【五四《悪魔の天才》】:一
【悪魔の天才】
昼食の時間、目の前でニコニコ笑う小鳥が、弁当を広げながら俺を見ている。
「いつもここで食べてるんだね」
「明日からはここでは食べない」
「ええッ! 何でッ!?」
「俺は一人でゆっくり食べたいからだ」
正面に座った小鳥から視線を逸らすように、俺は右を向いて視線をアルミ製の柵に向ける。
やっと人が居なくて落ち着ける場所を見つけたと思ったのにこれだ。
俺が居るのは管理棟の最上階と教室棟の最上階を繋ぐ渡り廊下。
そこで座り込んで昼飯のソーセージパンを食べようとしたら、小鳥が笑顔で駆け寄ってきて「一緒にお昼を食べよう」と言い出し、俺の一切の許可も得ずに弁当を広げ始めたのだ。
「何で凡人は僕を避けるの?」
「俺は小鳥だけじゃなくて、等しく全ての人間を避けている」
「それはダメだよ」
俺の言葉に、小鳥ではない別の人が答える。その声は俺の後ろから聞こえて、俺が後ろを振り返ると、そこには露木先生が立っていた。
「多野くん、小鳥くん。こんなところで食べたら行儀が悪いよ」
「ご、ごめんなさい」
「すみませんでした」
小鳥は慌てて弁当を片付け始める。俺はそれを横目に見ながら立ち上がり、フェンスにもたれ掛かりながら口を開けてパンにかぶり付こうとする。しかし、俺の手の中からパンが略奪された。
「立ちながら食べるのもダメだよ」
「日本には立ち食いそばという文化が――」
俺のパンを奪った露木先生にそう言いながら、露木先生が持っているパンに手を伸ばす。しかし、ヒョイっと手を躱される。
「とにかく、ちゃんと座って食べよう。そうだ、良かったら音楽準備室で一緒に食べない?」
「良いんですか?」
小鳥は嬉しそうに言い、俺の方に視線を向ける。俺に同意を求めているようだが、俺はそもそも小鳥や露木先生に限らず、誰かと昼飯を食べる気はない。
「俺、別の場所に――ッ!?」
「はいはい。多野くんも三人で仲良くお昼を食べようね」
「ちょっ、先生。生徒の意思に反して行動を強制して良いんですか?」
「良いの良いの。多野くんはそんなことで怒るような人じゃないから」
露木先生にそう言われながら腕を掴まれて引っ張られ、管理棟最上階最奥にある音楽室、の準備室に引っ張り込まれた。
「はい。二人の椅子」
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます……」
「多野くん、元気ないね。大丈夫?」
「いえ、ちょっとした気疲れが原因です」
椅子に座り、やっと返してもらえたパンにかじり付く。俺がパンを噛み砕いていると、小鳥はまた弁当を広げ始める。
露木先生はカバンの中からコンビニの袋を取り出す。
おにぎり二つにサラダが一つ。そして、ちょっとお高いプリンが一個出て来た。
「もしかして、先生は料理出来ないんだー、なんて思ってる?」
「いえ」
「でも、実際出来ないんだ。実家暮らしだとお母さんが全部やってくれるし」
あははと笑う露木先生を見て、料理が出来る人のことが頭をよぎり、俺はすぐにそれを消し去った。
「いただきます!」
小鳥が手を合わせて挨拶をすると、それを見て露木先生がニコッと微笑んだ。
「小鳥くんのはお母さんの手作り?」
「はい!」
小鳥はニコニコ笑いながら、箸で卵焼きを掴んで口に放り込む。
露木先生はサラダをプラスチックのフォークで食べながら、俺の手元を見る。
「多野くん、もしかして毎日惣菜パン?」
「はい」
「良くないよ。成長期なんだから、栄養のあるものを食べないと」
「朝と夜はちゃんと食べてるんで大丈夫です」
俺は一足早くパンを食べ終え、椅子から腰を浮かせて音楽準備室から出て行こうとする。だが、俺の方を露木先生が見てニッコリ笑った。
この笑みはどうやら「座っていろ」ということらしい。
大人の圧力に屈して再び腰を椅子に下ろすと、小鳥が露木先生と俺を交互に見て俯く。そして、顔を赤くした。
その小鳥の反応を見ていた露木先生は、首を傾げて小鳥に尋ねる。
「小鳥くん、どうしたの?」
「えっと……その……」
小鳥は言い辛そうに視線を泳がせて、チラッと視線を俺に向けた後、口にした。
「あの……凡人と露木先生……凄く仲が良いなと思って……」
小鳥が小さく言ったその言葉に、露木先生はニコッと優しい笑みを浮かべる。俺の方はため息を吐いて静観することにした。
