【四二《幸福な空間》】:一

四二幸福な空間


 高校の転入試験を受けるために色々と書類を用意しなければいけない。そのうち、俺が今在学している刻季高校に出してもらわなければならない書類もいくつかある。

 その書類を取りに行くために俺は家を出た。制服は血で汚れたり破れたりしていて使い物にならなくなった。だから服装は私服だ。


 事情が事情だから、送付という方法も提案されたが、俺はそれを断った。

 俺が転学するのはただ逃げるためじゃない。それを証明するためにも行く必要があった。


 誰か他人に証明するわけじゃない。自分自身に証明するためだ。

 自分自身に、逃げるためだけじゃないと、先を見据えて、これからのために転学するのだと証明するためだ。


 久しぶりに着いた学校は、当然だがいつも見ていた学校と何も変わっていなかった。でも、もう俺がこの学校に来ることはない。

 結局、意味が分からないままだった、謎ポーズの石膏像を通り過ぎ、来客用のスリッパを履いて進路指導室へ向かう。

 進路指導室は入り口の近くにあり、ドアをノックする。


「多野凡人です。書類を受け取りに来ました」

「入りなさい」

「失礼します」


 男性の返事を聞いてからドアを押し開ける。中にはグレーで統一された事務机に事務椅子、事務書棚が並んでいた。

 事務椅子の上に男性教師が腰掛けていて、俺を見て少しだけ視線を逸らした。


 俺の目の前に居るのは進路指導部の先生じゃない。生徒指導部の先生だ。そして、夏休み前の俺に対する中傷が書かれたビラがばら撒かれた時、俺を犯人だと言い張った先生だった。

