水先生! 緊急の職員会議があるそうです!」


 扉の向こうからその声が聞こえて、池水が振り上げた長尺定規が空中で止まる。後ろに見える鍵が閉まったドアを振り返った池水は、ドアの向こう側に低い声を掛ける。


「分かった。すぐに行く」


 そう言って、ドアの前から人が立ち去る足音を聞いて、池水は視線を俺に下ろした。


「運が良かったな」


 手にした事務机の上に長尺定規を放り投げ、池水はドアの内鍵を開けて出て行く。

 ドアが閉まるのを確認して、俺は上着のブレザーを脱ぎ、ワイシャツの袖ボタンを外して袖を捲る。

 長尺定規で叩かれた場所が赤くミミズ腫れになっていた。


「凡人ッ!」


 池水が出ていって少し経ってから、生徒指導室のドアが開いて中に凛恋が駆け込んできた。

 さっきドアの向こう側で池水に職員会議を知らせた声は凛恋だった。


「酷い……」


 凛恋は俺の横に膝を突いて、俺の二の腕に出来たミミズ腫れを見下ろす。

 俺は、その凛恋の視線から避けるように袖を戻して隠し、痛む体に鞭を打って立ち上がる。


「保健室行かないと!」

「いい。俺には関わらないでくれ」


 俺はそのまま立ち去ろうとする。でも、後ろから手首を掴まれて引っ張られた。俺の手を掴む凛恋は、真っ直ぐ俺の顔を見て言った。


「私のことは嫌いでもいいから、保健室には一緒に来て」


 その凛恋の言葉に、俺は視線を外して凛恋の手を振り払う。


「保健室なら一人で行ける。だから、俺には関わらないでくれ」




 保健室で手当をしてもらっている間、俺の後ろにはずっと凛恋が立っていた。


「酷いわね。誰がこんなことを」


 保健室の先生がミミズ腫れをした俺の腕を見て顔をしかめそう言う。

 消毒をされて傷口に消毒液が染みる痛みを感じながら視線を下に落とした。

 池水が俺のことを嫌っているのは分かるが、なんで今日は殴られたのか分からない。


「これで大丈夫よ」

「ありがとうございました」


 手当を終えて、保健室の先生にお礼を言って立ち上がる。


「ありがとうございました」


 俺が保健室のドアに近付くと、凛恋が保健室の先生にそう言って跡を付いてくる。


「凡人。凡人が露木先生と付き合ってるって噂が立ってる。だから……その……周りから嫌なこと言われると思うけど――」

「凛恋も変な噂の元に関わらない方が身のためだ」

「私は凡人の友達だから。今更だって思われても、私は凡人を信じる」


 今更だって分かってるなら言うなよ。一番信じてほしい時に信じなかったのによく言うよ。そんな言葉が頭をよぎる。

 しかし、そんなことを今更言っても仕方ない。ただ気分が悪くなるだけだ。


 露木先生と俺が付き合ってるなんて根も葉もない噂話だ。

 そもそも付き合っていると誤解されるようなことをした覚えも――。


 そこで俺は思い当たった。

 ステラの演奏会に参加した帰り、俺は先生とカフェに寄って休憩をした。

 あの時の場面を誰かが見ていたとしたら、そういう噂が立っても仕方が無いかも知れない。

 でも、こっちには何のやましい気持ちもないのだから、過剰に反応して噂を立てている奴等を楽しませるよりも、無視している方がいい。


 教室に行くと教卓の前に露木先生が立っていた。


「多野くん、もう誤解は解けたから。迷惑掛けてごめんね」

「いえ、先生の方は?」

「学年主任の先生に、軽率過ぎるって怒られちゃった。朝のホームルームを始めるから席について」


 ペロッと舌を出しておどけた露木先生は、表情を明るい笑顔のままそう言う。

 俺はそれに従い、自分の席まで歩いて行く。しかし、クラスの生徒から向けられる視線は、丸く収まったとは思えない鋭い目線だった。

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