【五四《悪魔の天才》】:二
「ここが会場の小ホールだね」
「露木先生はよくこのホールに来るんですか?」
「最近は来ないけど、高校までは通ってたピアノ教室の発表会とかコンクールとかで来てたかな」
俺は露木先生が踏み出す前に扉を開く。すると露木先生はハッと俺の顔を見てニコっと笑った。
「ありがとう」
「いえ」
お礼を言われることはしていないが、一応そう答えた。
露木先生が中に入るのを見てから、俺も続いて中に入る。
小ホールは小と付いているのに十分広く感じた。
「真弥」
出来るだけ響かないように抑えた声で、露木先生の名前を呼ぶ声が聞こえる。おそらく、露木先生が言っていた音大時代の友達だろう。
「多野くんも――」
「俺は向こうに行きます」
「そう。じゃあ、また後でね」
俺は露木先生と別れて反対側の離れた席に座る。周りにも人は居なくて落ち着くことが出来た。
会場に居るのは中年の女性が多く、おそらく演奏会に出演する子供の母親。もしかしたらこの中にステラの母親が居るかもしれない。
ステラの母親はスウェーデン人と言っていたが、俺が見渡した範囲ではスウェーデン人女性らしい人は見当たらない。
周囲に見える、演奏者の保護者らしき人達は、みんなスーツ等のフォーマルな服を着ている。
それを見たら、やっぱり場違いだったんじゃないかという後悔が出てきた。しかし、遠くで友達と話している露木先生はフォーマルな格好ではない。まあ、話している相手は当然スーツを着ているのだが。
しばらくボーッと座っていると、ステージに初老の男性が立って挨拶を始めた。どうやら、今回の演奏会を主催した人達の代表らしい。
名前は聞き取れなかったが、どこかの音楽教室の代表をしていると言っていた。
男性の長い話が終わると、演奏会が始まった。
最初は小学二年の女の子で、ガチガチに緊張した様子でステージの中央に歩いて来て頭を下げる。そして、顔を上げた瞬間、パッと明るい笑顔を見せた。
女の子の視線の先では、壮年の男女が揃って手を振っている。どうやら女の子の両親らしい。
両親の姿を見てホッとしたのか、女の子は体の固さが大分抜けた動きでグランドピアノの椅子に座る。
椅子に座って二回深呼吸をした女の子は、ゆっくり鍵盤の上に両手を置いて演奏を始めた。
紹介ではモーツァルトのピアノソナタ一一番第三楽章という曲で、曲名は全く聞いたことはなかったが、曲を聴いた瞬間、俺にも聴いたことのある曲だと分かった。
随分昔に、それこそ小学生時代くらいの音楽の授業で習ったはずの、トルコ行進曲だった。しかし、緊張しているのか、女の子の弾くトルコ行進曲は軽快なリズムではなく、物凄くたどたどしい足取りで歩いている。でも、それが凄く良かった。
一生懸命、鍵盤を叩いている女の子の姿は、凄く頑張っているのが伝わってきて、たとえ演奏がたどたどしくても、本来の楽譜通りではないリズムでも、それが女の子の味のある演奏で応援したくなった。
小学二年生だから、年齢は七歳か八歳。
俺よりも一〇歳くらい離れているのに、あの子は沢山の人が見守るステージに一人で立っている。もし、俺だったらあの場所で演奏するなんて出来ない。
あの場所に立つだけでも胃が締め付けられるはずだ。
演奏が終了した瞬間、俺はハッと驚いた。演奏が終わった瞬間、女の子は明るい表情で笑ったのだ。
それは緊張から解き放たれた安堵感からというよりも、弾き終えた達成感からの笑顔に見えた。
露木先生はこの演奏会に掛かる費用を話していた時、リハーサルをしていると言っていた。でも、演奏の練習はそれよりも前に、何ヶ月も掛けてやるものに決まっている。
その何ヶ月も一生懸命練習した成果がここで出せたのだ。それは、あの子にとってとても嬉しかったに違いない。
演奏を終えた女の子がまたステージの中央に出てきて、観客席に向かって深々とおじぎをする。それに、俺は自然と拍手を送っていた。
やっぱり、人が演奏するのを生で見るのは違う。音質なんて分からない俺でも、演奏者の気持ちが伝わってくる。
その後も、ピアノの演奏者が入れ替わり色んな曲を演奏した。知っている曲もあれば、もちろん知らない曲もあった。
