【五二《ソリスト》】:二
次の日の朝、刻雨高校の校門を潜ろうとした時、校門前に立っていた池水先生に呼び止められた。
「多野、お前その怪我どうした」
「いや、これはちょっと転んで」
ボコボコに殴られた怪我が一日で治るわけがなく、俺は顔に何枚も絆創膏を貼っている。その状態なら、喧嘩で作った怪我だと思われて当然だ。
「転んで出来る怪我じゃないだろ」
「いや、本当に転んで」
「ちょっと来いッ!」
「いってッ!」
池水先生に首根っこを掴まれ校門の中に引っ張り込まれる。怪我が治っていない体は、引っ張られるだけで体中が痛む。
上履きの履き替えもそこそこに、俺は池水先生に生徒指導室に引っ張り込まれる。そして、思いっきり突き飛ばされた。
「うっあぁ…………」
パイプ椅子を巻き込みながら床に倒れた俺は、悲鳴を上げることも出来ず鈍い呻き声を上げた。
ドアを閉めて内鍵を掛けた池水先生は、近くにあった事務椅子に座って俺を見下ろした。
「多野、その怪我はどうした」
「丁度、こんな風に転んで怪我したんですよ」
「転んだだけではそんな怪我はしない」
池水先生は椅子から立ち上がって、机の上に置かれた長尺定規を手に取り、事務机の上を長尺定規で叩く。
室内に激しい音が響き、シンと鳴りを潜める。
「俺はお前の転入には反対だったんだ。犯罪者の息子がうちの学校に来るなんて正気とは思えん。少し女子に人気があるからと言って調子に乗りやがって」
俺が怪我していることと関係ない話が出て来る。犯罪者の息子だから怪我したわけじゃないし、それに俺は女子に人気はない。
「今日のところは見逃してやる。だが、俺はお前がこの学校に居ることは認めていない。覚えとけ」
「失礼しました」
立ち上がってパイプ椅子を元に戻し、池水に頭を下げて生徒指導室を出る。顔を上げて見えた生徒指導室のドアをジッと見た。……そして、小さく息を吐いて教室に歩いて行こうとする。
「凡人……おはよう」
歩き出そうとしてすぐ、壁に背中を付けて鞄を前に持つ凛恋が立っていた。
黒い髪を耳に掛けて、チラッと俺の方を見て、そう挨拶をした。
「おはよう」
挨拶を返して歩き出すと、横を凛恋が付いてくる。
「凡人……その怪我どうしたの?」
「どうしたって関係ないだろ」
「そんなことない。私は凡人の友――」
「俺に友達は居ない」
それで俺は会話を切る。
朝の慌ただしい廊下を歩いているが、まだ凛恋は俺の隣を歩いている。どんなに足を速めても、その足に付いてこようと凛恋も足を速める。
「バイト、始めたんだってな。優愛ちゃんが言ってた」
「えっ? う、うん! 時間は短いけど大分慣れてきた!」
「そこでさっさと彼氏でも見付けて、俺には関わらないでくれ」
ふいに話し掛けてしまって失敗したと思った。
もう、俺は誰にも話し掛けないし話し掛けられたくもない。
昨日の夜、神之木さんと話したせいでその決心が揺らいでしまった。
「……しつこく誘ってくる大学生が居るけど、全部断ってる。私が好きな人は今も変わらないから」
俺は凛恋の話を無視して教室に入ると、今度は正面に小鳥が立っていた。
「か、凡人、おは――凡人!? む、無視しないでよっ!」
後ろから泣き入りそうな声で追い掛けてくる小鳥を放っておいて、俺は自分の席に向かって歩く。しかし、今度は自分の席から立ち上がった希さんに進路を塞がれた。
「か、凡人くん……あの……」
「凡人くん、おはよう」
希さんが何かを言い終える前に、自分の席からニコニコ笑顔を向けて手を振る筑摩さんも居て、俺は思わず鞄を床に叩き付けたい思いがした。
「多野くん」
「はい」
もう、うんざりだと思いながら声の方に視線を向けると、そこには俺に手招きをする露木先生が立っていた。
「ちょっと、手伝って」
今日はこれから朝のホームルームの時間から一限目までをぶち抜いて全校集会がある予定だ。
なのに、何故か俺は音楽準備室の掃除をさせられている。
「なんで俺、掃除させられてるんですか?」
「朝、池水先生が多野くんが誰かと喧嘩して怪我を作ってきたって騒いでて、面倒くさかったから、罰を与えますって言ったの」
「それで、その罰が音楽準備室の清掃と言うことですか」
「うん。でも、もう終わり。本当は掃除するところもないし」
そう言った露木先生は、近くにあった椅子を俺に差し出して、自分は別の椅子に座る。
「失礼します」
そう言って椅子に座ると、露木先生は柔らかく笑った。
「こんな礼儀正しい子が喧嘩なんてするかな~。仮にしたとしても、ちゃんと理由があると思うけど。でも、池水先生は多野くんを退学にすべきだって息巻いてるし。退学っていうか、解雇された方がいいのは池水先生の方なのに」
