【五三《心の揺れ》】:一
【心の揺れ】
いつも通り、放課後は時間を潰すためにある。今日も例に漏れず俺は放課後、外をフラついて時間を潰していた。しかし、ゲームショップも毎日行くと飽きてくる。
毎日新しいゲームが出るわけでもないからだ。
それで、何処へ行こうか迷いながら歩いていると、レンタルショップが目に入った。
このレンタルショップはDVDだけではなく、CDのレンタルもしている店で、急に頭に『サンサーンスのロンドカプリチオーソ』という言葉が思い浮かんだ。
「違う違う。え~っと……そうそう、シャルル・カミーユ・サン=サーンス。作品二八、序奏とロンド・カプリチオーソ、イ短調。だった」
ノートを鞄から取り出して開き、そのノートに女の子らしい文字で書かれた曲名を読み上げる。
今朝、この曲を露木先生が弾いてくれたが、やっぱりピアノとヴァイオリンの違いなのか、何となく違う曲に聴こえた。
もう一度、あの神之木さんが演奏していた曲を聴きたくて、俺はレンタルショップの中に入る。
店内には同じ刻雨の生徒もちらほら居て、俺は明るい音楽が流れる店内を歩く。
「クラシック音楽のCDは何処だ?」
DVDのコーナーからCDのコーナーに移動し、クラシック音楽のコーナーを探す。
CDコーナーの一番奥にあったクラシック音楽のコーナーに行くと、俺はさっき見た楽曲名と同じCDを探す。暫く探すと、露木先生が人気と言っていただけあって、序奏とロンド・カプリチオーソだけでも数種類のCDがあった。
とりあえず、ヴァイオリンと書かれているCDを手に取る。
レンタル用のCDを試聴出来る機械に行き、CDを機械に入れてヘッドホンを付ける。
「あれ?」
ヘッドホンから聴こえる音楽は神之木さんが弾いていた曲と同じメロディーではあった。でも、全く心が揺れなかった。
CDになるくらいだから、プロの演奏家が演奏しているのだと思う。でもあの時の、昨日の夜の感動は少しもなかった。
CDを棚に戻してレンタルショップを出る。外は日が落ちて空はすっかり暗くなっていた。
レンタルショップを出て歩き始めると、既に耳にさっきの音は残っていなかった。いや、CDの音は聴き終った後の余韻は無かった。
やっぱり生演奏と録音の違いなんだろうか?
神之木さんの演奏を聴いた時ほどの衝撃はなかったが、露木先生の演奏も心に直接聴こえてきて、心が綺麗になっていくのを感じた。
人の演奏を直接見るのは初めてじゃない。
小学校の頃は、音楽鑑賞会みたいな行事があって、いくつかの楽団の演奏を見たことはある。
でも、その時は曲名を調べたり、感動を覚えたりはしなかった。でも、神之木さんの演奏は違った。
もしかしたら、年齢を重ねて感性が変わったのかもしれない。
昔は食べられなかったゴーヤが、大人になれば食べられるようになった。という味覚の変化の話もよく聞く。
だから、俺の感性にも同じような変化があったとしてもおかしくはない。
「今日も行けば……」
ふとそう思う。でもその可能性は低い。
昨日話した神之木さんは、掴みどころのない人だった。何を考えているか分からないし、多分気分屋な感じがした。
昨日も、あの公園で演奏していたのは演奏したかったからと言っていた。ということは、やっぱり気分屋な人なのだろう。昨日も思ったが、そんな人が今日もあの場所に居るとは思えない。
昨日と同じようにブロック塀を左手に見ながら歩道を歩く。昨日は当てもなく歩いていたが、今日は淡い目的を持って歩く。
期待はしない。ただ、暇だから確認ついでに前を通るだけ。そう頭で思いながら足を進める。
歩いていると左手に見えていたブロック塀が交差点で途切れ、その交差点を挟んだ向こう側に、金網フェンスと、フェンスと一緒に周囲を囲むように植えられた樹木が見える。
横断歩道を渡って少し歩くと、公園の出入り口が見えてくる。その出入り口から中に入ると、街灯に照らされた石製のベンチが遠くに見えた。
そして、その上には今度は、セーラー服姿の神之木さんが立っていた。
「居た……」
神之木さんは、昨日と同じようにベンチの上に立ち、ヴァイオリンを構えている。
「やっぱり……違う」
昨日と同じ、序奏とロンド・カプリチオーソ。昨日と同じように綺麗な音で、俺はまたその音に吸い寄せられる。
公園の中に入り、水場には目もくれず、真っ直ぐ神之木さんの元に歩いて行く。
ヴァイオリンの音色にグッと胸を掴まれて引き寄せられ、昨日と同じように神之木さんの近くに立つ。すると、神之木さんは演奏を終え、上から俺を見下ろした。
「曲名は?」
「シャルル・カミーユ・サン=サーンス。作品二八、序奏とロンド・カプリチオーソ、イ短調」
「覚えているとは思わなかった」
言葉は驚いているのに、神之木さんの声も表情も全く驚いていない。
神之木さんはヴァイオリンをケースに仕舞い、スカートが捲れないように手を当てながらベンチに座る。
そして、昨日と同じように自分の隣を俺に手で指した。
「今日も神之木さんが居るとは思わなかった」
「…………」
神之木さんはベンチに座って俺の方に視線を向けたまま、真っ直ぐ俺の目を黙って見詰める。
「神之木さん?」
「…………」
「神之木さ~ん」
「…………」
神之木さんに手を振りながら声を掛けても反応は同じ。
視線を向けられたまま無視するという、斬新な行動を取る神之木さんの様子を窺うと、神之木さんはやっと口を開いた。
「昨日の約束を忘れたの?」
「約束? 約束……約束……約そ――あっ!」
