【五五《不可侵領域の相対》】:一
【不可侵領域の相対】
放課後、俺は例の公園に来ていた。でも、いつもより大分早い時間に来たせいか、ステラの姿は無い。いや、ステラがここに必ず居る保証はないのだから、居なくても仕方がない。
露木先生との変な噂のせいで、俺に目立ったことをしてきたのは池水だけだった。でも、それは逆に良い効果をもたらしてくれた。
刻雨の生徒達が俺に距離を置くようになったことだ。
生徒間では、俺と凛恋が付き合っていて別れた話は広まっている。俺と凛恋が別れてから約三ヶ月経っている。その三ヶ月は決して長い期間ではない。
その時期に根も葉もない噂だとしても、誰かと付き合っているという噂はイメージが悪い。
そのせいで、周囲は俺と関わらないようにしてくれている。それは俺にとっては好都合だった。ただ、それでも俺に話し掛けてくる人間は居る。
小鳥、筑摩さん、希さん、それから凛恋だ。この四人だけは、懲りずに俺に関わろうとする。
四人も他の奴等と同じようになってくれれば、誰にも関わらないで済むのにそうはなってくれない。
露木先生は誤解は解けたなんて言っているが、それは露木先生が説明したことを聞いて聞いた側が、分かった納得したと言っただけに過ぎない。
実際、心の中でどう思っているかはそれでは分からない。
まあ、どっちにしても噂話なんて、また新しい噂話が出れば消えるものだ。だから、やっぱり放っておくのが一番だ。
ベンチに座って、まだ薄明るい空を見上げる。
「こんな時間に居るわけないか」
「誰を待っているの?」
「うわっ!?」
真横からその声が聞こえて、俺は驚いて声を上げる。
空を見上げていた顔をすぐに横へ向けると、制服姿のステラが相変わらずの無表情で俺をジッと見ていた。
「ステラ? なんでここに?」
ステラがこの公園に居るのはもっと暗くなってからだ。昼間ではないにしても、まだその時間には早過ぎる。
「公園の前を通ったら凡人が居たから」
「そっか」
ステラは手にヴァイオリンケースを持っている。
前に、この公園は自宅からヴァイオリンの先生の家を繋ぐ道の途中にあると言っていた。だから、今からヴァイオリンの先生の家に行ってヴァイオリンのレッスンを受けるところだったのだろう。
「凡人は何をしていたの?」
「俺? 俺は……」
そうステラに言われて、俺はとっさに言葉が出なかった。
俺は学校が終わって、自然とこの公園に足を進めていた。でも、それは何故だったのだろう?
この公園はステラがヴァイオリンの演奏をしている公園だから、多分俺はステラの演奏を聴きに来たのだろう。
でも、そうだと考えれば、ステラが居るはずのない時間に居ることはおかしい。
じゃあ、俺はどうしてここに居るんだろう。
「俺は……なんとなくかな」
結局、俺は適切な答えが見付からなくて、そう曖昧な言葉を返すことしか出来なかった。でも、ステラはそんな曖昧な言葉を聞いても不審そうな顔はせず、俺の隣にちょこんと腰掛ける。
「ステラは今からヴァイオリンの先生の家に行ってレッスンじゃないのか?」
「そう」
「時間は大丈夫なのか?」
動き出す気配のないステラに尋ねると、ステラは鞄に手を突っ込んで中からスマートフォンを取り出す。
そして、人差し指で画面をタッチして何かをし始めた。
『ステラ? どうしたの?』
どうやらステラは誰かに電話を掛けたようだ。しかも、その電話はスピーカーホンで掛けたようで、スマートフォンから女性の声が聞こえた。
「今日は休む」
『休む? 体調でも悪いの?』
「大丈夫。どこも悪くない」
『はあっ? じゃあ何で休むの?』
「休まなければいけない理由が出来た」
『ちょっと、やっと壁を超えられたのに――』
「そういうことだから」
ステラはそう言って電話を切ってしまう。そして、俺に視線を向けた。
「レッスンはなくなった」
「いや、なくなったんじゃなくて、今ステラが休んだんだろ……」
呆れた声を出しながら、思わず笑ってしまう。
ステラの行動は難解だが、なんだか見ていて危なっかしい。でも、そんなステラを見ているとホッとする。
ヴァイオリンを演奏している時は気軽に話し掛けられるような雰囲気ではないのに、演奏以外の時はそんな雰囲気は微塵も無い。
そのギャップのお陰で、ただの高校生でしかない俺も気軽に話し掛けられる。
「で? レッスンをずる休みしてどうする気なんだ?」
「ここでヴァイオリンを弾く」
ヴァイオリンのレッスンを休んですることがヴァイオリン。
なんともおかしな行動だが、それもステラがやるとなんだか納得出来てしまう。
「ステラ。この前の演奏会、凄かった。ステラの演奏が始まった瞬間、会場の空気が変わって。演奏が終わってもすぐにはみんな反応出来なかったし」
演奏会の後でステラと会うのは今日が初めてだ。
俺がステラの演奏について感想を言うと、ステラは開けようとしていたヴァイオリンケースから手を離し、俺の方に向き直って真っ直ぐ俺の目を見た。
