【四一《戦略的撤退》】

四一戦略的撤退


「カズ、起きろ」


 目蓋を開くと、目の前に栄次の顔があった。最悪な目覚めだ。なんで凛恋じゃないんだろう。


「凛恋さんじゃなくて残念だ。みたいな顔をするなよ」


 テーブルの前にあぐらを掻いて座った栄次は、両腕を組んで俺に爽やかな笑顔を浮かべる。

 俺はテーブルの上に置いてあるスマートフォンを見て時間を確認する。表示されているのは九時半を丁度回ったところ。そして、今日は平日。

 手に取ったスマートフォンのメモ帳を起動し、俺は『学校はどうした』と文字を打って栄次に向けた。それを見た栄次は、ニヤッと笑う。


「それは俺の台詞だ」


 栄次にそう言われ、俺はばつが悪くなってスマートフォンを仕舞う。

 俺は今、いわゆる不登校になっている。だから、俺が栄次に平日に学校に行っていないことを指摘するのは、自分で自分の首を絞めるようなものだ。


「学校は休んだ。今日は大切な用事があるからな」


 大切な用事があって学校を休んだはずなのに、栄次は何故か俺の部屋であぐらを掻いて座り込んでいる。俺の家に学校を休むほどの用事があるとは思えない。

 ベッドの上に座って重い体を起こすと、栄次が立ち上がって部屋の入り口まで歩いて行く。


「着替えが終わったら出掛けるぞ。今日は、カズと遊びに来たんだからな」


 そう言って栄次が部屋の外に出て行く。俺はベッドから立ち上がり、キャビネットから着替えの服を出しながら栄次が出て行った部屋のドアを見詰める。そして、ため息を吐きながら着替えを始めた。



 まだ朝飯を食べていないのにも関わらず、俺は栄次に外へ連れ出される。

 俺の数歩先を歩く栄次は、俺の方を振り返って眉をひそめた。


「カズ、歩くのが遅いぞ」


 俺は栄次に言い返そうとしたが、当然まだ声は出るようになっていない。だから、せめて手を気怠げに振って意思を示してみる。


「とりあえず何か食べに行くか」


 俺の表情で察したのか、栄次は何かを食べに行ってくれるらしい。いや、無理矢理連れ出されているのだから、行って“くれる”というのは違う。


「もう、冬なんだよな~。あ!」


 栄次が歩きながらスマートフォンの画面を俺に見せる。画面には、仲良さそうに映っている栄次と希さんの画像だった。場所は何処だろう?


「希の部屋で勉強した時に撮ったんだ」


 嬉しそうに話す栄次を見て、俺は自分のスマートフォンを出そうとして止めた。俺のスマートフォンはあの時、名前も知らない男子達に壊された時から新しい物に変わった。それで今まで撮った画像データは取り戻せなかった。でも、ここ数日で撮った画像はある。あるのだが……。


「カズも凛恋さんとの写真あるだろ?」


 栄次から「お前も見せろ」という雰囲気が漂ってくる。しかし、俺としては見せづらい。


「カズだけ俺の彼女を見るのはズルイぞ」


 俺を煽るように栄次が言う。だが、見せづらいというだけで、別に見せられないわけじゃない。

 仕方なくポケットからスマートフォンを出して、凛恋と撮った画像を表示させてみる。

 凛恋がニコッと笑ってカメラに向かって饅頭を差し出している画像。

 凛恋がお茶を飲みながらカメラにピースをする画像。

 凛恋がベッドに横になって布団から半分顔を出している画像。

 ……見事に凛恋の画像ばかりだ。そして、俺と凛恋が写った画像はない。


 二人で撮った画像は凛恋が撮ることが多く、凛恋のスマートフォンには保存されている。そして、凛恋に画像を送ってもらっていた以前のスマートフォンにはちゃんと保存されていた。でも、新しいスマートフォンには送ってもらっていない。


 理由は、毎日嫌でも目にする男の顔なんて、わざわざ画像にして保存したくなかったからだ。それに俺と凛恋が写ったら、凛恋の写っている面積が狭くなる。


「カズは凛恋さんが大好きなんだな」


 横から栄次にからかわれる。人のスマートフォンを横から見るなんて悪趣味だ。

 栄次はすぐに視線を正面に向ける。


「俺が小学校を卒業してから、高校でこっちに戻って来るまで、カズのことは時々思い出してたんだ」


 男に言われても全く嬉しくない。

 俺の方は栄次に会うまで、栄次のことなんて頭の中から抜け落ちていた。だから、栄次の話には若干の罪悪感を抱く。


「向こうの中学でも友達は居た。でも、親友は居なかったんだ」


 栄次は人と上手くやっていける人間だからそんなことはない。中学時代も相変わらず人気者だったはずだ。


「お互い無難な感じでさ、そういうのを感じる度に俺が話し掛けても煙たそうにしてるカズのことを思い出してたんだ」


 栄次とよく話すようになってからは、栄次を煙たがったというより栄次の周りに集まる人を煙たがったのだ。


「高校でこっちに戻って来られて、カズの家に行こうと思ったんだけど、三年も経ってるし、カズもカズの生活があるからと思って行かなかったんだ。でも、高校が同じで嬉しかった」


