【四〇《転機の選択》】:二

 俺の母親は人を騙す犯罪者だ。だから、俺は犯罪者の息子になる。


 犯罪は悪いことだ。罪を犯した者はその罪を償わなくてはいけない。そして、実の母親が、血の繋がりのある人間が罪を犯したことを、今まで生きてきて初めて会った人だからとか、物心が付く前に俺の前から消えたからと言って関係ないとは言えない。


 絶対に、何があっても凛恋は守らなきゃいけない。

 どんなに辛いことがあっても悲しいことがあっても、痛くても苦しくても、絶対に凛恋だけは守らなきゃいけない。

 凛恋だけは、何を差し出しても、守らなきゃいけない。たとえ、それが俺の命でも。


 だから、俺の個人的な幸福は、当然……差し出さなきゃいけない。

 テーブルに置いたスマートフォンを手に取り、スマートフォンに内蔵されたメモ帳のアプリケーションを起動する。画面に出たキーボードを震える手でタッチして、俺はその言葉を打った。


『別れよう』


 俺はその四文字が表示された画面を凛恋に向ける。それを見た凛恋は、視線をスマートフォンの画面から外して俺に身を寄せた。


「今日、里奈が別のクラスの男子に告白されたの! 里奈には彼氏が居るから断ったんだけど、これで私の友達が告られるの最近になって四度目よ。文化祭が終わってからさ、メイド服着て接客してた子達いっぱい告白されてんの。結構男子って単純よね」


 クスクス笑って楽しそうに話す凛恋を見て、俺はもう一度スマートフォンの画面を見せる。


「そう言えば、萌夏も里奈も凡人に感謝してたわよ。やっぱり凡人の言った通り温かい飲み物の売れ行きが良かったって。多分冷たい飲み物だけじゃあんなに人気出なかったと思うし。特に萌夏は家が喫茶店じゃない? だから、家がお店やってる私が気付かなかったのはないわ~ってちょい凹みしてた」


 学校であった出来事を話す凛恋に、俺はもう一度スマートフォンを操作して文字を打とうとした。


「――ッ!?」


 操作しようとした俺の右手を、凛恋の右手が手の甲で弾く。その衝撃で手からスマートフォンが落ちた。


 ゴトッと鈍い音を立ててスマートフォンが床に落ち、それを拾おうとした俺の手を凛恋が掴む。凛恋は俺の腰の上に馬乗りになって上から俺の両手首をベッドの上に押し付ける。そして、俺の顔を見下ろした。


 上から乱暴に重ねられた唇に、俺は全身がまるで鎖で縛り付けられたように固まる。視界の下では、俺の手から手を離した凛恋がブレザーを脱ぎ捨てリボンも外し、ブラウスのボタンをプツプツと手早く外していく。


 ブラウスも脱ぎ捨てて下に着ていたキャミソールも両手で捲り上げて脱ぎ捨てる。露わになった、ピンク色のブラの後ろに手を回した凛恋が、プツッと軽い音を立ててホックを外す。


 ゆっくりブラから手を抜いて脱ぐ凛恋から視線を逸らす。それを見ることに酷い罪悪感を覚えたからだ。俺なんかが見て良いことじゃないと思った。しかし、視界の外ではベルトを外す音とスカートのファスナーを下ろす音が聞こえる。そして、ドサッと俺に凛恋が倒れ込んできた。


 上から俺に体を密着させる凛恋。俺の胸には凛恋の柔らかい胸が当たり、顔の両側には凛恋の長く綺麗な金髪が垂れ下がる。凛恋の髪からは女性らしいシャンプーの甘い香りが漂う。

 まだ体の呪縛が解かれない俺は、ただただ固まっていることしか出来なかった。正面にある凛恋の顔がゆっくり近付き、今度は優しく俺の唇を塞ぐ。


 優しく凛恋の柔らかい唇で俺の唇が挟まれ、啄むように小刻みに軽いキスが繰り返される。その度に、そのキスが繰り返される度に、どんどん俺の心の器に辛さが流れ込んでくる。


 もし、俺が凛恋の手を離したら、きっとすぐに凛恋には新しい彼氏が出来る。それも、俺なんか比べものにならないくらい普通で良い彼氏が。

 そうしたら、この凛恋の優しいキスも、その彼氏のためだけのものになる。


 甘い香りの漂う綺麗な髪を手ですくのも俺の知らない誰かがする。凛恋の滑らかで綺麗な肌を撫でるのも俺の知らない誰かがする。凛恋の絡みつくような深いキスも誰かのものになる。抱き締める凛恋が漏らす吐息も甘い声も、全部俺以外の誰かのものになる。