「あの女は誰?」
「あの女?」
ジッと見詰められて何を言われるのかと思っていたら、ステラの口から出た言葉は予想もしていなかった言葉だ。
しかし、予想がしていなかった上にピンと来ない言葉で、俺はそのままオウム返しをするしかない。
俺からのオウム返しを受けて、ステラは表情を変えずに少しベンチの上を移動して俺に近付き距離を詰める。
そして、表情は特段変わった様子はないのに、なんとなく威圧感を受ける。
「私が弾いている時、凡人の隣に座っていた女」
「ああ、学校の先生だよ。なんか音大時代の友達が教えてる子が、あの演奏会に出てたらしいんだ。会場の前でばったり出くわしたんだ」
「でも、隣同士で並んで見ていた」
「最初は音大の友達のところに行ってたんだけど、一応俺は教え子だから気になって来たんだと思う」
ステラの質問に答えながら、なんでこんな言い訳みたいなことを話しているのだろうと思う。
俺と露木先生は言い訳をするような関係ではないし、そもそもステラは言い訳を言わないといけないような相手でもない。
「そう」
表情からは分からないが、ステラは納得してくれたようで頷く。しかし、頷いた後にヴァイオリンケースを開けることはせず、ずっと俺の方を見ている。
「ステラ?」
「演奏会、来てくれてありがとう」
「え? いや、こちらこそありがとう。あんな凄い演奏聴かせてもらって」
「凡人のために弾いた」
「そ、そっか、ありがとう」
ステラは冗談めかして言ったりからかったりする気配が全く無い。
だから素直に、ストレートに自分のために弾いたと言われると気恥ずかしい。
「一緒に居た先生にも言われたけど、俺の方を向いてたけど良かったのか? 演奏会とかって中央を向くものじゃないのか?」
「何故?」
「え? いや、何故って、演奏会とか発表会とか、ステージに立つ行事って普通はステージに立つと観客席の中央に向かって立つものだろ? 見に来てくれてる人達全員の方を向くのは難しいし」
「私は凡人のために弾いた。だから、凡人を見るのは当たり前」
「ありがとう」
ステラが当然のように言うことは、あの会場の中では異様だった。でも、ステラのその気持ちは嬉しかった。
ステラは何を考えているか分からない。でも、ステラに気持ちを偽っている様子は全く無い。
ただ、俺の認識がステラに追い付いていないだけで、ステラはずっと素直なのだ。
素直に、思ったことを言って思ったことを行動に移している。
「今日は何がいい?」
「そうだな~、じゃあ、ゆったり落ち着いた曲が良いかな」
ステラがヴァイオリンケースからヴァイオリンと弓を取り出して立ち上がり、俺に尋ねる。
それに俺はパッと思い付いたリクエストをした。そのリクエストを聞いて、ステラは俺の正面に立ちヴァイオリンを構える。
そして今日も、ステラは俺にヴァイオリンを弾いてくれた。
次の日の放課後、俺は今日もステラの居る公園へ行くつもりだった。でも、今日は行く時間を考えて時間を潰すことにした。
昨日はステラが気まぐれを起こしてヴァイオリンのレッスンを休んだ。
それが俺のためにしてくれたというわけではないだろうが、また今日も気まぐれを起こさせてヴァイオリンのレッスンを休ませるわけにはいかない。
今日は本屋に行って、日頃見ることのないクラシック音楽の本を見てみたが、書いている内容が専門用語だらけでよく分からなかった。
そもそも、俺は楽譜さえ読めない。だから、音楽の基本も出来ていない俺が、クラシック音楽の歴史なんて勉強するのはおかしすぎる。
まずは、音階を覚えるところから始めるのが普通だ。
本屋でクラシック音楽の本を読んでいた時間は短くて、結局、漫画やゲームの本を見て回ることで時間を潰した。
でも、本屋で潰せる時間にも限界があり、まだ少し公園へ行くには早い時間に本屋を出た。
「あと少し、何処で時間を潰そうか」
本屋を出ると、歩道を歩く人の波を端に立って避ける。ここから別の所に行くよりも、公園に行く途中に何処か少し寄る方がいいかもしれない。
「コンビニに寄って、何か差し入れでも買うか」
ステラには何回か演奏をしてもらっているが、俺はそのお礼に缶ジュース一本しかおごっていない。
ステラに差し入れを買うついでに時間も潰せるし一石二鳥だ。
ステラは楽譜も見ずに、しかも即興で演奏をしてくれる。
それは楽器なんて全く出来ない俺からしたらとんでもないことで、しかもステラの演奏は心を揺らす。
露木先生が演奏会終わりに言っていたが、天才を刺激させるような凄い演奏。それを気軽に聴けている俺はかなり贅沢な人間だ。
その演奏を聴かせてもらっているのに、ジュース一本だけというのは割に合わない。
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