でも、どんな曲が演奏されても、見える演奏者の気持ちは全員違った。
高二の男子がピアノの演奏を終えて、深々と頭を下げる。
その男子を見送り、やっぱり演奏順は上手い人が後になるように組まれているのだと分かる。そして、最後から二番目の男子は、演奏前の演奏者紹介で、何かのコンクールで金賞を受賞したと言っていた。
その男子の演奏は壮絶だった。
でも、その壮絶さはステラの演奏で感じた圧倒的なエネルギー量と同じものではなかった。
心を揺すられるとか、そういう感情的な話じゃない。単に、技術の問題だ。
素人の俺が見ても、高二男子の演奏は異常だった。休む間もなく手の動きと指の動きが複雑だったその演奏は、単純に演奏技術が高いと分かった。
「俺と……同い年かよ……あれで」
思わずそう呟いてしまう。
あの男子は、幼い頃から毎日毎日ピアノ漬けの日々を送ってきたに違いない。
対して俺は、ただ毎日を後ろ向きに歩いて来ただけだ。その一七年の人生の差を、目の前で見せ付けられた。
「ああいう子が、本当の意味で天才っていうんだろうね」
「露木先生……」
いつの間にか俺の隣に露木先生が座っていて、ステージ上で観客のスタンディングオベーションに応える男子に拍手を送っていた。
「彼が演奏したのは、フランツ・リストという作曲家が、ニコロ・パガニーニの二四の奇想曲とヴァイオリン協奏曲第二番という作品を基に編曲した作品の一曲。パガニーニによる超絶技巧練習曲第三番変イ短調、ラ・カンパネッラ」
「あの人、凄いですね……」
「うん。とんでもない。彼の弾いたラ・カンパネッラはプロのピアニストでも避けるくらい技術的に難しいの。パガニーニのものから編曲をしたリストは作曲家としてだけじゃなくて、ピアニストとしても天才だった。ううん、当時はピアノの魔術師なんて呼ばれるくらい異常なピアニストだったらしいの。リストは初めて見た曲はどんな曲でも弾きこなせたらしいわ。それで、彼の弾いたラ・カンパネッラはそんな天才ピアニストのリストにしか弾きこなせない曲だと言われているの」
「じゃあ、あの男子の演奏でも?」
「ええ、多分、芸術性を考えたらリストの足下にも及ばない。でも、確かに人には得意な曲、不得意な曲があるけど、ラ・カンパネッラを弾けるだけでも十分異常だと思う。もちろん、私じゃ譜面を追い掛けるのも無理ね。指の動きが追い付かない」
弾けるだけでも凄い曲。それを芸術性も踏まえて完璧に弾きこなせていたというリストという人物はどれだけ凄いのだろう。俺では想像さえも出来ない。
「ああいうのを見ると、思い出しちゃうんだよね」
「思い出す?」
「うん、音大時代のことを、ね」
そう言った露木先生は苦い顔をする。
それは、小鳥に「ピアノ上手いですよね」と言われた時と同じ顔だった。
「私、これでも地方のコンクールで金賞を取るくらいピアノが得意だったの。当時は私がこの地域で一番ピアノが上手かった。でもね……それが高校を卒業して音大に入った瞬間違ったの」
先生はステージを見詰めたまま、力なく笑った。
「私みたいな人なんてね、世の中には沢山居たの。私レベルの演奏なんて、音大に行ったら誰だって出来てた。ううん、むしろ私は下手な方だった。上手い人はもっともっと上手かった。そんな下手な私が見上げる先には、あの彼みたいに、本物の天才のような人達が何人も居て、その天才達が必死にライバルと自分と戦ってた。それを見てね、自信を無くしちゃったんだ。自分のピアノに」
「……でも」
「音大の課程は他の四年制大学と同じで四年あってね。二年の時に教職課程か演奏に専念するか選べるの。で、その上に居る天才達が一心不乱に演奏を続ける中、私は教職課程を選んだの。ピアノで天才達に勝てる気がしなくて、逃げちゃった」
クスッと笑う露木先生は膝に肘を突いて、手の上に顎を載せる。
「でもね、後悔はしてないの。学校の先生って楽しいから。多野くんみたいに音楽の話が出来る生徒も持てたし」
「俺は、なんか付け焼き刃でさえもないですけどね」