 それを想像するだけで、小さな、ひび割れた俺の心にどんどん辛さが流れ込んでくる。俺はその器で必死に辛さを受け止めようとした。

 でも……ひび割れた心の器では、そんな途方もない量の辛さは受け止めきれなかった。


 凛恋の舌が絡みつくキスを受けながら、目尻が熱くなり湿り気を帯びるのを感じる。そして、スッと頬を雫が伝った。

 その一つ目の雫が流れ道を作ったことで、辛さから悲しみに変わり、悲しみから涙に変わったそれを押さえられなくなった。


 ポトリポトリと涙の雫が落ちて枕を打ち鳴らし染み込んでいく。


「……?」


 俺の頬に、上からポトリポトリと熱い雫が落ちてきて、俺はその雫の先に視線を向ける。そして、一瞬見えた光景はすぐに歪み、俺の視界はもう涙で見えなくなった。

 一瞬見えた視界には、涙を流す凛恋の顔が見えた。もう、それで、何も見えなくなった。



 俺は弱い人間だ。

 あんなに慣れたと豪語していたストレスに負けて、学校へ行くことも出来なくなった。あんなに慣れたと豪語していたストレスに負けて、声が出なくなった。


 そんな弱い人間の俺が、最後に見せようとした強がりも、簡単に折れた。大好きな人のためだと思って自分に向けた刃を、少し自分に触れただけで投げ捨てた。自分が傷付くことを怖がった。

 手を離せば幸せに出来た彼女を、俺は手放せなかった。


 俺は自分勝手な人間だ。自分が幸せで居たいから、いや……自分以外の男に彼女の全てを触れさせたくない、ただそれだけで彼女を自分に縛り付けた。彼女の幸せよりも、自分の幸せを選んだ。


 視界の下で涙を流しながらキュッと目を瞑り、唇の隙間から甘い声を漏らす彼女を見て高揚する。

 こんなに魅力的な人を、自分だけのものにしているという利己的な感情に支配される。

 そして、より彼女を自分だけのものにしようと、彼女を衝動的に傷付ける。

 強く抱き締め、激しく抱き締め、彼女が苦しそうに声を漏らすのにも構わず、彼女が自分のものである印を、痕跡を付けようとする。


 そんな、自分よがりな俺の心は真っ黒になる。でも、真っ黒な心でもホッとしてしまう自分が居た。

 でもそれは、俺の傲慢さの表れだった。だけど、それがどうでも良くなるくらい、俺は彼女を抱き締めた。


 ただ彼女を、凛恋を誰のものにもさせたくなくて、誰も手を出せないように自分の醜悪さで汚したくて。

 ただ、彼女に、自分の側にだけ居て欲しくて。


「凡人……凡人……もっと、もっと激しくっ……」


 下から聞こえる彼女の声を根拠に、自分の罪を肯定して。



 抱き合う凛恋の体には汗が滲む。その汗が滲む肌は俺の肌にピッタリと張り付き、それを利用して俺は凛恋の体を自分に引き寄せて独占する。


「んっ……」


 唇を重ねて舌を絡め、再び凛恋の体をベッドに押し付けようとする。しかし、凛恋が慌てた様子で俺の両肩を押して俺の体を押し離す。


「ちょっ、ストップストップ! 流石にもう無理! 体力保たないって!」


 そう言われて体を離してベッドに体を横たえると、真正面から凛恋が抱き締めてくる。


「でも、チョー嬉しかった。凡人が退院してからずっとエッチしてなかったし。それに、凡人があんなに激しくするの久しぶりだったし。凡人のものにされてるって伝わってめちゃめちゃ幸せだった」


 そう言ってはにかんだ凛恋は、俺の顔を見て悲しく笑う。


「別れるなんて嘘でも言わないでよ。めちゃめちゃ悲しいじゃん。それにあんなに辛そうな顔して言われても全然納得出来ない」


 凛恋は身を寄せて俺の胸に額を付ける。


「言ったでしょ。ずっと凡人の側に居るって。ずっと凡人のことを必要にするって。絶対に凡人のことを一人にさせない。凡人が一人になりたいって言ってもさせてやらないんだから。絶対に絶対、凡人を独りぼっちになんてさせない」