 笑う栄次から視線を逸らして、俺は歩道に視線を落とす。

 俺だって、高校で栄次に会った時は嬉しかった。俺と普通に会話してくれる奴が居るのと居ないのでは大きな違いがある。それに、栄次は俺がどんな奴か分かっている。分かっていて小学校の六年間一緒に居てくれたのだ。栄次には恥ずかしくて言えないが、それでどんなに俺が救われたか。


「でも、俺は何も出来なかったからな。カズの人生を変えてくれたのは凛恋さんだ」


 遠くを見詰めて語る栄次は、何処か寂しげだった。でも、すぐに口を歪めてニヤリと笑う。


「凛恋さんが居たから、みんながカズの良いところを分かってくれたし、凛恋さんが居たからカズも他人に対しての壁が低くなった。だから俺は、カズは凛恋さんの側に居るべきだと思う」


 そう言った栄次は、それっきり喋らなくなった。でも、その沈黙も別に苦痛ではなかったし、栄次が言いたかったこともなんとなく想像は出来た。



 栄次の強制連れ出しツアーの最初の目的地ファストフード店でハンバーガーを食べ終えると、店の外に出た栄次は無言で歩き出す。

 街のメインストリートは平日でも変わらず人通りが多い。この道も、凛恋と、それから栄次と希さんとよく通る道だ。


 凛恋に半ば強制的に連れ出され、栄次と希さんと合流する。

 それから、仲の良い凛恋と希さんが主導で目的を決め、爽やかに笑って一歩後ろから見ている栄次に背中を押されながら付いて行く。でも結局、いつの間にか前を歩くのは希さんと栄次になり、俺の隣にはニコニコ笑う凛恋が居るのだ。


「カズ、あのカラオケ屋覚えてるか?」


 栄次が指さす方向を見ると、一軒のカラオケ屋がある。そのカラオケ屋は、栄次と俺が初めて凛恋と希さんと出会ったカラオケ屋だ。


 あの時は、栄次に騙されて大人数の集まり、いわゆる合コンの人数合わせにされた。正面、面倒くさかったし早く帰りたいとも思った。でも、その出会いが大切な人が出来るきっかけになるとは思わなかった。


「あの時、カズが来てくれて本当に助かった。カズが来てくれたから、希と付き合えたし」


 栄次はそう言うが、希さんと栄次が付き合う付き合わないに、俺は全く関わっていない。二人が勝手に仲良くなって勝手に付き合ったのだ。


「それにしても、本当にカズは鈍感だったよな」


 クスッと笑う栄次に不満を込めた視線を向ける。恐らく凛恋とのことを話しているのだろう。

 凛恋は、あのカラオケ屋での合コンの時、カラオケ屋の前で凛恋達を待っていた俺を見て一目惚れしてくれたらしい。

 それで、俺と仲良くなろうとしてくれていたらしいが、俺は面倒くさかったのと、俺が凛恋達みたいな明るい場所に居る人達と仲良くなれるわけがないと思って避けていた。


 今思えば、何であんなことをしたんだと思う。凛恋が熱心に誘ってくれていたのに、俺はそれを断っていた。その辛さや悲しさを、俺は夏に思い知った。


 栄次が歩く道の途中、駅の前を通る。この駅もよく栄次達との待ち合わせで使う。

 駅を通り過ぎてしばらく歩くと、人や建物でごちゃごちゃしていた周りがシンプルになってくる。そして、完全に拓けた場所に出る。


 河川に架かる橋を渡り、栄次は横に伸びる河川敷を行く。

 この河川敷は、凛恋を探しに来て見付けた河川敷だ。

 俺と凛恋は、夏休みに些細なことですれ違いをした。そのせいでお互いに遠慮して関係がギクシャクしていた。そんな関係を変えられたのがこの河川敷だ。


 仲直りのために凛恋と駅で待ち合わせをして、待ち合わせの時間になっても凛恋が現れなかった時は本当に焦った。凛恋が事件に巻き込まれたかもしれないと思って、家まで迎えに行かなかった自分を責めた。