「でも、普通の高校生の男の子はクラシック音楽の話なんてしないから、凄く嬉しいんだ。私の持ってる技術とか知識が、多野くんの……生徒の役に立ててるって実感出来るし。それは、ピアノをやりながら教職課程を取ってなかったら得られなかったことだから」
そう言った露木先生は、俺の持っていた紙を覗き込み、ステラの名前に指を差した。
「多野くんがクラシック音楽に興味を持ったきっかけはこの子だよね? 今回の演奏者の中で唯一のヴァイオリニスト」
「はい。公園で弾いているのをたまたま聴いて。それで話すようになって、今日の演奏会に来てくれって言われて」
俺がそう言うと、会場がシンと静かになった。その雰囲気に俺は言葉を止めてステージに視線を向ける。
ステージ袖から、初めて会った時と同じ真っ白のワンピースを着たステラが歩いてくる。
ステラはヴァイオリンと弓を手にして、自然体でステージの中央に立つ。
さっきの男子も、ステラと同じように緊張で堅くなってはいない。さっきの男子もステラも緊張を感じていないわけではないだろうが、いわゆる適度な緊張感程度だと思う。
ステージ中央に立ったステラは、首を動かして何かを探すように会場を見渡す。
「ん?」
ステージ上のステラの視線がこちらに向いた瞬間、ステラは顔の向きを止める。そして、正面を向いていた体を俺の方向に向ける。
それは演奏会としてはかなり異様な光景だった。
ピアノの演奏では、ピアノの向きがあるから正面を向くことは出来ない。
だから正面を向いていなくても仕方ないが、ステラの演奏するヴァイオリンは正面を向いて演奏することが出来る。
演奏会に限らず、ステージに立つ時は普通、正面を見る。でも、ステラは客席の右端に座っている俺の方を向いている。
観客席に座る人達も、そのステラの姿勢に違和感を抱いているのか、静かではあるものの少し動揺の声が聞こえる。
『桜咲女子高等学校一年、神之木ステラさん。演奏曲はニコロ・パガニーニ作曲、二四の奇想曲第二四曲、クワジ・プレストです』
ニコロ・パガニーニ。その名前を聞いて、俺は思わず声を出そうとしてグッと堪えた。
ニコロ・パガニーニという名前は、ついさっき露木先生から聞いたばかりだった。
ステラが顎と肩でヴァイオリンを挟み、左手の弓を構える。そして、ステラが弾き始めた瞬間、会場の空気が一変した。
ステラの奏でる音だけが響き、そのステラの奏でるヴァイオリンの音色だけが会場に流れる。
尋常じゃない緊張感が観客席に張り詰める。
ステージで演奏しているステラは優雅に軽快に演奏を続けているが、その演奏を自らが音を出して邪魔してしまう恐怖で、指一本さえも動かせない。
緊迫感の中、ステラの演奏が目まぐるしく変わる。激しく右腕を振って弓を動かしたり、流れるように滑らかに弓を動かしたり、その変化に目ではついて行けても心は全くついて行けない。
でも、その目まぐるしい変化でも、ステラの演奏で奏でられる音色は綺麗に澄んでいて乱れない。そして、その変化でもずっと、会場の張り詰めた緊張感は緩まなかった。
ステラは演奏を続けながら、視線をずっと俺に向けている。
他の観客にも、自分の手にしているヴァイオリンにさえも向けず、絶対に俺から視線を逸らそうとしない。
『私の演奏を聴いて』
ステラの視線を受けているだけなのに、そうステラに訴えられているような錯覚を抱く。
でも、そう訴えられなくても、逸らせるわけがない。それは、俺だけではなく、この会場に居る全員がそうだった。
ステージで演奏するステラの存在感が圧倒的過ぎて、この会場の誰もがステラ以外に意識を向けられない。
時間にして五分。そのたった五分の演奏が、会場全てを飲み込み、そして魅了した。
ステラの演奏が終わった瞬間、会場が静寂に包まれる。そして、ステラが俺から目を離してステージの袖へ向かって淡々と歩いて行く姿を見て、やっと会場のどこからか拍手が鳴り始める。
その鳴り始めた拍手で我に返り、俺も拍手をする。
俺と同じように拍手をし始めた人達が増え、会場全体に盛大な拍手が鳴り響く。しかし、その拍手が鳴り響いている時には、既にステラの姿はステージになかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます