【四九《脆弱性》】:二

 次の日の昼休み、俺は刻雨高校に来て初めて、一人で過ごした。教室には誰も居なくて静かに過ごせる。でも、昼飯を食べる気にはならなかった。


 たった一日で、一年近くも積み上げた信頼が一気に崩れた。

 それもただの信頼じゃない。世界で一番大切だと思えた人との信頼だ。


 俺が見たあのメールはねつ造だ。あんなメールを誰かに送ったことなんてない。それに、あのメールの『凛恋』の文字は『凜恋』になっていた。

 俺が、凛恋の字を間違えるわけがない。


 内容だって、凛恋の下着の色は今日はピンクだった、白だった、ただそれだけだ。そんなの適当に書ける。

 それに俺は、凛恋の下着の色を見てたわけじゃない。どんな姿でも、俺はずっと凛恋のことを見てた。


 田丸先輩と鷹島さんのことだって、俺は凛恋より可愛いなんて思ったことは一度もない。

 だけど、凛恋はそれを信じてはくれなかった。


 きっと、凛恋にあんな物を見せたのは、俺にあのDVDを送り付けてきた奴と同じ奴だ。多分、その送り付けた奴はこれが狙いだったのだ。俺と凛恋に仲違いをさせて別れさせることが。

 結果、そいつの思惑通りになった。だから、きっと何処かで俺を見てほくそ笑んでいるのだろう。


「凡人くん、元気ないね」

「…………すみません。今、誰かと話をするような気分じゃないんです」

「凡人くんが気分が乗るのを待ってたら、一生お話し出来なさそうだね」


 ニコッと笑った筑摩さんが隣に座り、俺にスマートフォンの画面を見せてクスクス笑う。

 筑摩さんのスマートフォンの画面では、動画が再生されていた。そして、その動画に写っている人物に見覚えがある。


『逸島先輩。これを八戸の机に入れれば、理緒は俺のところに戻ってくるんですか?』

『ああ、あの多野凡人という人間がどんなに醜悪な人間か知り渡れば、筑摩さんも多野には愛想を尽かすだろう。そこで米野くん、きみが筑摩さんに優しく声を掛けてあげれば、きっと筑摩さんはきみのことを惚れ直すに決まっている』

『分かりました。俺、理緒のためにやります』


 映像に映っているのは、筑摩さんに振られた時に俺に空き缶を投げ付けてきた、あの米野だ。そして、もう一人は、去年の夏の宿泊研修で、凛恋を危険に晒した逸島だった。

 映像に映っているのは何処かの教室のようで、映像が薄暗いことから夜の学校内だと思う。そして、その映像に映っていた米野が部屋を出ると、逸島は腹を抱えて笑い出した。


『アハッ! アハハハハハッ! まったくおめでたい奴だよ! あの米野ってバカはッ! ただ封筒を机に入れてくるだけで見直すわけないだろ! バカらしい!』


 逸島はテーブルの上に置かれたノートパソコンを見詰めてニヤニヤと薄気味悪く笑う。


『合成画像に偽造音声、それに大量の偽メールのデータ、ここまで準備するのにかなり時間が掛かったが、これで八戸さんは私の物だ。ああ、やっとだよ。やっと、彼女が私の物になるんだッ!』


 そこで映像は途切れて、筑摩さんはポケットにスマートフォンを仕舞う。


「最近ね。生徒会室の無断使用の痕跡があったの。勝手にパソコンが使われた履歴があって、それで男子のお友達に協力してもらって、生徒会室に隠しカメラを仕掛けたの。そしたら、逸島先輩が米野くんとこんなこと話してる動画が昨日撮れてて、それで複合機の履歴を見たら、凡人くんの名前を語った偽メールがいっぱい書かれた紙が大量に印刷されてた。この映像とその履歴のデータは先生達も確認済み。きっと一週間くらいの停学かな? 二人とも」

「……なんでこれを俺に」

「朝から凡人くんが元気がない理由ってこれが原因かなって思って。でも可笑しいよね、逸島先輩も米野くんも。だって、“本当に凡人くんのことを信頼してる人なら”こんなの嘘だって簡単に分かっちゃうのに」


 俺は、筑摩さんの言葉に俯く。俯いた俺の頭に、筑摩さんの言葉が反響した。


『だって、“本当に凡人くんのことを信頼してる人なら”、こんなの嘘だって簡単に分かっちゃうのに』

『本当に凡人くんのことを信頼してる人なら、こんなの嘘だって簡単に分かっちゃう』

『本当に凡人くんのことを信頼してる人なら、こんなの嘘だって』

『本当に凡人くんのことを信頼してる人なら、こんなの嘘』

『本当に信頼してる人ならこんな』

『本当に信頼している人なら』

『本当に信頼しているなら』

『信頼しているなら』

『信頼』


 最後に残った信頼という言葉が胸にも響く。


「隣のクラスで朝から噂になってたよ。凡人くんが浮気して、八戸さんと別れたって。もしかして、その浮気ってこれが原因? でも、こんなことで二人が別れるわけないよね? だって、私の目の前でキスするくらい仲が良いんだから、凡人くんが浮気したなんて話、信じるわけないよね? だって、凡人くんは小学校の頃からずっと真面目な人だし、浮気なんて不誠実なことはしない人だもんね?」

「何が言いたいんですか?」

「別れて正解だと思うな、私は。そりゃあ、凡人くんのことをよく知らない人なら、浮気してる最低! なんて思って凡人くんのことを責めるかもしれない。でも彼女ってそういう時、真っ先に彼氏のことを庇うものでしょ? だって、好きな人だし自分を好きになってくれた人だもん。自分だけは彼氏の味方にならないと! って思うのが普通だと思うの。それを、周りの友達が浮気だ浮気だって騒ぎ立てたからって信じちゃうような人って、付き合ってても良いこと無いと思うよ? 私、間違ってる?」


 最後に聞かれた問いに、俺は「間違っている」と、言えなかった……。むしろ、筑摩さんの言い分が正しいと思った。


 俺は、すぐに自分に送られてきた物を見て嘘だと分かった。でも、それは単に偽のデータに不備があったからだけじゃない。


 凛恋があんなことをするとは思わなかったからだ。


 自分の好きな凛恋は、あんなに人を酷く貶めるようなことはしないと思ったからだ。実際にやっているかやっていないかは関係ない。

 俺は、俺の信じる凛恋を信じたのだ。でも、凛恋は簡単に俺を疑った。酷いと言った。それは、酷いことだ。


「凡人くんはもっと凡人くんのことを、ちゃんと信じてくれる人と付き合った方が良いよ」

「凡人ッ!」


 昼休みの教室にその泣き叫ぶ声が響いた。

 教室の出入り口には凛恋が立っていて、ゆっくり教室の中に入ってくる。そして、俺の目の前に立とうとした時、凛恋の前に筑摩さんが立ちはだかった。


「筑摩、退いて」

「なんで?」

「私は凡人と話があるの」

「もう別れたんでしょ? 朝、話してたよね? 自分のクラスで『凡人と別れた』って、それで溝辺さんが怖い顔して言ってたの聞いたよ。『あいつが凛恋のことを裏切った』って」


 凛恋は筑摩さんの言葉に目を見開いて俯く。

 その反応は、筑摩さんの言葉に凛恋が反論出来るような言葉がなかったということ。つまり、筑摩さんの言葉が全て事実だということ。


「凡人くんに裏切られた? 笑わせないでよ。凡人くんのことを裏切ったのは八戸さんじゃない。根も葉もない話を信じて、ずっと八戸さんのことを好きで居てくれた凡人くんの気持ちを裏切ったのは八戸さんじゃない。それでどうしたの? もしかして、凡人くんの浮気話が逸島先輩のねつ造だって聞いたから謝りに来たの? それって、ちょっと虫が良すぎるんじゃない? それって、物凄く自分勝手じゃない?」


 筑摩さんの言葉に、凛恋は何も言い返せなかった。そして、俺はその言葉を止めようとしなかった。


「まあでも? それを決めるのは凡人くんだからね。どうぞ」

 そう言って筑摩さんが俺と凛恋の間から退いて教室を出て行った。


 それを見送ることはせず、俺は目の前に居る凛恋を見た。凛恋は、涙を流して呼吸もままならない様子だった。


「かず、と……ごめ――」

「俺は凛恋には信じてほしかった……」

「かずと……」

「俺は正直、希さんにも切山さんにも疑われてもよかった。凛恋さえ信じてくれれば、凛恋さえ俺の味方で居てくれれば良かったんだ」

「かずと……ごめんなさい……」

「俺が入院してる時、ずっと側に居てくれるって言ってくれて嬉しかった。俺が不登校になって別れようって言った時、俺を一人にさせないって言ってくれて嬉しかった。俺に転学の提案をしてくれた時、俺が何を選んでもずっと側に居てくれるって言ってくれて嬉しかった! でも……凛恋は俺のことを信じてくれなかった。希さんや切山さんは信じてくれたのにッ! 筑摩さんだって俺のせいじゃないって言ったのに! 凛恋は……凛恋が、信じてくれなかった」

