【五三《心の揺れ》】:二

 次の日の放課後、昨日と同じ時間に公園に行くと、昨日と同じセーラー服姿のステラがちょこんとベンチに座って待っていた。


「ステラ、ごめん待たせたみたいで」

「そんなに待っていない」


 ベンチから立ち上がったステラは、手でベンチを指して座るように促す。

 ステラはヴァイオリンケースから自分のヴァイオリンを取り出して、右手に持った弓でヴァイオリンの音色を確かめるように音を奏でる。

 そして、俺の真正面に居るステラは俺に視線を向けた後、すっと目を瞑った。


「うわぁ……」


 思わず、その感嘆の声を漏らしてしまい、俺は慌てて口を手で押さえる。


 曲の冒頭から、壮大な雰囲気の音が押し寄せて、ステラが一人で弾いているのに、まるで何一〇人分もの音が重なっているような錯覚を覚える。しかし、その壮大な雰囲気はすぐに一変する。


 激しい弓の動きで発せられた勢いのある強い音色は収まり、今度はステラの持つ弓が長く滑らかに動き、優雅な雰囲気の音色が響く。

 滑らかに優雅に、ステラはヴァイオリンを演奏しているのに、まるでヴァイオリンと一緒に踊っているように見えた。


 優しく瞑った目で滑らかに体を揺らし、体全体が音と一緒に緩やかに動く。しかし、優雅なだけでなく、ステップを踏むようにキュッキュッと弓を動かし、弾むような音を奏でる。その音にも、ステラの体は弾むように乗る。


 めちゃくちゃ格好良い!

 そう身を乗り出した俺は、完全に油断し切っていた。

 その油断で、俺は更なる変化に呼吸を止めた。


「――ッ!?」


 優雅に音を奏でていたステラの動きが劇的に変化した。


 優雅に踊っていたステラの右手が、激しく小刻みに音を奏でる。

 優雅の中にあった弾むようなステップじゃない。踊っていたステラの右手が駆け出した。


 ゆったりした動きから激しい動きに変わり、俺は怒涛の如く追い掛けてくる音に追われているように感じた。

 その後はもう、息をすることが出来ない変化の再演だった。


 優雅さから、消え入るようなか細い音へ。それで途切れるかと思えば、また激しく俺の心を追い詰めるような勢いを取り戻す。


 激しい音の流れが緩み曲のフィナーレを迎えた時、俺が膝に置いていた手は、ダラリと体の両脇に垂れ下がった。


 俺はその両手を胸の前まで持ち上げて見る。俺の手は、小刻みに震えていた。

 ステラの圧巻の演奏に、俺の精神が耐え切れなかったのだ。

 それくらいのエネルギー量をぶつけられた、とんでもない演奏だった。


「はぁはぁ……どう、だった?」


 演奏を終えたステラが、息を上げながら俺に問う。でも、俺の答えはすぐに出た。


「ごめん……言葉が出ない。言葉が出ないくらい、凄かった……」


 情けなかった。もっとちゃんと、言葉の限りを尽くして感動を伝えたかった。でも、ど素人の俺ではステラの演奏の凄さを伝えられる適切な言葉が見付からない。

 どんな言葉を使っても、何度重ねても、俺ではステラの演奏を陳腐な言葉でしか表現出来ない気がした。

 でも、それをしてしまうことが失礼で、それをしてしまうのが恐ろしくて、そんなことをしてしまうくらいなら言葉を重ねない。ということしか出来なかった。


「凡人がここに来た価値はあった?」

「価値があったなんてものじゃない! ネクター、六本くらい飲むか? いや……一〇本? いやいや、それでも足りないぞ」


 立ち上がり、焦って、俺がそう言葉を重ねていると、目の前で小さな笑い声が響く。

 そのクスッという笑い声に視線を上げると、ずっと無表情だったステラが小さく微笑んでいた。


「じゃあ、一本だけおごってくれる?」




 ベンチに座り、隣でネクターをコクコクと飲むステラに視線を向ける。そして、ステラに悟られないようにさり気なく胸に左手を置いた。


 さっきの演奏で上がった鼓動がまだ収まらない。

 その鼓動を必死に押さえながら、俺は不安になった。

 ステラは、今日もこの公園に俺を来させるためにあの演奏をした。

 しかし、あの演奏の凄さを考えると、ただ俺が公園に来るというだけでは釣り合わない。


「凡人」

「は、はいっ!」


 色んな意味でドキドキしていた俺は、ステラに急に声を掛けられて飛び上がる。しかし、ステラはそんな俺の様子に首を少し傾げたものの、カバンから一枚の紙を取り出して、俺に差し出した。


「合同音楽発表会開催のご案内?」


 ピンク地の紙に、ピアノやヴァイオリン、それから八分音符のイラストがちりばめられた紙の、一番上に書かれている太文字を読み上げる。

 読み上げた通り、合同音楽発表会の開催を案内する紙らしい。いや、それは見た瞬間に分かったが、何故それをステラが俺に手渡したのかはよく分からない。


「その発表会で、私はヴァイオリンを弾く」

「おお、確かにステラの名前がある。しかも最後ってことは、トリだよな?」


 音楽の発表会なんて行ったことはないが、最後に演奏する人はトリと呼ばれることは知っている。それで、大抵の場合、トリは一番上手い人が務めるものだ。

 ということは、ステラはこの発表会に出演する中で一番上手いということになる。


「凄いな。やっぱり、素人の俺の目じゃなくて、プロの目から見てもステラは上手いんだな~」

「その発表会、凡人に来てほしい」

「発表会に? 俺が?」


 俺は人差し指で自分を指さし首を傾げる。


 音楽の発表会というのは、多分出演者の家族や親しい友人が行くものだ。だが、俺とステラは会って数日で、親しい友人ではなく少し話す顔見知り程度の関係でしかない。

 それに俺は音楽のおの字も知らない完璧なド素人である。ド素人加減は完全無欠と言ってもいい。

 そんな、ステラの親しい友人なわけでも、音楽に対して造詣が深いわけでもない俺が行っていいものなのだろうか、という不安が浮かぶ。


 ステラは、綺麗なブラウンの瞳を潤ませて、クイッと首を傾げる。


「嫌?」

「いやっ! 嫌ってわけじゃなくて、俺はステラと最近知り合ったばかりだし、それに音楽にそんなに詳しいわけじゃないし、そういう俺がこういう場にノコノコ行ってもいいものかと思っ――」

「私は凡人に来てほしい。来て、凡人に聴いてほしい」


 潤んでいても、真っ直ぐ真剣に向けられた目を向けられ、その目を向けられて断るなんてことは出来なかった。


「分かった。俺で良かったら喜んで行かせてもらうよ」

「良かった」


 一瞬目を閉じてホッとした様子を見せたステラは、ヴァイオリンケースを手にしてゆっくりと立ち上がる。


「そういえば、さっきの曲はなんていう曲なんだ?」


 俺に背中を向けて歩き出したステラに、俺は曲名を聞いていなかったことを思い出して尋ねる。

 それにステラはクルリと振り返り、ヴァイオリンケースを両手に持って微笑んだ。


「ヴィットーリオ・モンティ作曲の、チャールダーシュ」

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