 あれから学校ですれ違うくらいで、こうやって一対一で話す機会は無かった。


「書類を受け取りに来ました」


 俺としてはさっさと用事を済ませて帰りたい。男性教師の前にある事務机の上に封の閉じられた紐付き封筒が置かれている。あれに俺が請求した書類が入っているに違いない。


「多野……あの時は悪かった」


 立ち上がった男性教師が俺に深々と頭を下げる。あの時とは、当然ビラのばら撒きで俺を疑った時だろう。

 もうあれから半年近く経っている。だから、男性教師の謝罪は今更だ。

 問題が既に風化して、誰も覚えていないような出来事になっているのに、今更謝罪をする理由。それは、俺の転学が原因なのは明らかだ。


 生徒指導部としては、俺が巻き込まれた暴力事件は大失態だったはずだ。

 生徒指導部の監督不行き届きや指導不足は当然多方面から指摘されただろう。その上、過去にこの男性教師は無実の罪で俺を疑っている。

 その二つが重なれば、大抵の人が罪悪感を覚えるだろう。そして、大抵の人がその罪悪感から逃れようとする。


 男性教師の謝罪を、俺は心からの謝罪なんて思わない。

 タイミングからして、ただ自分に伸し掛かる罪悪感を拭いたかった、減らしたかっただけだ。


「書類を貰っても良いですか?」


 俺は男性教師の謝罪には答えず、書類を催促した。俺にはもう、どうでも良いことだからだ。

 男性教師が罪悪感を拭いたい。という気持ちを持って謝ったとしても、俺には関係ない。

 それで男性教師の罪悪感が拭えても拭えなくても俺にはどうでもいいことなのだ。

 俺は今日、書類を取りに来たのであって、誰かを救済しに来たわけじゃない。


「これが頼まれた書類だ」

「一応、中を確認させてもらいます」


 やっと紐付き封筒を差し出してくれて、俺はそれを受け取って中身を確認する。

 請求していた書類は全て確かに入っている。それを確認して、俺は紐を巻いて封を閉じた。


「お手数をお掛けして申し訳ありません。確かに受け取りました。ありがとうございました」

「ああ、刻雨に行っても頑張れよ」

「はい、失礼します」


 頭を下げて進路指導室を出る。これでやっと帰れる。

 指定された時間が授業終わりの時間だったせいか、進路指導室を出た時には、下校する生徒や部活に行く生徒で廊下がごった返していた。


 制服の生徒達が歩く中で私服の俺は目立つ。しかし、行き交う生徒達は俺を見ようとはしない。見えてはいるが、視線を逸しているのだ。

 相変わらず全く居心地の良くない雰囲気の廊下を歩いて、校舎の出入り口に向かっていると、目の前に人が飛び出してきた。


「うわっ!」


 危うくぶつかりそうになって、思わず俺はそう声を上げる。

 飛び出してきた人影は、俺の前で立ち止まって胸に手を当てて息を整える。そして、俺に目を向けて口を開いた。


「間に合って良かった」

「鷹島さん、どうしてここに」

「クラスメイトが転校最後に登校するのに、見送らないわけがないでしょ?」


 そう言った鷹島さんは俺に小さな包みを差し出す。


「これ、良かったら貰って」

「いいのか?」

「多野くんにはお世話になったから」


 鷹島さんにそう言われてから俺は少し困りながらも包みを受け取る。


「良かったら、連絡先を教えてもらえない?」

「栄次のか?」


 俺がそう答えると、鷹島さんは眉をひそめて怪訝な表情をした後、クスッと小さく笑った。


「なんで喜川くんの連絡先なの? 多野くんの連絡先に決まっているでしょ?」

「いや、俺なんかの連絡先聞く人なんて居ないし」

「あら、友達の連絡先は聞くものでしょ? 安心して、別に恋愛感情はこれっぽっちも無いから」


 女子に「恋愛感情はこれっぽっちも無い」と言われるのは複雑なものだ。

 俺には凛恋が居るから、恋愛感情があると言われても困るだけだ。だが、まるっきり無いと断言されるのも男として傷付くものがある。


「ここだと人も多いし、教室に来ない?」

「いや――」

「もう誰も残ってないわよ?」

「じゃあ、教室で」


 正直、教室に行くのは気が進まなかったが、人の往来が激しい廊下で突っ立つのも迷惑な話だ。

 歩き出す鷹島さんに付いて歩き出すと、隣に並んだ鷹島さんが俺の方をチラリと見た。


「元気そうで良かったわ」

「お陰様でなんとか生きてる」

「暴行事件のことを聞いて心配していたの。それに、その前には失声症もあったし」

「心配を掛けて申し訳ない。けど、もう大丈夫だ」


 すぐに俺が使っていた教室に辿り着き、俺は自分の座っていた席に視線を向ける。が、俺が使っていた席は無くなっていて、その列だけ席が一つ少なくなっていた。


「ごめんなさい。私はまだ残しておくべきだと言ったのだけれど、先生に学校の決定だからと言われてしまって」

「いや、鷹島さんが謝ることじゃないだろ」


 もう辞めると分かっている奴の席を残しておいても無駄。だから、撤去されていて当然だ。

 鷹島さんは両手を前に組んで俺に向かって頭を下げた。


「ごめんなさい。多野くんが文化祭の話し合いで残ってくれた時、多野くんは印象にない人なんて言ったけど、本当は高校に入って多野くんの良くない噂を聞いてて知ってた」

「良くない噂?」

「多野くんは人を無視するし人の悪口を陰で言う人だって噂」

「ああ」


 俺と同じ中学の奴が好き放題言っているから、俺に対する悪口は同学年に広まっている。だから、鷹島さんがその辺りの話を聞いていても不思議ではない。


「私は、その話を聞いて多野くんと距離を取っていたわ。無視はしていないけど関わろうとしなかったのだから、無視をした人と同じことをしてしまった。本当にごめんなさい」

「そりゃあ悪い噂が立ってたら誰だって関わらないようにするだろう」


 鷹島さんの行動は誰でもやることで咎めるようなことじゃない。

 触らぬ神に祟りなしと言うことわざもある。

 揉め事の種になりそうなこととは関わらないようにする。その鷹島さんの判断は間違っていないし、むしろ正しい選択だと言える。


「人の噂を鵜呑みにするなんてバカなことをしたと思ってる。本当の多野くんは、噂のような人ではなかったわ。真面目でとても優しい人だった。…………もっと早く、多野くんと話をしていれば良かった。そうしたら、もっと多野くんと色々な話が出来たのに……」