 栄次が河川敷を下りて橋脚に近付いて行く。俺はそれに付いて行きながら橋脚の腹を見た。

 あの橋脚は、俺が名前も知らない男子達にボコボコにされた場所だ。


「ここでカズを見付けた時、カズの制服は砂と血で汚れてた。それで……それを見た凛恋さんが、ずっとカズの名前を呼びながらカズにしがみついてた。凄く取り乱してて涙を流してて、見てられなかった」


 それを聞いて、俺は自分が倒れていたはずの場所に目を向ける。

 凛恋は俺のことを本当に心配してくれていた。それに、俺をボコボコにした男子にも憎しみを持って、持たせてしまっていた。それにその憎しみの対象が、俺の母さんに向いてもいるのが感じられた。

 そのことについて、俺は悲しいとは思わなかった。それどころか、救われる思いがあった。


 母さんから俺の存在を否定されても、俺は母さんが実の母親という事実を否定することは出来なかった。でも、代わりに凛恋が否定してくれた。

 普通は、実の母親を否定されたら傷付くのかもしれない。だけど、母さんが否定されなかったら、俺が生きていることも否定されるということになる。でも凛恋は、母さんを否定して俺を肯定してくれた。


「希に聞いたんだけど、凛恋さん……カズの声が出なくなったって聞いた時、泣き出しちゃったらしいんだ。でも、カズが辛いのに悲しい顔を見せられないって頑張ってたらしい」


 俺は栄次より前に出て、栄次の声を後ろに聞く。きっと、今は酷く情けない顔をしているだろうから、栄次に見られたくなかった。

 凛恋を泣かせて強がらせて、そして俺を心配させないようにと、凛恋に頑張らせてしまった。


「カズ……刻雨の転入試験受けてみろよ」


 栄次の言葉に思わず振り向く。


「凛恋さんから聞いたんだ。カズが決めるのを待ってるってことも。……俺は、カズは刻雨に行くべきだと思う。情けないけどな」


 情けない。その言葉の意味が分からず、俺は眉をひそめる。栄次の表情からは、俺に情けないと言っている様子ではない。


「カズは俺と希のために色々してくれた。それこそ苦手な人付き合いにも付き合ってくれた。でも、俺はカズに何も出来てない。それに……今回のことも何も」


 栄次に近付き、栄次の胸に拳を当てて軽く叩く。何を気にしているのか分からないが、今回のことで栄次が悪くないことだけは確かだ。

 凛恋も栄次も、俺のことで責任を感じ過ぎている。凛恋も栄次も、二人とも責任を感じる必要はないのに。


「希に怒られた時のことを思い出した。カズが凛恋さんのことを好きになった時、告白しないって言ったカズを情けないって言った時。あの時、希に『なんでちゃんと多野くんの気持ち考えてあげないの』って怒られた時のことを」


 栄次は手の甲で目元を拭い、かぶりを振った。


「カズに対して俺は遠慮しなかった。それに慣れていつの間にか、カズの気持ちを考えるのもしなくなってたんだ。いや……いつだって誰かに気を遣っていたのはカズだった。俺はそれに便乗してただけだったんだ。だから、俺は肝心な時に、いつも人の気持ちを考えられない。今回の件だってカズを一人にするべきじゃなかった。教室で待っててくれって言ってればそれで済んだんだ。それを、カズのことなんて少しも考えずに先に行かせた」


 栄次は、胸を叩く俺の拳を握って、自分で何度も俺の拳を胸に打ち付ける。


「刻季に居たらカズは駄目になる。あんなことが起こっても生徒の中にはカズを悪く言う奴がまだ居る。それに、学校の先生達だってちょっとアンケートを採って、保護者会を開いただけ。カズのために誰も動こうとしない。みんな、自分達の立場とか世間体とかばかり考えてる。だから、刻季に居てもカズに良いことは何一つ無い」


