【四七《歩き抜く理由》】:八
山頂の神社を出発し、上りよりも下りは少し短い時間で下山することが出来た。しかし、下りは足に掛かる負担が大きい分、下り終えてからの街中の道は辛い。
太陽はまだ出ているものの、ピーク時よりも傾いている。そして、周囲は見慣れた街並みになってきた。
刻雨高校に近付いてくると、俺達が日頃行動している範囲内に入ってくる。だから、今自分達が居る場所からおおよそで掛かる時間は予測が立てやすい。
しかし、その予測が立てやすい分、先の長さが分かってしまうから精神的に辛い。
「凡人、ありがと」
「多野くん、ごめんね」
「いや、良いって」
凛恋と切山さんにお礼を言われて、俺は笑顔で手を振る。
山を下りてすぐ、俺は全員の荷物で一番重い水筒を回収した。少しでも荷物が軽くなれば、みんなの負担がそれだけ和らぐからだ。
「でも、三人分の水筒って重いでしょ?」
「重くてもいいんだよ。切山さんと希さんに、凛恋の彼氏は頼りになるってところを見せておかないと」
「今更見せなくたって凡人は十分頼りになるわよ」
「凛恋の言うとおりよ。筑摩の時も石川の時も、多野くんはめっちゃ頼りになったし」
そうやって笑う切山さんを見ながら、俺は後ろを歩く希さんに視線を向けた。
「希さん、大丈夫?」
「う、うん。ちょっと疲れちゃったかな」
そう言って笑顔を向ける希さんを見て、俺はちょっと疲れただけじゃないのは分かっていた。でも、もうすぐ最後のチェックポイントの公園が近付いている。
そこで確かめないといけないことがある。
横断歩道を渡ると、街中にある緑いっぱいの公園がある。
公園の入り口から中に入ると、ベンチや地面に座り込んでうな垂れている刻雨生ばかりしか見えない。
まあ、ここまで来て笑って歩けている人が居たら、俺はその人を尊敬する。
「じゃあ、この辺で休け――」
「希さん、救護テントに行くぞ」
「えっ?」
凛恋が地面に敷かれたタイルの上に座り込もうとする前に、俺は希さんにそう言った。
希さんは驚いた顔をして俺を見て、ニッコリ笑う。
「なんで救護テントに行く必要があるの?」
「希さん、足痛めてるだろ?」
「足は疲れてるけど、痛いところなんて何も――」
「じゃあ、どうして右足のつま先を付けて歩かないんだ」
「えっ!?」「うそ!?」
凛恋と切山さんが同時に希さんの右足を見る。そして、視線が集まった希さんは不自然に視線を逸らした。
希さんは、山を下りてしばらく経ってから歩くペースがガクンと落ちた。そして、それからずっと右足の踵しか地面に付けずに歩いている。
明らかに、右足のつま先を付けることを避けている歩き方だ。
「そんな歩き方を続けてたら今度は踵を悪くする。怪我をしているなら手当をするべきだ」
「……ごめん、希……私、全然気付かなかった」
「私も……自分のことが精一杯で……」
「二人とも、謝るのは後だ」
俺は希さんに肩を貸して救護テントまで希さんを連れて行く。後ろからは凛恋と切山さんが付いてくる。
救護テントには数名の生徒が手当をしてもらって休んでいた。そして、いつもは保健室に居る先生が救護テントを訪ねた俺達に視線を向ける。
「どこか調子が悪いところがあるの?」
「この子の右足の裏を診てください」
「はい。じゃあその椅子に座って右足を出して」
希さんは保健室の先生の指示に従って、用意されていたパイプ椅子の上に座る。そして、靴を脱いで右足を持ち上げ、靴下を脱いだ。
「イッ……」
靴下を脱いだ瞬間に、そう希さんが声を漏らす。その希さんの様子を見た保健室の先生が希さんの足の裏を見て顔をしかめた。
「マメが潰れて血が出てる。すぐに消毒しないと」
脱脂綿に消毒液を染み込ませて保健室の先生が希さんの足の裏を消毒する。
その間、希さんは傷口に消毒液が染みる痛みを我慢するためか、キュッと目を瞑って唇を噛んでいた。
消毒を終えて絆創膏を貼り、一応包帯を巻いて保護した後、保健室の先生は小さく息を吐いた。その表情は、晴れやかではない。
「残念だけど――」
「歩けますッ!」
保健室の先生が言葉を言い終える前に、希さんはそう言った。
目に涙をいっぱい浮かべてそう訴える希さんの前に座り込み、保健室の先生は横に首を振った。
「ダメよ。こんな状態で残り五キロを歩いたら怪我が悪化するわ。それは、保健室の先生として、大事な生徒を預かる身として許可出来ません」
「そんな……あと少しなんです! あと少しでっ! ……あと、少しで……ゴールなのに」
「希……」
凛恋と切山さんが希さんの両脇に座り込んで背中を擦る。そうやって励ます二人の目にも涙がいっぱい溜まっていた。
希さんが単にリタイアが恥ずかしいから拒んでいるわけじゃないことくらい分かる。
それが俺も、凛恋も、切山さんも分かるからやり切れない思いになる。でもこのまま希さんを歩かせれば希さんの怪我を悪化させてしまうことになるし、希さんに痛い思いをさせることになる。
俺はスマートフォンを見て時間を確かめる。
今の時間はもうすぐ一八時というところ。既に日は落ちて空は暗くなっている。
空を見上げた俺の顔に、ポツリと冷たい雫が落ちてきた。その雫はすぐに数を増やして大雨になった。
昨日見た天気予報で降水確率は八〇パーセント。今まで降らなかったことが奇跡的なくらいだ。でも……正直、もう少し保ってほしかった。
足を怪我している上にこの大雨。この状況では絶対に保健室の先生は希さんが歩くことは許さないだろう。
「あの」
「何?」
俺は、テントの下で雨が降る夜空を見ている保健室の先生に話し掛ける。そして、希さんをチラリと見てから言った。
「希さんの足、歩かなければ悪化しないんですよね?」
俺のその質問に、保健室の先生は眉をひそめて戸惑った表情を見せる。しかし、保健室の先生はその戸惑った表情のまま確かに頷いた。
「ええ、歩かなければ悪化はしないわ」
俺はその確かな言葉を聞き終えて、今度は希さんの側に居る凛恋と切山さんに視線を向ける。
「凛恋と切山さんは怪我とかしてない? 怪我とかしてなくても、何か体調が悪いとかは?」
「私は大丈夫だけど」
「私も、大丈夫」
「そっか」
凛恋と切山さんがはっきりそう言う。疲れは見えるが、本当に怪我等はないようだ。
「凛恋、切山さん。希さんの鞄から合羽を出して着せてあげてくれ」
「えっ? う、うん」
「わ、分かった」
戸惑う二人が希さんに合羽を着せる様子から視線を逸らすと、視線を逸らした先に居る保健室の先生が俺を睨んでいた。
「あなた! この子は足に怪我をしているのよ! それなのに歩かせようとするなんて! あなた男の子でしょう!」
「歩かせませんよ」
「じゃあ、なんで合羽なんて着させるの!」
「合羽着てないと濡れるからですよ」
「バスに乗って学校まで行くんだから合羽なんて必要な――」
「俺が背負って行きます」
「はっ?」
保健室の先生は俺の言葉を聞いて目を見開いて唖然とした表情をする。そしてすぐに薄ら笑いを浮かべて鼻で笑った。
「あなた、自分が何を言っているか分かってるの? ここまで七五キロも歩いて来た人間が、ここから五キロを人一人背負って歩くなんて、そんな無茶苦茶な――」
「そもそも八〇キロ歩かされてる時点で無茶苦茶やらされてるんです。これ以上無茶苦茶やったって同じですよ」
俺が言っていることが無茶苦茶なのは分かっている。でも、たとえ無茶苦茶だとしても、俺はその無茶苦茶を通さないといけない。
七五キロ歩いた今でも、開始時に聞いた校長先生の歩こう会の意義なんて理解出来ない。
自分との戦いとか分からないし、なんで八〇キロも強制的に歩かされてる上に、こんなどう見たって冴えない男のことを考えさせられないといけないのか全く分からない。
でも、意義が分からなくても俺には約束がある。
栄次とは希さんを無事に刻雨まで送り届けると約束した。
みんなとスタート前に、絶対に四人一緒にゴールしようと約束した。
そして、凛恋とは楽しい思い出を作ろうと約束した。
その全ての約束に共通して言えるのは、希さんが欠けたら絶対にその約束は果たせないということだ。
学校行事の意義なんて知らん。でも、友達と交わした約束の大切さは分かる。
友達なんて無縁の生活を送っていた俺には、友達との約束がどれだけ重要で守らないといけないことか分かる。
友達という存在が、自分を削ってでも守らないといけない、掛け替えのない存在だということが分かる。
だから、絶対にここで希さんを見放すことは出来ない。
最終的なタイムリミットは二一時。残り時間は三時間。
その時間で運動なんてこれっぽっちもしていない俺が、希さんを背負って歩き切れるか分からない。
そもそも、途中で力尽きてしまうかもしれない。
でも……。
「かずと、くん……」
凛恋と切山さんが希さんに合羽を着せ終え、俺もすぐに自分の鞄から合羽を出して手早く着替える。そして、涙を流して目を真っ赤にした希さんの前にしゃがんだ。
「絶対に四人で一緒にゴールするんだろ? 希さんの言葉に載せられてここまで来たんだ。言い出しっぺに一人でリタイアなんてさせるか」
「かず、と……くん。ありがとう」
「今お礼を言われても困るな。まだゴールしてないし」
「ちょっと! あなた達!」
俺が希さんを背負って立ち上がると、保健室の先生がそう声を荒らげる。しかし、俺はその声を無視して、大粒の雨が打ち付ける夜空の下に歩き出した。
頭に被った合羽のフードに大粒の雨が打ち付ける音が聞こえる。背中に背負う希さんを背負い直しながら、俺は一歩一歩足を踏み出した。
俺と希さんの荷物は、凛恋と切山さんが分担して持ってくれている。だから、その分は楽だ。
どれくらい時間が経っただろうか。既に空は暗くなっているし雨も降って視界が悪い。
道を歩きながら、俺は唇を噛む。
合羽を着ているから体全体が濡れるのは防げている。しかし、靴までは防ぐことは出来ず、完全に水が染み込んでずっしりと重くなっている。
ただでさえ足に来ているのに、それに靴が濡れて重くなって、より俺が足を前に踏み出すスピードが遅くなる。
今の俺の足は重くて前に出しづらいのに、足の裏の感覚がほとんど無いという不思議な状況に陥っている。
約八〇キロを歩いているのだから感覚が無くなっても仕方ないのだが、どうせなら重さも感じなくしてほしかった。
うだうだと俺らしいことを考えながらも一歩一歩踏み出す足は止めない。
確実に、この踏み出す足を止めたら二度と歩き出せないのが分かっているから。だから、歩き続けるために歩きを止めない。
本当に明日が休みで良かったと思う。まあ、明日学校があったら出席率は半端なく低かっただろうが……。
明日は流石の凛恋も一日寝て過ごすだろう。ということは、明日は凛恋に会えないということだ。
そう考えた瞬間、また足が重くなる。ネガティブ思考は俺の専売特許だが、こういう時はそれが恨めしく思う。
その時、右手にそっと凛恋の温かい手が触れる。そして、視線を凛恋の方に向けると、凛恋が疲れた顔で微笑んで口を動かした。
『明日、家に来てほしいな。凡人と一緒に居たい』
大雨の音で声は聞こえなかった。でも、確かにそう言った。そう言ってくれた。
明日凛恋に会える。明日ずっと凛恋と一緒に居られる。そう思った瞬間、一気に足が軽くなった。一気に歩き続ける活力が出た。