 凛恋は俺の手を自分の腰に回させる。俺は回された手で、無意識に凛恋の腰を引き寄せた。


「凡人、とりあえず服着よっか」


 凛恋がベッドの上にあひる座りをして脱ぎ捨てた服を拾い上げる。それをジッと見ていると、凛恋はニヤッと俺を見て笑う。

 それを見て視線を逸らすと、横からニコッと笑った凛恋が視界に入ってくる。


「そーいうところで恥ずかしがるの、やっぱり凡人らしい」


 凛恋が着替える姿をボーッと見ていると、着替えを終えた凛恋に額を指先で突かれ笑われる。


「こらー、彼女の着替え見てばっかりで、凡人は着替えてないじゃん」


 凛恋はベッドから下りて、キャビネットから俺の服を取り出し、俺の前に持ってくる。そして、俺の目の前にまたあひる座りをしてニッコリ笑う。


「はーい、お着替えしましょーねー」


 そう言いながら凛恋に、頭の上からTシャツを被される。

 息苦しさを一瞬感じてTシャツから顔を出すと、軽く唇にキスをした凛恋が俺の頭を何度も撫でる。


「大丈夫。凡人が私のこと守ってくれたから今度は、凡人のことちゃんと私が守るから」



 居間に正座して、正面に座る爺ちゃんを見る。しかし、爺ちゃんの視線は俺ではなく、俺の隣に正座する凛恋に向けられている。

 凛恋は着替えがすんだ後、爺ちゃんと婆ちゃんに話があると言って居間に集まった。今、婆ちゃんはお茶の準備をしている。


「はい、凛恋さん」

「ありがとうございます」


 温かいお茶を婆ちゃんが持って来て凛恋の前に置き、爺ちゃんと俺の前にも置く。

 全員にお茶を配り終えた婆ちゃんが爺ちゃんの隣に座ると、爺ちゃんが口を開いた。


「凛恋さん、話というのは何かな?」


 爺ちゃんは相変わらず凛恋には穏やかな口調で優しく話す。だが、凛恋の表情は険しく、穏やかさはない。

 爺ちゃんに尋ねられて少し間を置いて凛恋は話を切り出した。


「凡人を、刻雨高校に転校させませんか?」


 俺は、凛恋の言葉に戸惑った。全く予想もしていなかった話だったからだ。でも、小学校や中学校と違って高校が、そんなに簡単に転校が出来るとは思えない。

 俺は刻季の普通科に通っている。だからもちろん普通科から他校の専門学科に転入出来るわけがない。仮に同じ普通科だったとしても、学校によって授業の進み方が違うから簡単に転校出来るとは思えない。


「私、高校の転校について調べたんです。高校の転校は条件が厳しいです。でも、凡人ならその条件もクリア出来ます」

「高校の転校には、県外からの移住、県内における移住、特別な事情による転校、積極的な理由に基づく転校のどれかの条件に合っていなければ不可能だね」

「はい。凡人は……その……特別な事情による転校になると思います」


 急に歯切れを悪くした凛恋の方を見ていると、前から爺ちゃんの声が聞こえた。


「特別な事情には、学費が払えなくなった、病気で通学が困難になった、あとは”いじめによって通学が困難になった”だね」


 爺ちゃんの言葉に凛恋は俯き、チラッと視線を俺に向ける。そして、すぐに俺の手を力強く握った。


「凡人が刻季の男子に怪我をさせられたことは、大きなニュースにもなりましたし事件にもなりました。だから、十分転校をする理由にもなります。それに、もうすぐ二学期が終わります。だから、三学期前にある転入試験を受けられます」

「凛恋さん――」

「凡人は成績も優秀です。それに、今日進路指導の先生に確認して来ました。三学期に向けて欠員募集を出すそうです」


 凛恋の表情は真剣で冗談を言っているようにも見えなかった。いや、凛恋はそんな冗談を言うような人じゃない。

 それに気になるのは、爺ちゃんが高校の転入学に詳しいことだ。まるで、爺ちゃんも凛恋と同じように高校の転入学について調べたようだ。


「凡人、お前はどうしたい?」


 爺ちゃんに問われて、俺は視線を座卓の天板に落とす。

 転校するなんて考えもしなかった。だから、どうしたいと言われてもすぐに答えは出ない。


「まだ時間はある。ゆっくりと考えなさい」


 爺ちゃんは俺にそう言って、凛恋に視線を戻す。


「凛恋さん、決めるのは凡人だ。凡人が答えを出すのを少しばかり待ってはくれないか?」

「はい。もちろん待ちますし、私は凡人が何を選んでもずっと凡人の側に居ます」

「全く、凛恋さんは凡人には勿体無い人だ」


 爺ちゃんが腕組みをして凛恋を見ながら頷く。その様子を見ながら、俺はまた天板の上に視線を落とした。

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