「俺は人と話すのは苦手だけど、別にこの世から居なくなるわけじゃないからな。話す機会はいくらでもあるんじゃないか?」

「えっ?」

「友達なら、別に学校関係無しに会って話せば良いだろ?」

「でも、八戸さんに悪いわ」

「あー、凛恋も一緒なら大丈夫だろ」


 いくら鷹島さんでも凛恋に言わないで会うわけにはいかない。


「八戸さんに、私が連絡先聞いたことも伝えておいてくれる? 変な誤解をさせてしまっては申し訳ないし」

「そうだな。この後会うし伝えておく」


 鷹島さんがスマートフォンを取り出すのを見て俺もポケットからスマートフォンを取り出す。

 連絡先を交換するために通信の準備をしていると、真正面に居る鷹島さんがスマートフォンを操作しながらボソリと口を開いた。


「じゃあ、送ってもらえる?」

「分かった」


 随分前に凛恋から教えてもらった連絡先を送る方法を使い、鷹島さんのスマートフォンに連絡先を送る。

 スマートフォンの画面を少し操作した後に、ポケットへスマートフォンを仕舞う。


「ありがとう。そういえば、転入試験はいつになるの?」

「一二月二五日だ」

「あら、せっかくのクリスマスに大変ね」

「二四日が終業式だから、次の日が都合が良いらしい」

「そう。試験、頑張って」

「ああ、ありがとう」


 連絡先の交換も終わって立ち去ろうとすると、ポケットに入っているスマートフォンが震える。すぐに取り出して画面を見ると、凛恋の名前が表示されていた。


「もしもし?」

『もしもし? 書類は貰えた?』

「さっき貰った。それで今、鷹島さんと話してる」

『……何の話?』

「餞別を貰って、連絡先の交換をした」

『そっか。良かったら鷹島さんもどう? 希と栄次くんも居るし』


 それを聞いて、一旦スマートフォンを耳から話して鷹島さんに尋ねる。


「凛恋が鷹島さんもどうかって」

「私が居るとお邪魔じゃ――」

「凛恋も希さんも栄次もそんなことは思わないから安心していいと思う」

「そう、じゃあご一緒してもいいかしら?」

「分かった。凛恋? 鷹島さんも来るって」

『分かった。校門前で待ってるから』


 電話を切って俺がスマートフォンをポケットに仕舞うと、鷹島さんは長い髪を耳に掛けて涼し気に微笑んだ。




 隣を歩く凛恋は、俺の手をしっかりと握って、俺の顔を覗き込む。


「鷹島さん、ホント良い人だよね」

「ああ」

「凡人の良さをちゃんと分かってくれてる人が居るって嬉しい」


 凛恋がニコニコ笑いながら、俺の腕を抱いて言う。

 鷹島さんは、凛恋の誘いで俺達の雑談会に巻き込まれた。しかし、鷹島さんも基本社交的な性格であるからか、楽しそうに話をしていた。


 文化祭の時に顔を合わせているというのもあるが、女子三人で話が盛り上がり、男の俺と栄次は横で会話を聞いていることが多かった。


「書類は全部揃った?」

「ああ、後は願書と一緒に刻雨に提出するだけだ」

「そっか。私、信じてるからね。絶対に凡人が受かるって」

「ああ、凛恋の応援に応えられるように頑張る」

 応援してくれる凛恋に笑顔で答えてみたが、そう楽観出来るとは言えない。


 欠員補充の枠は一つ。それに対して希望者が何人居るか分からない。普通に考えれば狭き門だ。

 それに、転入希望者が俺だけだとしても、確実に受かるわけじゃない。


「でも、凡人は頭が良いから心配無いよね」

「まあ、筆記はあまり心配してないんだが……面接がなぁ~」


 笑顔の凛恋に、俺はそう力無く答える。

