【四八《兆し》】:一

【兆し】


 意識が覚醒した途端、両足に激痛が走る。


 昨日、八〇キロを歩き抜いた末に、学校からまた歩いて帰るという苦行を乗り越え、用意されていた風呂に入って足を揉みほぐし疲れを取った。

 そして、晩飯を食べる力も残っていなかった俺は、そのままベッドに倒れ込んですぐに意識を失った。

 で、起きたら両足の激痛である。


「……昨日、あんだけほぐしたのにダメだったのか」


 痛みの正体は筋肉痛。日頃、運動なんてしない俺がいきなり八〇キロも歩いたのだから仕方がない。


 刻雨高校の生徒は、年明けすぐに毎年開催される歩こう会のために、数ヶ月前から体育の授業で持久走が始まり体力強化が学校主体で行われるらしい。

 しかし、俺が転入したのは年が明けてから。だから、体力強化なんてされているわけもなく、この様だ。


「今、何時だ? イテテッ……」


 時間を確認しようと体を動かして分かった。

 筋肉痛は足だけじゃない。腕も背中も腰も、とりあえず全身くまなく筋肉痛になっているようだ。


 ギシギシと軋む筋肉を無理矢理動かしてスマートフォンを手に取る。時間はもうすぐ一一時になろうという頃、今日は休みだが、それにしてもよく寝た方だろう。


 一度手に取ったスマートフォンを再びテーブルの上に置いて、ベッドの上に体を預ける。自分で自分の体を支えるのが辛い。

 もう田丸先輩はとっくの昔に学校に行っている時間。

 爺ちゃんと婆ちゃんは居るだろうが、母屋の方が静かということは、また二人で買い物にでも行っているのだろう。


 俺達の家も、やっと前みたいに静かな生活が戻りつつある。

 このまま、世間の冷たい目が無関心の目に変わってくれればそれが一番だ。


「うぁ~……だるぃ~」


 ベッドの上で呻いてみる。しかし、ちっとも筋肉痛は引かないし気怠さも取れない。今日はこのままジッと――。


『明日、家に来てほしいな。凡人と一緒に居たい』


 尋常じゃない気怠さに俺の思考が負けそうになった時、その凛恋の声が頭に響く。

 昨日、雨の中を歩いている時に聞こえた凛恋の声。本当にそう言ってくれたかは確認していない。

 もしかしたら俺のおめでたい妄想なのかもしれない。でも、その凛恋の言葉で俺は遂にベッドの上で体を起こした。


「か、体が……ミシミシいってる……」


 筋肉だけでなく関節もかなり疲労が溜まっているようで、関節をほぐそうと動かしたら、関節が軋む音が聞こえた、ような気がした。


 少しずつ関節を動かしながらほぐし、やっと普通に生活出来る可動域まで動くようになった時、テーブルの上に置かれたスマートフォンが震える。

 テーブルからスマートフォンを拾い上げて画面を見ると、凛恋の名前が表示されていて、俺は今動かせる最速の指の動きで電話を取った。


「おはよう凛恋」


 電話に向かって俺が話し掛けると、少し間を置いた後、凛恋の疲れた声が聞こえてきた。


『かずとぉ~、体が痛いよぉ~』

「筋肉痛か?」

『うん……物凄く体が重い……』

「俺も朝起きたらヤバかった。でも、今はなんとか解れてきたぞ」

『凡人……昨日の、聞こえてた?』


 凛恋のか細い声で聞かれ、俺は胸がドキドキしながら恐る恐る口にする。


「家に来てほしい、ってやつか?」

『うん……凡人と一緒に居たいな……凄く、寂しいの』

「今すぐ行く!」


 俺という人間の単純さを改めて知らしめられる。

 凛恋に弱った声で寂しいなんて言われたら今すぐ言って抱き締めたくなる。

 その衝動には、たとえ八〇キロを歩いた翌日の筋肉痛と気怠ささえ勝つことは出来ない。


『でも……凡人も体痛いんじゃ……』

「寂しがってる彼女のためなら這ってでも行くに決まってるだろ」


 起き上がることでさえかなり時間を掛けないと出来なかった体に鞭を打って、俺は思いっきりベッドから立ち上がる。すぐに支度をして早く凛恋に会いに行きたい。

 俺は電話を続けながら、適当に着替えを引っ張り出してベッドの上に放り投げる。


「凛恋、行き掛けに昼飯を買っていくから何か食べたいものとかあるか?」

『うん~……ハンバーガーと、甘い物が食べたい』

「分かった。俺が行くまで寝てていいからな」

『ありがとう、凡人。……あっ』


 俺が電話を切るために言葉を発しようとすると、凛恋が何か思い出したようにそう声を出す。俺は着替えを続けながら凛恋の言葉を待った。


『……凡人?』

「ん?」

『やっぱ後で言う』

「なんだそりゃ」

『だから……早く来てほしいな~』


 凛恋の甘えた声に胸がドキッと跳ね上がり、ギュウっと締め付けられる。

 いつもの明るく元気な凛恋ももちろん可愛いが、弱っている凛恋は守ってあげたい衝動に駆られる。

