【五二《ソリスト》】:一

【ソリスト】


 街灯に照らされて眩しく光る銀髪に真っ白な肌、そして肩と顎で挟んだ弦楽器を左手で支え、右手には弓を持っている。彼女の持つ弦楽器は、多分ヴァイオリンだろう。


 街灯に照らされた石製のベンチはステージのようで、彼女はそのステージに立つ演奏者。

 立っている場所はただの街中にある公園だし、立っているのも本格的なステージではなくただのベンチ。

 でも、彼女には華があった。


 真っ白いワンピースの裾が風にはためき優しく揺れる。

 彼女は左手でヴァイオリンを支えながら、右手に持った弓を優しく動かした。


 彼女がヴァイオリンを弾き始めて、思わず息を飲んだ。


 俺には音楽の評価が出来る知識はない。でも、彼女の弾く音楽は綺麗だった。

 伸びる音は澄んだ水のように綺麗で、でも一切揺らめかない。音の最後まで綺麗に音が流れ切る。

 どんなに細かい弓裁きをしても、どれだけ激しく弓を動かしても、彼女の演奏するヴァイオリンから発せられる音は一切濁らなかった。


 演奏する彼女の表情は涼しげだが、額や首筋には汗が滲み、演奏中に体が動き髪が振り乱れた瞬間、街灯の明かりに煌めく雫が迸る。


 俺は体の痛みなんて忘れて、遠くで弾いている彼女の元へゆっくり歩き出す。

 まるで、花の香りに誘われた蜂のように、周りのことなんて見えていなかった。


 やっと彼女の近くまで来た時、彼女の演奏は終了した。

 シンとした公園に残った余韻が消えても、俺の中ではまだ余韻が心を揺さぶっていた。


「綺麗な音だった……」


 俺がそう呟くと、彼女は俺に視線を向ける。でも、彼女は涼しげな表情を変えずに首を傾げた。


「……不良?」


 彼女の綺麗な声がそう言った。でも、俺が想像出来るような内容の言葉ではなかった。


「……いや、不良じゃないんだけど」


 そう言った後に思う。

 確かに、制服は汚れているし顔面傷だらけ。明らかに喧嘩をした後の不良のような姿だ。だから、彼女にそう思われても仕方がない。


「じゃあ、変質者?」

「なんでそうなるんだ……」


 彼女は反対に首を傾げてそう言った。だが、流石にその予想はおかし過ぎる。

 どこの世界に傷だらけの変質者が居るって言うんだ。

 まあ、状況が異常という意味では変質者なのかもしれない。


「でも安心して。天才には偏屈な人間が多いの」


 彼女はジッと俺をベンチの上から見下ろして話を続ける。


「ベートーヴェンは偏屈が服を着て歩いているような人間だと言われているし、ショパンは神経質が服を着て歩いているような人間だと言われている。だから、別に偏屈だから悪いというわけではない」


 どうやら、俺は彼女に慰められているようだ。しかし、俺が落ち込む要素があったとしたら、それは彼女しか居ない。

 俺を不良だとか変質者だと言ったのは彼女だからだ。


「きみは、こんなところで何を?」

「あなたはとても無知な人なのね。私の左手にはヴァイオリンがあり、右手には弓がある。この状況で私がピアノを演奏していると思う?」

「いや……きみがヴァイオリンを演奏しているのは見てたから知ってるんだけど、なんでこんなところでヴァイオリンを演奏しているのかなと思って」

「ヴァイオリンが弾きたかったからよ」

「うん、まあ、そりゃそうなんだろうけど……」


 なんだろう、なんとなく話し掛けちゃいけない人だったような気もする。

 彼女が言った変質者ではないが、少し変わり者の性格が見える。


「そうだ、きみがさっき演奏してた曲はなんていう曲なんだ? あんまりクラシック音楽って詳しくなくて」

「シャルル・カミーユ・サン=サーンス。作品二八、序奏とロンド・カプリチオーソ、イ短調」

「サンサース? 序奏とロンド・カプ――……なんだって?」

「シャルル・カミーユ・サン=サーンスが作曲した作品番号二八番の、序奏とロンド・カプリチオーソという曲。この曲の調がイ短調」

「サンサーンスって人が作ったロンド・カプリチオーソって曲だな。よし覚え――ん?」


 俺がそう言うと、彼女は無表情のまま弓を持った右手を差し出す。


「紙とペンを出して」

「は、はあ……」


 彼女に言われるまま、鞄の中からペンケースとノートを取り出す。

 すると、ペンケースから取り出したシャーペンで、ノートの空いている所に彼女は文字を書き始める。

『シャルル・カミーユ・サン=サーンス。作品二八、序奏とロンド・カプリチオーソ、イ短調』と長く書かれたそれはさっき彼女が演奏していた曲の曲名だった。


「あ、ありがとう」

「ところで、貴方は何故怪我をしているの?」

「えっ? いや……これは」

「貴方、私がここで演奏している理由を尋ねて聞いたのに、貴方は自分の話はしないの? それはとても自分勝手なことだと思う」

「いや、俺の話は、個人的な、プライベートな話だから」

「私がヴァイオリンを弾いていたこともプライベートなことだったのだけれど?」

「それは、そうだけど……」


 彼女は、ベンチに置いてあったヴァイオリンケースに丁寧にヴァイオリンを仕舞ってベンチに座る。

 そして、自分の隣を俺に手の平で指し示した。そこに座って話せということらしい。


 何故、見ず知らずの女の子に自分の身の上話を聞かせなければならないのか分からないが、このまま逃げ帰って通報でもされたらとんでもない騒ぎになる。

 それに、誰かに話して楽になりたい気持ちもあった。


「俺、最近彼女と別れたんだ」


 そう話し始めた俺は、信じていた人に信じてもらえなかったこと。それが原因で彼女のことを、自分の周りに居る人達を信じられなくなって、それで周りから距離を取ったことを話した。