 正直、筆記だけなら受かる自信がある。でも、面接に自信がない。

 面接では、必ず志望の動機を答えないといけない。それに俺は何と答えればいいんだろう。


「本校を志望した動機は何ですか?」

「彼女が居るからです」

「えっ!?」


 眼鏡を持ち上げる真似をしながら凛恋がそう言い、すぐに俺は思い付いたことを答える。すると、凛恋は顔を真っ赤にして露骨に動揺する。


「ご、合格!」

「いや……不合格だろう」


 刻雨に転入する理由は、刻季に居られなくなった。というのが大きな理由だ。でも、それでは確実に落とされる。

 どの高校でも、志望動機はポジティブなことでなくてはいけない。俺が最も不得意なことだ。


「そういえば、田丸さん明日から修学旅行なんでしょ?」

「ああ、ついでに爺ちゃんと婆ちゃんも温泉だ」


 田丸先輩達、刻季高校の二年生は明日から北海道へ修学旅行に行く。それに合わせて、爺ちゃんと婆ちゃんも温泉旅行に行く。

 俺の失声症や不登校の件で、爺ちゃんと婆ちゃんには心労を掛けた。だから、ゆっくり疲れを取って来てほしい。


「平日に行くのって珍しいね」

「ああ、田丸先輩の修学旅行に触発されて、今回は三泊四日らしい」


 大体、爺ちゃん婆ちゃんは俺の学校が休みの土日に合わせて旅行に行くことがほとんどだ。ただ、今は俺が学校に行ってないから、平日に行ってもあまり変わらない。


「ねえ、凡人」

「ん?」

「明日から田丸さんもお爺さんもお婆さんも居ないなら、夕飯、家に食べに来ない?」

「え?」


 凛恋の申し出に戸惑う。凛恋の家に遊びに行くことは何度かある。でも、夕飯はずっと遠慮していた。

 いくら彼女の家だとしても、家族の場に赤の他人の俺がズカズカと入り込むのは気が引けたからだ。

 優愛ちゃんとはうちにも遊びに来るからよく話す。でも、凛恋のお母さんとは家で会った時に挨拶と少しの会話を交わすだけだ。

 そして、凛恋のお父さんは、俺が歩道橋の階段から落ちた時に、病院で一度会っただけだ。


 人との会話がそもそも苦手な俺が、彼女の家の夕食に招かれ、彼女の両親を前にして無難な対応が出来るわけがない。

 絶対に何か粗相をやらかして、凛恋の両親に悪い印象を与えてしまう。だから、怖じ気づいていつも断っていた。


「大丈夫よ。私が付いてるし。それに、凡人は家族に評判良いし! お母さんは凡人くんは良い子ねって言ってるし、お父さんは私と顔を合わせる度に、優愛を助けてくれたお礼もしたいからうちに連れてきなさいって言ってるのよ? だから心配しなくても大丈夫」


 繋いでいる凛恋の手に入る力が少し強まり、凛恋の温かさがグッと近くなる。


「それにさ……少しでも凡人と一緒に居たいし」


 顔を真っ赤にして言う凛恋。俺はその凛恋の手を握り返して、手を引っ張って更に凛恋の温かさを自分に近付ける。

 凛恋は、少しよろけながら俺の腕を抱いて自分からも近付いてくれた。


「じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔しようかな」

「うん! 美味しいご飯を作るから楽しみにしてて!」


 ムギュッと頬を俺の腕に押し付けて来た凛恋が、華やかな笑顔で言う。

 その笑顔を見て、俺はさりげなく凛恋の方に更に身を寄せる。そして、凛恋の温かさをより強く感じていたら、面接の不安もいつの間にかどこかへ消え去っていた。

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