「多野くんとはこの前、クラシック音楽の話をして仲良くなったの。多野くんがクラシック音楽を聴くなんて知らなかったからビックリしちゃった。小鳥くんはクラシック音楽は聴く?」
「いえ、僕は全然です。でも、凡人は凄いね。クラシック音楽を聴いてるなんて!」
一瞬、話を全く聞いていなかったことを装ってスルーしようとしたが、正面から大人のプレッシャーを感じ、小さく悟られないように息を吐きながら答える。
「知り合いがヴァイオリンをやってて、それでたまたま曲名を教えてもらって気になっただけだ。俺も日常的にクラシック音楽を聴いているわけじゃない」
「そっか! その知り合いさんはヴァイオリンが弾けるなんて凄いねー」
単純に感動した様子で満面の笑みを浮かべる。
その笑顔は、小鳥が女子の格好をしていたら、九割くらいの男が勘違いして惚れてしまいそうな笑顔だ。だが、今の俺には心底その笑顔が重く感じる。
「じゃあ、序奏とロンド・カプリチオーソはその人が教えてくれたんだね」
「まあ」
「女の子?」
「そうですけど」
「多野くんも隅に置けないね」
ニコニコと話す露木先生はおにぎりの包装を開けて小さく噛み付く。
「あ、そういえば」
俺はふと、この前ステラが弾いてくれた曲のことを思い出した。
圧倒的なエネルギー量をぶつけられたあの怒濤の演奏。それを思い出してまた胸に感動の熱が蘇ってくる。
「この前は、ヴィットーリオ・モンティって人のチャールダーシュっていう曲を聴かせてもらいました」
「モンティのチャールダーシュか~。その人、本格的に長くヴァイオリンをやっているのね」
「やっぱり、技術的には難しい曲なんですか?」
「うん、技術的には上級者向けの曲」
俺が『技術的に』という言葉を使ったところでクスッと笑った露木先生は、自分の言葉にも強調するように同じ言葉を使う。
そして、もう一口おにぎりを食べると、露木先生は俺にニコッと笑顔を向けた。
「チャールダーシュを聴いてどう感じた?」
「そうですね……圧倒的でした。弾いている知り合いの勢いっていうか、エネルギー量が凄くて。曲も一曲の間に何回も変化して、最初は優雅に踊っていたのに、そう思っていたらいきなり激しいステップを踏んで……あっ、実際に踊ってたわけじゃなくて、弓を動かす手を含めた体の動きとか、あとやっぱり曲調とかが踊っているように聞こえて」
俺の感想を聞いた露木先生は驚いたように目を見開く。でもすぐにニコニコ笑顔に戻った。
「チャールダーシュはモンティの作曲した楽曲の曲名にもなっているけど、元々はハンガリー語で酒場の意味がある言葉で、ハンガリーのダンス音楽から派生したジャンルのことなの。だから、多野くんが感じた踊っているようなって感想は間違ってない」
露木先生は手に持っていたおにぎりを食べきり、次のおにぎりの包装を開けながら嬉しそうにはにかんだ。
「チャールダーシュは楽しい曲だよね。私も頑張って練習したんだ~。最初は手が追い付かなくて」
「あの曲、ピアノで弾くと大変そうですね」
チャールダーシュのテンポの速い部分はステラも激しく体を動かして演奏していた。それを見ていると、ピアノで弾く時もかなり手を速く動かさなくてはいけないというのは想像出来る。
「先生はピアノ上手いですよね!」
弁当を食べ終えた小鳥が無邪気な笑顔でそう言う。しかし、その言葉に、露木先生は一瞬だけ苦い笑みを浮かべた。
「ありがとう、小鳥くん」
一瞬だけ見えた苦い笑みは、すぐに朗らかなニコニコ笑顔に戻る。でも、露木先生の苦い笑みは凄く印象に残った。
週末の朝、ステラに招待された発表会の会場に向かった俺は、その会場の外観を見て立ち尽くす。
そこは、地域でも有名な音楽ホールだった。
よくテレビのCMで有名なアーティストや、それこそオーケストラが来て演奏会が開かれる場所。つまり、本格的な上にでかい。
外観は落ち着いた赤煉瓦のタイル張りで、入り口に見えるガラスの扉もピカピカに磨き上げられていた。
俺はその会場になっている建物を見て立ち尽くし、自分の格好を見る。
俺はジーパンにTシャツ、かろうじてジャケットは着ているものの、フォーマルっぽく見えるだけで本当の意味でフォーマルな格好じゃない。
気楽に考えていたが、もしかしたらちゃんとした格好で来なければいけなかったのではないだろうか?