約束、という言葉を口に出して思考を巡らせる。そして四回目の約束を口にしていた途中、俺は自分で言った昨日の言葉を思い出した。
『分かった。じゃあ、次からはちゃんと名前で呼ぶよ』
昨日、神之木さんは俺を名前で呼ぶのに、俺が神之木さんを名字で呼ぶことはおかしい、そう神之木さんに言われたのだった。
それで、次に会った時は名前で呼ぶと俺が言ったのだった。
「ごめん、ステラさん」
「さん、はいらない」
「じゃあ、ステラで」
「それでいい」
笑顔を返して言うと、ステラは無表情のままコクリと頷く。
「今日もここで演奏してたんだね」
「今日もここで弾きたい気分だった」
「そうなんだ。ここって、通学路の途中とか?」
「いいえ。ヴァイオリンの先生の家と私の家を繋ぐ道の途中」
「なるほど、じゃあステラはヴァイオリンの練習をした帰りなんだ」
「そう」
「そういえば、喉とか渇いてない? 汗、凄く掻いてるけど?」
ステラはさっきまで演奏をしていたせいで汗を掻いている。それに少し昨日より声が詰まっている気がする。
ステラはジーッと俺の顔を見て、相変わらずの無表情で答える。
「少し渇いた」
「じゃあ、あの自販機で何か飲もう。俺がおごるからさ」
「……何で?」
「えっ?」
「何で、凡人が私に飲み物をおごるの?」
首を傾げられて尋ねられる。聞かれて、女の子にお金を出させるのが気になるから。と言っても、また「何で気になるの?」と聞き返されてしまいそうだ。
「えーっと……ほら! コンサートとか聴くとチケットを買うだろ? その代わりにジュース」
言った後に少し後悔した。ステラの演奏の対価にジュース一本ということは、ステラの演奏の価値は一〇〇円程度と言ってしまうようなものだ。
それはかなり失礼なことだった。しかし、ステラはまた首を傾げる。
「私はプロのヴァイオリニストではない。だから、私の演奏はお金を取るような演奏ではない」
「いや、本当はジュースでも足りないんだけど、これは気持ちだから」
「…………分かった」
もしかしたら、心の中でジュースを飲みたいという欲求と、自分の演奏で対価を貰っていいのかという疑問が戦っていたのかもしれない。でも、それはジュースへの欲求が買ったようだ。
自動販売機の前に行ってお金を入れ、ステラに前を譲る。するとステラは迷うことなく桃のネクターのボタンを押した。
自動販売機の取り出し口からネクターの缶を取ったステラは、俺の方をジッと見詰める。
俺はステラの視線を感じながら缶コーヒーを買い、お釣りを取ってベンチに戻る。
「いただきます」
礼儀正しくそう言ったステラは、缶を開けて両手でチビチビとネクターを飲み始めた。
「今日、ここに来る前に、序奏とロンド・カプリチオーソのCDを聴いてきたんだけど、ステラの演奏と全然違うんだよな~。やっぱり、録音と生演奏じゃあ違うのかな?」
「どう違った?」
「うーん、俺は芸術性とか全く分からないんだけど、CDの音は心が揺れなかったんだ」
「心が、揺れなかった?」
「そう、震えるとも言うんだと思うんだけど、同じ曲のはずなのに、ステラの方は感ど――うわっ!」
俺が曖昧な説明を続けていたら、ステラの顔がすぐ近くにあり、それに気付いて驚いた声を上げながら体を引く。
ジーッと俺を見ていたステラは、急にヴァイオリンケースから仕舞ったヴァイオリンを取り出し、今度はベンチの前に立って構える。そして、視線を俺に向けたまま、演奏を始めた。
間近で聴くステラの演奏は、とんでもない迫力だった。
音は優雅に優しく流れるせせらぎのようなのに、俺の心に流れてくるのは、流れの速い急流のような勢いが強い何か。その何かに、一気に心を持って行かれる。
俺のちっぽけな心が、ステラの演奏に飲み込まれた。
背筋にはゾクゾクとした寒気が走り、全身の毛が逆立つような感覚に陥る。
さり気なく右手で触れた俺の左腕には鳥肌が立っていた。
演奏を終えたステラは、肩を上下させながら、上がった息の隙間から声を出す。
「ど、う?」
「ビックリした。近くで聴くと、ステラの演奏に飲み込まれそうだったよ。全身に鳥肌が立った。めちゃくちゃ凄かった」
ステラはヴァイオリンと弓を手にしたままベンチに座り、肩を上下させながら、またジーッと俺の顔を見詰める。
「明日も同じ時間に来て」
「えっ?」
真っ直ぐ真剣な顔で言われて戸惑う。
別に来るのは良いが、これほど改まった表情で言われると何事かと思う。
俺がステラの真剣な顔に戸惑っていると、ステラはヴァイオリンを俺に持ち上げて見せた。
「明日来てくれるなら、凡人が好きな曲を何でも弾く」
「俺の好きな曲を?」
聞き返すと、ステラはコクリとしっかり頷く。しかし、好きな曲をと言われても困る。
俺はクラシック音楽なんて全く分からないし、ベートーヴェンの運命くらいしかパッと思い付かない。
しかし、あれは確かピアノで弾いている曲だったし、そもそも好きな曲というよりも知っている曲だ。
「えっと……格好良くて明るい曲とか?」
必死に何かを絞り出そうとしたが、出てきたのは曲名ではなく漠然としたイメージだけだった。
「格好良くて、明るい曲……」
ステラは自分の持つヴァイオリンに視線を向け、ゆっくりと頷いた。
「分かった。格好良くて明るい曲を弾く。だから明日も来て」
「あ、ありがとう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます