【五〇《原点回帰と決別。そして巡る》】:一
【原点回帰と決別。そして巡る】
仲春を過ぎて晩春に差し掛かった頃、丁度春休み真っ最中のこの時期、俺の家に栄次と希さんが訪ねてきた。
俺はその二人を追い返すことはせず、部屋に上げて温かいお茶を出す。お茶を入れたのは婆ちゃんだが。
「凡人くん……」
「栄次、何しに来た」
希さんが何かを話し出す前に、栄次に視線を向けて言う。栄次は柄にも無く正座をして俺に真っ直ぐ視線を向けていた。
「カズと仲直りをしに来た」
「そうか」
「ほんっと、この一ヶ月弱、めちゃくちゃ大変だったんだぞ。主に希の説得が……」
そう言った栄次が足を崩してあぐらを掻き、大きくため息を吐く。その様子が、本当に大変だったことを物語っていた。
まあ、怒った希さんの説得が大変だっただろうことは想像できるが。
「カズは疑うと思ったから、ちゃんと証拠も撮ってきた」
そう言って、栄次がスマートフォンを俺に向けて突き出す。そこには泣きながら抱き合う凛恋と希さんの姿が映っていて、それが二人を仲直りさせたという証拠なのだろう。
「これで、俺とは仲直りしてくれるよな? カズは希と凛恋さんを仲直りさせるまで絶交だって言ってたし。まったく……あの電話以降、全部俺の電話無視して。何考えてんだよ」
「話は聞き終わった。帰ってくれ」
「まだ話は終わってない。希、カズに言いたいことがあるんだろ?」
栄次が隣に座っている希さんに視線を向ける。希さんは、俺に向かって頭を下げた。
「凡人くん、ありがとう。私……凛恋と絶交なんてしなくて良かった」
希さんの言葉を聞いて、二人が本当に仲直りしたのだと安心する。
希さんは、昔言っていた。もし凛恋と友達じゃなくなったことを思うと凄く怖いと。
凛恋ともう話が出来なくなるなんて考えたくもないと。凛恋が居ない日常なんてあり得ない、
絶対にそんなことにしたくないと。だから、そうならなくて本当に良かったと思う。
「だから、本当にありがとう」
「栄次が仲直りさせたんだ。俺にお礼を言われても困る」
そう俺が言うと、希さんはクスッと小さく笑う。それを見て栄次がホッと息を吐いた。
「それで……凛恋のことは」
「俺はもう凛恋とは何でも無いんだ」
「そっか……そうだよね。でも、私は仕方ないと思う。だって、それだけのことを凛恋はしたんだもん」
俺は割り切れていない。純粋に凛恋に信じてもらえなかったことはショックだった。それで、俺が持っていた凛恋に対する信頼は揺らいだ……いや、跡形も無く崩れ去った。
今の俺は、凛恋のことを信じることは出来ないし、凛恋と笑って話すことも出来ない。実際、あの日から春休みに入るまで、俺は凛恋と目線すら合わせていない。
「あの日からね。友達関係がギクシャクしちゃって……仲が悪くなってバラバラになったわけじゃないの。でも凛恋に里奈ちゃんが遠慮しちゃって……ほら、里奈ちゃんが焚き付けたことで火種が大きくなっちゃったから。それで、責任感じて」
「ごめん希さん。俺は溝辺さんが嫌いだ」
「……うん、それも仕方ないと思う」
俺は溝辺さんに冷たい言葉を浴びせられ、冷たい視線を向けられた。
凛恋と付き合っている頃は明るいムードメーカー的な人だとは思っていた。でも今は、ただ嫌いという感情しか浮かばない。
溝辺さんも、俺に悪口や陰口を叩く人と同類なのだ。そんな人がどうなろうとどうだっていい。俺は、そこまでお人好しな出来た人間じゃない。
「でも、凛恋のことはどう思ってるの?」
「どうも思ってない」
「嫌い、だとは言わないんだね」
俺はその希さんの言い方を、卑怯な言い方だと思った。
仮にも一年近く、世界一大好きで、世界一信頼していた人だ。
それをそんなに簡単に嫌いだと断じることが出来るほど、単純な性格はしていない。俺は、普通の人間よりも捻くれているのだ。
「希と凛恋さんが仲直りした日。俺と希に凛恋さんが、カズと仲直りしたいって言ったんだ。でも……」
「私が反対したの」
そう希さんが短く言う。その目には涙がいっぱい溜まっていた。
「凛恋と仲直りした後でも、凛恋が虫が良すぎるとか自分勝手だって思う気持ちは同じだったの。でも、凛恋は凡人くんとそれでも仲直りしたいと思ってる。私が否定しても凡人くんと絶対に仲直りしたいって言ってた。だから、凛恋の話も聞いてほしいの」
「ごめん、無理だ」
「カズっ!」
「栄次には分かるのかよ」
俺を怒鳴りつける栄次に、俺は出来るだけ落ち着いた声で返す。
「あんな、ちょっと見れば偽物だって分かるような証拠を見ただけで疑われたんだぞ? 俺が凛恋の気持ちを裏切って、他の女子に浮気してたなんて思われてたんだぞッ! 俺はッ! 俺は……凛恋が傷付かないようにどうすればいいかって考えてたのに……。あんなっ! 凛恋を貶めるようなものを作った奴のことを絶対に許せないって思ったんだッ! なのに……凛恋は俺を疑ったんだ!」
「凡人くん! あの時、凛恋はショックでろくに紙も見られてなくて――」
「だったら、ろくに見もしなかった証拠を信じて、一年付き合ってきた俺のことは信じなかったってことだろ。だったら、凛恋の俺に対する信頼ってその程度だったんだよ」
希さんがシュンと顔を俯かせるのが見える。
どうにか俺の気持ちを変えようと発言した結果、逆効果にしてしまったことを落ち込んでいるのだろう。
「希さん、もう学校では話し掛けないでくれ」
「えっ……なん、で?」
「おいっ! カズッ!」
「希さんは確かに俺のことを信じてくれた。切山さんも信じてくれた。でも、申し訳ないが、俺が二人よりも信じてたのは凛恋だったんだ。俺が二人を信じている信頼の土台には凛恋への信頼があった。でも、その土台が無くなったら、俺は二人のことも疑い始めた。今だって、俺は胸くそ悪いくらい希さんのことを疑ってるよ」
栄次が怒鳴りつけるのを無視して、俺は話をする。それに、希さんは涙を流して両手で顔を覆った。
「カズッ! 何でそんなことを言うんだ! カズが二人を仲直りさせたのは二人のためだろッ! なのになんで!」
「俺はもう一人で良いんだよ。もう友達なんて作らない」
「カズッ!」
「正直、栄次もいらない」
「カズ……どうして」
「もう、人と関わりたくないんだ。もう、人との信頼なんて築きたくない。いや、信頼なんて脆くて簡単に崩れるもの、築くなんて不可能だ。たとえ上手く信頼みたいなものが組み上がっても、また簡単に崩れる。それで傷付きたくないんだよ。信頼を築かなければ崩れないし、人に期待しなければ裏切られても傷付かない。俺が出した答えはそれだ」
俺は昔から他人をクソだと思っていた。
他人は、他人にとっての他人である俺を傷付ける。だから、俺は人なんて信頼していなかった。
信頼出来る要素が一つも無かったからだ。
他人は常に俺のことを嫌い、俺が不幸になればいいと思っている。でも、その思考を変えたのは凛恋だった。
凛恋は俺の母親が犯罪者だと知っても俺を見捨てなかった。そんな凛恋が居たから、俺は地獄のような刻季から刻雨に来た。新しくやり直そうと、信頼出来る人の側で再スタートしようと。
でも、結果はこの様だ。
人を信頼して転学までした結果、信頼した人に裏切られた。
あんな、信憑性の低い不確かな証拠を、しかもろくに見ずに他人の言うことを信じて俺を疑ったのだ。
それで十分過ぎるほど、俺が人に対する信頼を失う理由がある。
「私は……凡人くんと友達じゃなくなるなんて嫌だッ!」
「希さん、俺はもう人なんて信じられない」
「……希、もういい。行こう」
「栄次ッ!」
「もう、俺と多野は友達じゃない。俺の大切な彼女を傷付けるような奴は、俺の親友のカズなんかじゃないッ!」
栄次が希さんの手を引っ張って出て行く。希さんは栄次に腕を引かれながら、俺に何かを言った。でも、その希さんが何を言ったのかは分からなかった。
二人が帰った後、俺はベッドに寝転がって目を閉じる。ゲームをする気も起きない。
このまま、寝て過ごすのが――。
「――ッ!? イッテェ……」
急に体が横に引っ張られたと思ったら、俺はベッドから落ちて丸テーブルの上に体を打ち付けた。
激しくぶつかったせいで丸テーブルが倒れ、俺は鳩尾をテーブルの脚に突かれた。
「いってぇなっ! なにす――」
顔を上げた瞬間、左から鋭い弾けるような音と共に頬を打たれる。そして、左頬に激痛を感じながら再び床に転がった。
「栄次と赤城さんが泣いて帰った。友達を泣かせてどういうつもりだ」
「爺ちゃんには関係な――ガハッ」
体を起こそうとした俺の胸に、上から爺ちゃんの踏み蹴りが入って一瞬呼吸が止まる。
そして、すぐに大きく息を吸って痛む肺に空気を入れた。
「出て行け」
「は?」
「出て行けッ! このバカ孫がッ! 俺はお前を、友達を泣かせる男に育てた覚えはないッ!」
「……ああ、分かったよ」
俺は立ち上がり、爺ちゃんの横を抜けて部屋の出入り口まで歩いて行く。
出入り口を出てすぐの場所に婆ちゃんと田丸先輩が立っていて、俺の顔を見て顔色を青くする。
「凡人! すぐに手当てを」
「婆ちゃん、爺ちゃんに出て行けって言われたから出て行く」
「えっ? 凡人! 待ちなさいっ! 凡人っ!」
婆ちゃんの手を振り解くと、今度は田丸先輩の手が俺の腕を掴んだ。
「凡人くん落ち着いて! お爺さんも少し興奮してるだけだから! 落ち着いて話せばきっと分かって――」
俺は田丸先輩の腕を振り解いて、振り向かずに家を出た。
家を出ても、行くあてなんてなかった。きっと爺ちゃんも分かっている。
俺に行くあてなんてなくて、結局自分のところに泣き付いて戻ってくるだろう。そう思われているのが癪で、絶対にあの家には帰らないという気になった。
適当に足を進めるが目的地は決まっていない。ただ、家から離れることしか考えていなかった。
「爺ちゃんに俺の何が分かんだよッ!」
叫ぶと、ただ左頬が痛むだけで、気持ちなんて少しも晴れなかった。
誰も、俺の気持ちは分からない。もう、家族さえも信じられない。
もう、誰も信じられる人は居ない。でも、これで良かった。丁度良かったんだ。
一人になりたかった。
孤独になりたかった。
孤独は寂しい、孤独は辛い、そう言う人は沢山居る。
でも、孤独は安心出来る。
孤独なら他人の目を気にする必要もない。孤独なら自分のことさえ考えていればいい。
「お前、多野か?」
「は?」
歩いている時、目の前から男の人に声を掛けられる。俯いていた視線を上げると、そこには一人の男性が立っていた。
「俺だよ、横谷弘康。刻季高校二年厚生委員長の」
そういえば、こんな人が居たと思い出す。
横谷先輩とは、去年、田丸先輩に巻き込まれて行った宿泊研修で出会った。
今の雰囲気と変わらず、何だか軽い感じの人だった気がする。いや、でも、夜に逸島と対峙した時は心強いと思った。
横谷先輩のことを思い出すと胸が苦しくなる。横谷先輩を思い出すと、同時に凛恋のことを思い出すからだ。
「何か、浮かない顔だな」
「いえ、俺、急ぐんで」
「まあ待てって。相談に乗ってやるよ、先輩の俺が」
ニッと笑ってそう言う横谷先輩の雰囲気は、やっぱり軽かった。
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