「多野くん?」
俺が冷や汗を掻きながら足を踏み出せずに居ると、後ろから聞き覚えのある声を掛けられる。振り返るとそこには、胸の横で小さく手を振るニコニコ笑顔の露木先生が居た。
ピンクのタイトめの長袖シャツに、爽やかなアイスブルーのタイトスカート。足下はシャツと同じピンクのパンプスを履いている。そして、キャラメル色のショルダーバッグを左肩に掛けていた。
その姿は、いかにも大人の女性という雰囲気だ。
「露木先生、なんでこんなところに」
「それは私の台詞だよ。もしかして、多野くんもここである発表会に?」
「はい、この前話したヴァイオリンを弾く知り合いに招待されて」
「そうなんだ」
パッと明るい笑みを浮かべた露木先生は、俺の隣に並んで小さく首を傾げる。
「なんで入らないの?」
「いや……結構大きなところだから、ちゃんとした格好が良かったのかと思って」
俺がそう言うと、露木先生はプッと小さく吹き出した。そして、手を横に振って否定する。
「そんな格式張った演奏会じゃないから大丈夫だよ」
「そういえば先生はどうしてここに?」
「私? 私は音大時代の友達が教えてる子が演奏するって言うから」
「そうなんですか」
露木先生が前に出て歩き出しながら、俺の方を振り返る。
「ほら、中に入ろう」
「は、はい」
この状況だと、このまま一緒に演奏会を鑑賞することになりそうだ。だが、先生に会わなければ、入り口前で立ち往生していただろうし、結果的には出会えて良かったのかも知れない。
でも、先生のあのグイグイ引っ張られる感じが、記憶の中にある人と似ていて、目を背けたくなった。
館内に入ると、冷たいというか澄んだ独特の空気が鼻を通る。
露木先生はここに何度も来たことがあるのか、迷わず館内の通路を歩いて行く。
その露木先生の後ろに付いていきながら、俺は手に持った紙を見詰める。
紙に書かれているスケジュールを見ると、演奏会は二時間半あるようで、ステラの出番まではかなり時間がある。
下は小学二年生から上は四〇代までと、出演する人の年齢層は幅広い。
「先生、この出演者が小二から四〇代って珍しくはないんですか?」
「うん、音楽教室が開いている発表会だと色んな人が居るよ。それに、今回は複数の教室の合同演奏会だしね」
「そうなんですか」
「一つの教室だけだと生徒数が少なくてこの規模のホールは使えないからね」
「ああ、大きなホールを使うのに一曲二曲じゃ格好付きませんしね」
俺が納得したように答えると、露木先生は人差し指を立てて横に振りながら、舌をチッチッチッと鳴らす。
「それもだけど、ホールの使用料の問題があるからね」
クスッと笑った露木先生は、歩きながら指を折って話し始める。
「まずホールの使用料だけど、午前中の早い時間は安いから三時間確保で一万円。それからグランドピアノの使用料が海外製だと一万円。ピアノの調律代が別途掛かって安くて二万。あとは、会場の椅子とか照明とか、スピーカーとかの使用料も掛かる。それに、本番だけじゃなくてリハーサルもしたって言ってたから、全部合わせると一五万くらいかな~」
「一五万……」
ただの高校二年の俺からしたらとんでもない額だ。
「だから、色んな教室で協力して費用を出し合って演奏をするの。でも、今回は入場料を取ってないから安く済んでるんだよ。入場料を取ったら、設備の使用料が上がるのが普通だから」
一五万でも安く済んでいることに驚く。でも、そうなると露木先生が言ったように、複数の音楽教室が合同でやらなければ、演奏会なんてそんな簡単に開ける催しじゃない。
「本当はもっと費用が安くなれば、演奏会がやりやすくなって良いんだけどね。やっぱり、教室で練習してるだけじゃなくて、沢山の人の前で演奏を披露するのは上達するためにも必要なことだし」
「やっぱり、人前で弾くのとは違うんですか?」
「全然違うよ。もちろんホールだと音の響き方も違うんだけど、一番違うのは緊張感かな。広いホールのステージで沢山の人の前に立つって凄く緊張するの。そういう緊張感を経験してないでいきなりコンクールのステージなんか立ったら、緊張で体が固まって演奏なんて出来ないし。まあ、世の中にはいきなりステージに立たされても平気な人も居るんだけど」
先生の言葉を聞いて、ステラはどうなのだろうと考える。しかし、考えてすぐに答えは出た。ステラは間違いなく後者の人間だと。
あのマイペースというか独特な性格のステラが緊張しているなんてところは想像出来ない。
きっと、平気な顔をして演奏をして、平然とステージをはけるだろう。
露木先生と一緒に歩くと、壁に『小ホール』という文字と矢印の書かれた看板を見付け、その看板に書かれている矢印に従って通路を更に進む。
すると、曲がり角を曲がってすぐの場所に両開きの扉があった。
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