「かずと……ごめんなさい……」

「凛恋。もう無理だよ」


 教室に希さんが入ってくる。そして、俺と凛恋の間に立った。


「昨日の夜ね、栄次から電話があったの。凡人くんには黙ってろって言われたけどって前置きされて。昨日、凡人くんのところに同じ封筒が入ってたんだって。それで、凛恋が男子と一緒に写ってる画像とか、凛恋が人の悪口言ったり凡人くんとのプライベートなことを話したりしてる音声とか、それから凛恋が他の男の人と隠れて遊んでるような内容のメールとか。全部、凛恋に送られてきた物と同じようなものだよね? でも、凡人くん、全部信じなかったんだって。それで、そのデータが入ってるDVDを割ったんだって。何でだと思う? そんな凛恋のことを貶めるようなデータが広まらないように割ったんだって。それにね、昨日……凡人くんは……凡人くんはっ!」


 希さんが両手の手の甲で何度も目を拭う。そして、目の前に居る凛恋を睨み上げた。


「昨日、凡人くんは萌夏ちゃんの家を飛び出した後、私と萌夏ちゃんに言ったんだよ! 二人は凛恋の味方をしてって! 信頼してる人が、自分の味方してくれないと辛いからって! 凛恋に信じてもらえなかった凡人くんが凄く辛いはずなのに! 凡人くんはそんな時まで凛恋のことを心配してたんだよ! あんな電子データをちょっとでも信じた凛恋を! 凡人くんは心配してくれてたんだよ! それに……凡人くんは凛恋と別れたこと、栄次に言ってなかったって。凡人くん、辛いの一人で抱え込んだんだよ! 一番信頼してた凛恋が凡人くんを信頼してあげなかったからだよ! 全部、何もかも凛恋のせいだよ!」

「……ごめん、なさい」

「もう無理だって言ったじゃん。今の凛恋は凡人くんに相応しくない。凡人くんは凛恋の味方をしてって言ったけど、私は今の凛恋の味方なんて絶対に出来ない! 私はッ! 私の大切な親友を傷付けた凛恋を絶対に許さないッ!」

「のぞ、み……」


 凛恋が希さんの名前を力なく呼ぶ。その声は、手を伸ばして母親にすがり付こうとする子供のような声だった。


「私達、今日で絶交だから」

「ふざけんじゃねえよ」

「えっ?」


 俺は目の前で起きている状況に拳を握り締めた。

 俺は、今、凛恋を信頼出来る自信はない。いや、信頼出来ないどころか疑ってしまってもいる。

 また、同じようなことがあった時、凛恋はまた俺を疑うだろう、と……。だから、凛恋の謝罪を受け入れることは出来ない。でも、俺が凛恋と希さんの二人に出会ってから見て来た二人の関係は、とても見ていて輝いて見えた。

 あれが真の友達。親友……いや、心友なんだと。


 高校の友達は一生の友達なんて言うのを聞いたことがある。

 実際、爺ちゃんや婆ちゃんが今でも付き合いがあるのは高校の友達ばかりだ。だから、ほぼ間違いなく二人は一生の友達になる。

 でも、その一生の友達になる二人の友情が目の前で崩れ去ろうとしてる。

 俺が原因で、二人のキラキラと輝いているものを砕こうとしている。それは、俺がやっていいことじゃない。


「親友? 笑わせるな」

「凡人くん?」

「もう、彼女とか親友とか友達なんて、もううんざりだ。友達ごっこなんて止めだ、止め」


 どうすれば良いのか分からない。でも、希さんが俺を味方しようとして凛恋から離れるなら、俺がその希さんを突っぱねれば、希さんが凛恋から離れなくても良くなると思った。


「もう、友達なんて絶対に作らない。俺はもう、一人で良い」

「凡人くん……」


 教室を出て、野次馬が集まった廊下を駆け出す。

 周りを見ずに走って、人集りを抜け出して校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下に出た。そして、すぐにスマートフォンを取り出して栄次へ電話を掛ける。


『カズ? 昨日、希が――』

「凛恋と希さんを絶対に仲直りさせろ」

『えっ? ちょっ、仲直りってどういう――』

「四の五の言わずにやるって言えばいいんだよッ! 二人仲直りさせるまで、栄次とは絶交だッ!」

『ちょっ、カ――』


 電話を切り、電源ボタンを長押ししてスマートフォンの電源を切る。

 俺は渡り廊下のフェンスに背中を付けて、ドサッと渡り廊下の上に腰を落とした。そして、両足を抱えて膝の間に顔を突っ込んで顔を隠す。


 信頼が簡単に崩れるものだなんて知らなかった。

 友情が簡単に崩れるものだなんて知らなかった。

 俺は今まで、今日まで、そんな脆く崩れやすいものに支えられて生きてきた。でも、明日から俺はその支えさえも無くなる。

 それを実感しただけで、俺の目から涙が溢れた。


 だけど、一番脆くて弱いのは、俺自身だった。

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