「すぐ行くから!」

『うん、待ってる』


 電話を終えて大慌てで着替えを済ませようとする。

 今の俺には、体が痛いとか気怠いとか、そういうことよりも、ただ一秒でも早く凛恋に会いたい気持ちしか無かった。



 行き掛けに、凛恋の要望通りハンバーガーと、甘い物としてシュークリームを買って、俺が凛恋の家の前に着いた時には既に一二時を回っていた。


 インターホンを押してしばらく待っていると、控えめに玄関のドアが開かれて、ひょこっと凛恋の顔が見える。

 俺が手を振ると凛恋が真っ赤な顔をして中へ戻ってしまった。すると、ポケットに入れた俺のスマートフォンが震える。


「凛恋? なんで戻ったんだよ」


 掛かってきた電話を受けて、電話の主である凛恋にそう尋ねる。それに対して、電話の向こうの凛恋は恥ずかしそうな声をして話し出した。

『や、やっぱ、ちゃんとした服着てくる』

「ちゃんとした服って、今は何を着てるんだよ」

『スウェットとパーカー……』

「いや、それちゃんとした服だろ」

『もっと、ちゃんと外に出られる服に――』

「今日は外に出たくないぞ、俺」

『……でも』

「大丈夫だから、開けるぞ」


 玄関のドアに近付いて開けると、廊下に上がってすぐの場所で凛恋が俯き加減で、探るように俺へチラチラと視線を向けていた。


 落ち着いたアンバーローズカラーをした上下揃いのスウェットに、白のパーカー。

 パーカーはゆったりしていてスウェットの上に着ていても窮屈そうには見えない。そして、そんな凛恋は寝起きかつ昨日の疲れが残っているのか、目はトロンっとしている。

 化粧をしていない凛恋は幼く見えることも合わさり、とんでもなくギュッと抱き締めたい欲が湧き出てくる。


「……お、おはよう、凡人」

「おはよう、凛恋。昨日はお疲れ」

「うん……へ、変じゃない?」

「変どころかめちゃくちゃ可愛いぞ。普段、そういう格好の凛恋は見られないからな」

「そ、そう?」


 自分の姿を見て確かめる凛恋は、顔を赤くしたままニッコリ笑う。


「良かった。やっぱり、私の彼氏は凡人しか居ない」


 そう凛恋は嬉しそうに言ってくれるが、凛恋の今の格好は大抵の男ならドキッとしてしまうこと間違いない。

 だから、大体の男が俺と同じ感想を持つに決まっている。だが、凛恋が喜んでくれているし、凛恋の言葉は凛恋を独り占め出来ている実感があって嬉しい。


「入って」

「お邪魔します」


 靴を脱いで廊下に上がると、すぐに二階にある凛恋の部屋に上がる。家に入ってすぐに凛恋は俺と手を繋ぎ、一緒に階段を上る。凛恋の手は温かくふわふわと柔らかい。


「凡人、外、寒かった?」

「まあ、冬だしな」

「手がチョー冷たい」

「ごめん」

「ううん! そうじゃなくて、私のために寒いのに来てくれてありがと」

「そうだぞ。凛恋のためじゃなかったら、こんな日に俺は外を出歩かないからな」


 階段を上りきって言うと、凛恋は握った俺の手を持ち上げ、両手で包み込んでハァ~っと息を吹きかける。

 凛恋の温かい手と息に包まれて、鼓動が早くなり、外を歩いてきて冷えた体が一気にカッと熱くなる。

 凛恋が部屋のドアを開けると、フワッと部屋から甘い香りが漂ってくる。


「し、しまった! 換気してな――凡人?」


 部屋に入るなり窓に慌てて行こうとする凛恋の手を引っ張って引き留める。そして、正面を向かせてギュッと抱き締めた。


 凛恋の香りが充満した凛恋の部屋で、凛恋の体を抱き締めて更に強く凛恋の香りと温かさを感じる。

 寒さも疲れも押し出されて、心の中が、体の中が幸せでいっぱいになる。


 昨日からずっと、ずっとこうしたかった。

 石川の、あいつの目に凛恋が触れたあの瞬間から、ずっと凛恋をあいつの目から、俺以外の男の目から隠したかった。


「凡人?」

「換気なんてしなくていい。凛恋の匂いを外に出すなんて勿体ない」

「バッ――……も~、凡人にそういうこと言われるとめっちゃドキドキするし!」


 凛恋が抱き締め返してくれて、顔を上げて下から俺の顔を見上げる。そして、スッと目を優しく閉じた。

 すぼめて少し尖らせた凛恋の唇に、俺はゆっくり自分の唇を近付けていく。

 凛恋の唇から漏れる小さな息が俺の唇に触れる距離まで近付き、俺は、瞳を閉じて……凛恋の唇を奪い去――。


 クゥ~?


 その子犬の鳴き声のような小さな音が聞こえて、俺は近付けていた唇を止め、閉じていた瞳を開く。

 目を開いた先には、火が出るのではないかと思うくらいに顔を真っ赤にした凛恋が、ウルウルと潤んだ可愛い二つの瞳で俺を見て、小さく言った。


「ごめん」

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