「一応先輩教師なんですから、そういうこと言って良いんですか?」
「あっ、秘密ね?」
人差し指を口に当てて笑う露木先生は、ゆっくり両手をももの上に置いて俺に微笑んだ。
「何かあった? 二年生になってから周りを避けてるみたいだけど。春休み前までは八戸さんや赤城さんとも仲良くしてたのに、二年生になったら急に距離を置くようになったよね?」
「露木先生は一年の頃の俺達を知らないはずですけど」
「担当クラスが違っても、多野くんは私が入学を推薦した生徒だし、ちゃんと見てたよ」
「露木先生が俺を?」
「そう。面接の時に、最近感動したことで話してくれたことが印象に残ってて。人との出会いってみんな普通のことだから感動したことって言わないの。でも、多野くんは熱い目をして語ってたから」
「そういう時もありましたね」
「今は違うの?」
「人は変わる生き物です。良い方にも、悪い方にも」
俺はそう言って会話を切ったが、結局全校集会が終わるまではこのままなのだろう。
「先生、サンサーンスの序奏とロンド・カプリチオーソって知ってますか?」
何か別の話題をと考えて、昨日聞いたあの曲のことを思い出した。せっかく神之木さんが書いてくれた正式名称は忘れてしまったが、たぶん伝わるはずだ。
「あら? 多野くんはクラシック音楽が好きなの?」
音楽教師である露木先生は驚いた顔をするものの、嬉しそうに身を乗り出す。
「いえ、昨日少しその曲を聴いて」
「そうなんだ。序奏とロンド・カプリチオーソは、フランスの作曲家、サン=サーンスがスペイン出身ヴァイオリニストのサラサーテのために書いた曲と言われているの。サン=サーンスの書いた曲でも人気で有名な曲ね」
「そうなんですか。難しい曲なんですか?」
俺が何も考えずに発した言葉を、露木先生は物凄く困った表情をして考え込む。そして、両腕を組んで俺に手招きをした。
「ちょっと来て」
「は、はあ」
手招きをした先生は、準備室の隣にある音楽室へ入り、音楽室の手前に置かれたグランドピアノの椅子に座る。
そして、ゆっくりとピアノの演奏を始めた。
先生が演奏を始めた曲は、俺が昨日聴いた神之木さんが演奏していた序奏とロンド・カプリチオーソだった。でも、その演奏は途中で途切れ、再び最初から演奏を始める。
しかし、一回目とは違い音の迫力があった。まるで露木先生の感情がストレートにぶつかってくるようで、俺は思わず後ずさりをする。
「さて、多野くんはどっちの演奏が好き?」
「えっと……勉強しながら聞くなら最初の方で、しっかり聞くなら後の方です」
「その理由は?」
クスクスと笑いながら更に問う露木先生に、俺は答える。
「最初の方はなんか、音が軽かったというか耳に流れてても思考を邪魔しない感じで。でも、後の方は音が重く感じてしっかり聞かないとというか、しっかり聞かされている感じがしました」
「そっか。最初の演奏は、ただ音をなぞるだけの演奏で、二曲目は池水先生に胸を見られた怒りを込めてみました」
「は?」
「私に、多野くんのことをガミガミ言いながら私の胸を見てたから。そのイライラを込めてみました。そういうのを込める曲じゃないんだけどね」
そう言った露木先生は、椅子に座り鍵盤を眺めながら話す。
「音楽の完璧な演奏は人によって違うの。楽譜通りに弾けるようになったら終わりの人も居れば、感情を込めて独創性が出せて完成の人も居る。でも、世の中にはどんなに沢山の人から称賛されるような演奏が出来ても完成じゃないって人も居る。だから、序奏とロンド・カプリチオーソを弾くのが難しいか難しくないかは分からないかな。ただ、単純に技術的な難しさだけを考えると……小学校一年生から音楽を始めた人が大学生くらいまで音楽を続けてないと難しいレベルかな? 使う楽器とか練習量、その人の才能によっても変わっちゃうけど」
「すみません。何も考えずに難しいのかなんて聞いてしまって」
「ううん。謝ることはないよ。でも、すごく真剣に考えてくれたみたいで、先生としては嬉しいです」
露木先生は本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、鍵盤の上に両手を置いた。
「多野くんが先生の演奏をちゃんと聴いてくれて嬉しかったから、もう一曲くらい弾いちゃおうかな。全校集会が終わるまで暇だしね」
先生は再び鍵盤の上を滑るような、滑らかな指の動きで演奏をする。
露木先生の演奏する曲の名前は全く分からない。でも、連続して流れて途切れない軽やかなメロディーは、俺の心にあった嫌な感情も綺麗に洗い流してくれた。
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