いつだってそうだ。俺のネガティブ思考を凛恋はいつもポジティブ思考に変換してくれる。そして、今も、今にも立ち止まりそうな俺の足が歩く力をくれた。
明日は世間一般的には平日だ。
当然、凛恋の両親は仕事だし、優愛ちゃんは学校。ということは二人っきり。
凛恋の家に二人きりなんて、付き合う前に凛恋の家に一度言った時以来だ。
そう考えるとドキドキするし、明日にならないかと思えてくる。でもそのためには、早く歩こう会を終わらせなければいけない。
「学校……見えてきた」
切山さんの声が聞こえて、ずっと足下に下ろしていた視線を久しぶりに正面へ向ける。すると、いつの間にか見慣れた道に来ていて、その視線の先に刻雨の校門が見えていた。
「凡人、もうすぐだよ!」
「多野くん、頑張って!」
両隣から凛恋と切山さんの励ます声が聞こえる。そして、後ろから俺の背中に乗っている希さんの声が聞こえる。
「凡人くん……」
「希さん、ちゃんと栄次に説明してくれよ。着いた途端に栄次に怒鳴られたら疲れるから」
「うん、ちゃんと栄次に言うよ。凡人くんが凄く格好良かった……ううん、凄く格好いいよって」
「ちょっと希? 私の彼氏に惚れてないでしょーね」
横から凛恋が明るい声で希さんに話し掛ける。その凛恋の言葉に、クスクスと笑う希さんの声が聞こえた。
「どーかなー?」
凛恋と希さんの明るいやりとりを聞きながら、俺は目前に近付いた校門を見る。
校門前ではゴールする生徒を出迎えるためか、学校に待機していた教師や生徒の保護者の姿がうっすらと見える。
「希!?」
その集団の中で、傘を持った栄次の姿が見えた。目をまん丸に見開いて俺達を見ている。そして、真っ先に俺の背中に乗っている希さんの心配をする。それでこそ希さんの彼氏だ。
校門を潜り、俺は栄次に顔を向ける。
「栄次、希さん……ちゃんと送り届けたからな」
「あ、ああ、でもどうして希がカズに背負われてるんだ?」
「私が足を怪我して、凡人くんはここまで背負ってくれたの」
「足を怪我!? 大丈夫なのか?」
栄次が慌てて、包帯の巻かれた希さんの右足を見る。
「うん、大丈夫。栄次、凡人くん本当に格好良かったよ」
「えっ? ちょっ、それどういうことだよ!」
明らかに状況を理解し切れていない栄次がうろたえるのを見て、希さんがクスクスと笑い、それに釣られて凛恋と切山さんもクスクスと笑う。
俺も、みんなに釣られて小さく笑った。
「カズッ! この二日で希と何があったんだよ! ちゃんと話してもらうからな!」
明らかに勘違いしている様子の栄次は、俺の肩を掴んで揺すりながら怒っている。でも、そんな栄次を見ても、俺達はクスクスと笑った。
「栄次、説明してやりたいんだが、それには栄次にも八〇キロ歩いてもらわないといけないぞ」
「そうね。これは歩かないと分からないわね」
「そうだね。来年は喜川くんも一緒に歩いてみる?」
「栄次と一緒なら、来年はもっと楽しいかも」
怒っていた栄次は、俺達のそのやりとりを見て、何か察したようにホッと一息吐いて微笑んだ。
「まったく……詳細は後で聞くとして、みんなお疲れ様」
栄次が爽やかに微笑んで言うのを見て、俺は大きくため息を吐いた。
「この疲れた状況で、栄次の笑顔は精神的に響くな」
「なんでだよ!」
栄次が俺の言葉に抗議すると、また三人が笑い声を上げる。それを見て、栄次は頭を掻いて困った表情をした。
この二日で起きた出来事を説明することは時間があれば出来る。でも、この二日で俺達が感じたことは言葉ではどうやっても説明出来ない。
同じ体験をした人にしか共有出来ない感覚だからだ。
でも、だからこそ、俺達は歩き抜けたんだと思う。
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