 俺の拳から手を離し、栄次は爽やかに笑う。


「三年間会ってなくても親友なんだ。学校が違っても親友だろ?」


 俺は「当たり前だろ」と返事しようとして口を開く。でも、声が出ずに拳に力を入れる。肝心な時に何も出来ないのは俺も同じだ。

 声が出ない俺は、真正面に立つ栄次の胸にまた拳をぶつけようとする。でも、俺の拳が栄次の胸に当てる前に、栄次の拳が俺の拳とぶつかった。



 栄次の強制連れ出しツアーで河川敷を訪れた後、栄次の歩くままについて行くと見慣れた建物が見える。刻雨高校の校舎だった。

 刻雨高校の校門前に俺を連れてきた栄次は、校門の奥にある校舎の方を見詰めて呟く。


「希とこれからデートだから解散な」


 唐突な解散宣言に、俺は栄次へ視線を向けた。もちろん非難する視線だ。

 確かにスマートフォンを見れば、そろそろ刻雨の授業が終わる頃だ。それを考えれば、希さんの下校に合わせて刻雨へ来るのも分かる。


 俺はスマートフォンを取り出して、凛恋にメールを送る。文面は『栄次と刻雨の前に居る』というシンプルなもの。

 メールを送ってすぐに刻雨高校のチャイムが鳴り響く。そして、スマートフォンの画面にメールの受信画面が表示され、メーラーを開いてメールを確認する。


『すぐ行く!』


 その凛恋からのシンプルなメールを見て思う。すぐに行くって言っても、ショートホームルームがあるからすぐに出て来られるわけがない。


 チャイムが鳴り終わった後の校門前は静かでボーッと目の前の風景を眺める。刻季のように謎ポーズの石膏像も無いし、刻季よりも校門から校舎までの距離が短い。


 高校なんて大して変わらない。専門的な学科のある高校なら別だが、普通科高校なんて人と場所が違うだけでやることは変わらない。

 その人だって、数人良い人が居たってその他の人達が全員良い人だとは限らない。だから、俺が刻季から刻雨に行っても、結局は変わらないと思う。


 人と話すのが苦手な俺は、刻雨に来ても結局クラスの端で座っているだけだ。

 凛恋や希さんが居れば昼休みは一人にはならないと思う。でも、刻季に居ても昼休みになれば栄次が来るから今と変わらない。そして、俺のことを知ればみんな距離を取るに決まっている。

 それに、距離を取ることでは終わらず、暴力や暴言に出ることもある。もし、俺が刻雨に行けばそんな暴力や暴言に、凛恋や希さんを含めた凛恋の友達を巻き込む可能性だってある。


「戦略的撤退は恥じることじゃないだろ」


 校舎を見たままの、栄次の言葉にハッとする。栄次の声は鋭く避ける暇も無く心に突き刺さった。


「このまま刻季に居たって、カズの心がただ傷付いてすり減るだけだ。だったら、もっと先、高校を卒業して大学に行って、それから社会に出ることを考えて行動するべきだ」


 自分でも分かっている。このままズルズルと不登校を続けるべきじゃないことは。そして、もう刻季に戻るのも不可能なことくらい分かっている。

 俺は、退院して家に戻ってきた時に、通学鞄や運動着等の刻季を連想させるものを全部段ボールに入れて仕舞い込んだ。それは、俺が本能的に刻季という場所を拒絶しているということだ。だから、もう刻季に戻ることは出来ない。


「栄次。俺、刻雨の転入試験を受ける」

「カ……ズ? 声が」


 自然と声が出た。長い間出せていなかったのに、少しも涸れていなかったし霞んでもいなかった。


「それと、俺と栄次はずっと親友だ」

「カズ……ああ、当たり前だろっ!」


 栄次が横から俺の首に腕を回して引き寄せる。そして、乱暴に俺の頭を撫でた。


「刻雨に行ったら、希に変な男が近付かないように見張っといてくれ」

「俺が何か言わなくても、栄次から希さんを取れる奴なんて居ないって」


 栄次の腕を首から引き剥がしながらそう答えていると、刻季の校舎の正面玄関が音を立てて開いた。

 肩にバッグを掛けて校舎から飛び出して来た凛恋は、校門前に居る俺を見て更に加速する。

 走ってきた凛恋が俺の前で立ち止まり、息を切らせて俺を見上げる。


「おつかれ、凛恋」


 俺がそう言うと、凛恋は目を丸くして手で口を覆い、ジワリと涙を目に滲ませた。


「凡人……凡人ッ!」


 学校の前ということを忘れているのか、凛恋は俺の首に手を回して飛び付いてくる。そして、ギュッと抱き締めて俺の名前を何度も呼んだ。


「凛恋、心配掛けてごめん。それと、俺、刻雨の転入試験を受けることにする」

「うん……うん」


 涙を流しながら頷く凛恋の頭を撫でていると、凛恋から大分遅れて、大慌ての希さんが校舎から出てくるのが見える。

 初冬の候、もう本格的な冬が目の前に近付く今の季節。風は冷たく夕方の今は気温も大分低くなってくる。

 でも、俺の周りは凄く暖かい。

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