 そして、ついさっき、その信じていた頃の思い出を汚されるようで、つい突っ掛かってしまい、結果ボコボコにやられたことを話した。

 それを聞いた彼女は、相変わらず表情を変えずに、俺に向かって首を傾げた。


「貴方は別れた彼女のことが嫌いではないの? 嫌いだから別れたのではないの?」

「……嫌いなのかな?」

「私に聞かれても困るのだけれど」

「……いや、嫌いじゃないんだ。失望したってのが大きな理由かな。自分は相手のことを信じてたのに、相手は簡単に俺のことを疑った。その気持ちの差を見せ付けられて、それに耐えきれなかった」

「好きだから付き合って、嫌いだから別れるものではないの?」

「いや……俺も初めてだけど、そんな単純な話じゃないんだよ。好きとか嫌いとか、二文字の言葉で簡単に片付けられるような簡単な感情じゃない」

「そう、私には分からない」


 彼女はつまらなそうに視線を前に向けて呟く。足をパタパタと動かして暇を持て余していた。


「きみも人を好きになったことはあるだろ?」

「ないわ」

「一人くらいは居るだろ?」

「生まれてからずっと人を愛したことはない。私の世界にはヴァイオリンしかなかった」

「そうか」


 もし彼女がヴァイオリンしか知らないとしたら、なんとなく感じていた変わり者の気質も納得がいくし、あのとんでもなく人を惹き付ける演奏も納得出来る気がする。

 何かを犠牲にしたからあんな演奏が出来るのだとしたら、その犠牲に私生活が使われていても不思議じゃない。


 テレビとかで天才ピアニストの話が取り上げられると、遊ぶ暇を惜しんで毎日一日何時間も練習して、友達と遊んだり恋愛したりする暇もなかった。なんて話は良く聞く。

 それはピアニストのような音楽家だけではなくて、スポーツ選手や、他にも世界トップクラスと呼ばれる人達はそんな努力を重ねている人が多い。

 彼女がそういう、世間で取り上げられる天才のうちの一人だとしたら、やっぱり納得出来てしまう。


「そういえば、きみって日本語上手いね」


 俺は彼女に別の話題を切り出した。彼女は毛先だけ緩くカールの掛かった銀のミディアムヘアに真っ白な肌、それに顔立ちは整っているが鼻が高くて、俺をジッと見ている瞳は綺麗なブラウン。

 どう見ても日本人の顔立ちではない、外国人の顔立ちそのものだ。


「私は日本人の父とスウェーデン人の母を持つハーフ。でも、生まれも育ちも日本よ」

「そうなんだ。日本にずっと居るなら日本語がペラペラなのは当たり前か」

「貴方は?」

「えっ? 俺?」

「そう。私のことを聞いたのだから、貴方のことを話すのは当然でしょう」

「あ、ああ。俺は多野凡人。刻雨高校の二年だ。見ての通り、生まれも育ちも日本」

「私は桜咲(おうしょう)女子高等学校一年の神之木(かみのぎ)ステラ」

「えっ?」


 いきなり名乗り始めた彼女に驚いていると、彼女はまた首を傾げて俺を見る。


「凡人が名前と学校を名乗ったのだから、私も名前と学校を名乗るべきでしょう?」

「あ、まあ、そう、なのかな?」


 やっぱりちょっと変わっている。でも、悪い子では無さそうだ。ちょっと世間知らずなところはあるけど。


「神之木さん、あんまり見ず知らずの男に名前とか学校とか、個人が特定されるようなことは言わない方がいいよ」

「見ず知らずではないわ。私は凡人の名前と学校を知っているし」

「うん……まあ、良いか」


 神之木さんと話していると、何故か退屈しなかった。

 馬鹿にしているわけではないが、純粋に面白かった。

 反応が普通の人と違うから退屈しないし、神之木さんの口から飛び出してくることは予測出来ない楽しさがある。

 それは、予測出来ない怖さも一緒にあるのだが。


「ありがとう。神之木さんの演奏を聴いたら体の痛みが引いたよ。そろそろ帰らないと、家の人が心配するし」

「そう。最後に聞いて良い?」

「ああ、何?」

「何故、凡人は私を名字で呼ぶの? 私は凡人を名前で呼んでいるのにおかしい」

「えっ? 普通は会ったばかりの人は相手を名前では呼ばないものだから」

「凡人は普通じゃない。だから、名前で呼んで」

「……う、うん?」


 納得しようとしてもう一度頭で考える。

 神之木さんは俺に普通じゃないと言ったが、決してそれは馬鹿にするような話の流れではなかった。

 だから別に、神之木さんは俺を馬鹿にしているわけじゃない。だから、ここは怒る場面ではない。


「分かった。じゃあ、次からはちゃんと名前で呼ぶよ」


 次があるとは思えない。俺がここに寄ったのはたまたまだし、神之木さんもこんなところで演奏したのは、たまたま演奏したい気分になっただけだろう。だから、もう次はない。


「そう。では凡人、私はこれで帰る」

「そっか、気を付けて」

「凡人も気を付けて帰って」


 神之木さんはヴァイオリンのケースを持って立ち上がり、俺の方を振り返った。俺は神之木さんに向かって右手を振る。

 神之木さんはそれを見て自分の右手を持ち上げて見詰め、俺に視線を向けてぎこちなく手を振る。無表情で手を振る様子は、表情と行動がちぐはぐで面白かった。

 神之木さんが公園を出るのを見送ると、俺はベンチを照らす街灯に視線を向けた。

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